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 『最初の一品』

 飲食店が多い街、中目黒。私はかれこれ20年以上この街に通っている。仕事帰りの夜、自分だけのひと時を求めて馴染みの店ののれんをくぐる。お気に入りは線路沿いの「ごっつぁん」という炉端焼き屋。この店はいつも温かく出迎えてくれるおかみさんと、小柄で気さくな店主、そして「かなめ」という息子の3人で営んでいた。

 一皿はどれも350円。この街にしては財布に優しく、いつも常連でにぎわっていた。炉端を囲むように丸椅子が並ぶ9席ほどのカウンターと、4人掛けの小さなテーブルが3つというこじんまりしたお店。いつも旬のものがカウンターに並び、その中から好きなものを注文し、目の前の炭火で焼くというシンプルなスタイルだ。

 私が席に着くと、おかみさんが「いつもの生ね」と笑顔で肩をポンと叩いて生ビールを出してくれる。いつもこの店で頼む最初の一品は決まっている。殻付きのホタテ焼き。大きくて肉厚で、炭火で焼くとふっくらとして、頬張ると中からホタテのうま味が「じゅわっ」とあふれ出る。

 ビールとともに、このホタテのうま味を一気に流し込むとき、生きている実感と幸せを感じるのだ。ホタテを食べ終えたら、次は旬のものへと移る。春はタケノコ、秋はサンマ。この旬な素材とうまい酒、ほんのりと暖かい家族的な雰囲気で過ごす時間は至福の時以外の何ものでもない。

 20年間通い続けたこのお店に幾度となく励まされ、明日への活力をもらったことは数えきれない。この店の跡地を通るたびに、思い出す風景がある。この店は店主が高齢のためということで、2年前の年末に閉店してしまった。そのことを知らずに、いつものビールとホタテを求めて向かった店の軒先で閉店の張り紙を目にしたときは、「えーっ」と思わず声が漏れた。長年世話になったおかみさんと店主、息子のかなめに挨拶できなかったことがとても悔やまれた。

 息子のかなめは無口で従順で、おかみさんと店主をよく支えていたと思う。そんなかなめが一度だけ、店主に向かって「それなら親父がやればいいじゃないか!」と奥の厨房から大声で怒鳴り返したことがあった。何が理由かわからないが、普段温厚なかなめが大声を出したので、常連客は何があったのかと、みんなで店の奥を覗き込んだ。

 家族で店をやるのも大変だなぁと思いながらいると、店の奥からおかみさんとかなめの話し声が漏れ聞こえてきた。

「かなめ、いつものことじゃないの。おまえがいつも丁寧に仕込んでくれてるの、かあさんわかってるわよ。この程度で心を乱す男じゃないでしょう。」

 家族ならではの些細な会話。よくある親子喧嘩。細かいことはわからない。家族でやっていくのも大変だ。近い関係だから、余計に葛藤が生じることもしばしば。酒も回っていたので、この何気ない会話の中からにじみ出る、おかみさんの息子への愛情に涙がほろり。思えばこの店の看板メニューは家族で営む昔懐かしい風景だった。そして、この店の「かなめ」はおかみさんの愛情だった。

居酒屋でホタテ焼きを見るたびに、懐かしく思い出す「ごっつぁん」の思い出。長い間、お世話になりました。そして、美味しいホタテと家族の温かいぬくもりを「ごっつぁん」でした。

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