幼なじみ最強説

こういうのもフェチに分類されるのだろうか。
ありきたりと言えばそれまでなのだが、
これまでの歴史で名作を名作に仕立て上げる一つの要因として
存在し続けているテーマであることは間違いないと思うのです。

「幼なじみ」
一定数の憧れの的で在り続けていながら、
現実を見渡すと実は結構レアな存在。
そう、意外にいない気がする。幼なじみがいるっていう人。

そもそも、いつから一緒にいる人のことをそう呼称するのかも曖昧だ。
例えば高校や大学時代に知り合ってそれから生涯に渡って友人で在り続けたら、その人は幼なじみと言っていいのか?

ダメってことは無いと思うけど、でも、「うーん」と首を捻ってしまうのは私だけ?
それは生涯の友ではあっても幼なじみではない!と
個人的こだわりが声をあげる。

あの、「幼なじみ」という響きだけが持つ魅力は、
一体全体どこから放たれているのでしょうか。

「恋愛」と「友人」との間には明確に線引きがされるのに、
なぜ幼なじみが絡むと高確率で恋の香りが漂うのでしょう。

いやそれはおたくが勝手に期待しているだけですよ、
お前の潜在意識がそうさせてるだけだから!と言われたら
こちらとしてはああそうですかと引き下がることしかできない。

でも、それでも幼なじみが持つ何かしらの魔法を信じたい!
だってそうじゃなかったら、「幼なじみ×恋愛」がこれだけ量産されてきた歴史が説明できないじゃないですか!

プロポーズ大作戦の健と礼、金田一少年の一(はじめ)と美雪、
キャプテン翼の翼と早苗、タッチの達也と南。

何なのだろう。この人たちの魅力。
もちろん全体の物語のすばらしさありきだけど、
確実にスパイスとして大きな影響を与えている。

これは単なる私の好みの問題なのか(まあ、それもあるでしょうけど)。
それとも普遍的に影響を与えるテーマなのか。

この堂々巡りに、北代が拍車をかけやがったのですよ。
『恋は光』ね。映画館で観ましたよ。

久しぶりにみたよ、あんな完璧な幼なじみ。
もう観てから3,4日経ってるけど、
全然頭から離れないもん。
映画観終わったのに、youtubeで映画の予告編とか漁っちゃったし。
何なら公開記念の記者会見とかもみたし。
これはなあちゃん(西野七瀬さん)見たさもあったけど。

当然これだって作品としてすごく良かったので、
その大前提ありきの話だけど、
それにしたってあの北代は完璧すぎやしないか。

でも、幼なじみの難しさと魅力は
「自分にもいればよかったな」だけだと
ちょっとだけ説明が足りないと思うのです。

映画やドラマ、漫画で描かれるそれに対して私(たち)が思うのは、
自分にも「あんな」幼なじみがいれば…なんだと思うのです。

幼なじみが永遠にもどかしく、居そうで居ないラインを保っているのは
消費側のわがままを刺激してくるから、ではないでしょうか。

こうして書いたって答えが出るはずもなくて、
だからマジでもう一回、『恋は光』観に行こうかな。

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