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自分がかわいい

一週間前に投稿して以来。いよいよ入試がスタート。塾の頑張り時。入試の実績が、その後の利益にも影響することもあり…。

塾内のスタッフたちの議論も白熱している。最後まで子どもを走らせるわけだから、まさに侃々諤々という感じ。

「なかなか必死でいいじゃないの」と感じられるかもしれませんが、私としてはちょっと違和感。そして、その違和感に何となく気づいた。

・私が意見(どっちかというと批判)すると、感情的に反論される

・逆の立場になると、私もいい気がしない(充分受け入れられない)

白熱する議論が多いものですから「くそぅ、くそぅ」と思うことも多々。しかし、毎度毎度同じ目線の高さで戦っていたら、互いに神経が持たないので、考えてみた。

そうしてたどり着いたのが「誰もかれも、自分がかわいい」という当たり前のこと。

責められた側が、自分を守るがために排他的になるのはなんとなく予想できること。

しかし、責める側もまたしかり。相手が排他的になるくらい責めるということは、完膚なきまでに負かすに近いもの(と私は思っています)。ではなぜ、そんなことをする? そこまでして認められたい? そこまでして自分の力を見せつけたい? 打ち負かす姿を見せて「すごい」と思わせたい?とすると、相当つまらないやつになる。

その原因は何か?

そう問われれば、「余裕がない上司が増えた」が正解の一つに思う。

「余裕がない」を言い換えれば、「対応力が低い」になる。

いろんな意見が飛んできたときに、さまざまな方面から瞬時に考察できる頭の回転の速さがない(いろんなバッターに対応しないといけないのに、ストレートしか球種がないので、ムキに投げているに近い)。

そして、「対応力の低さ」は「経験不足」、さらに言い換えれば「修羅場の経験不足」となるだろう。人としての厚みが出るのは、どれだけたくさんの経験をし、思考したかにかかっている(かつてそんな内容の投稿もした)。

そして、「余裕のない者たちの宴(笑)」がここ最近開催されている。

とはいえ、笑い事じゃないんだよな。人の人生を預かるわけだから。

でも、改めて思う。「修羅場を潜り抜けた者こそが、本当にやさしくなれる」と。

公平無私とはいい言葉だ。

自身のプライドとか、立ち位置とか、周りからの見られ方など、いろいろあるのだろうが、仕事というのはオフィシャルの場。プライベートのように自身を出すべきではない。仕事が目指しているのは、あなたの感情どうこうではなく、「いくら利益をあげたか」なのだから。そのために役に立つ自分を出すのは結構だが、一歩道を踏み外すと、チームワークが崩壊する。

余裕がなくて感情的、そんな人に困ったことはないだろうか?

「はいはい、自分だけがかわいい程度の人ね。」とか思うと、ずいぶん見方が変わり、気持ちが軽くなるので、おすすめである。