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論文「9/11を見て」 ※全文掲載 (拙書「山下眞史心理学医学哲学」より)

 一昔前ならいざしらず、今では無音の倒壊は、小さな子供でさえさほど驚きはしなくなってしまったかも知れません。すべてと言っていいほど感覚に頼る世代の感覚に、制限などは皆無なのでしょうか?感じで人を貶め、感じで殺め、感じで自らの没落から目を逸らす。 

 今はまるでゲームのように殺人が行われている。精神医学者によれば、自分自身の存在に価値を見出せないのが主原因だそうです。自分の存在が軽く感じられるので、他人の、第三者の存在も自分同様に軽く思えてしまう。悲しいことです。 

 ではそう思うようになってしまう原因とは一体なんなのでしょう?全てが不景気に原因があるとは思えません。存在が軽い。生きることが軽い。生と死は表裏一体、絶対的相対関係にあります。生が軽いのならば、当然死に対する姿勢も同じにならざるを得ない。そうなれば生き方に迷うというのならば、死に方に迷っている、不安があるということも言えそうです。  

 その死を連想させるものとして今失われつつあるもの、それは闇です。様々な問題の根本は、もしかしたら闇夜がなくなってきたからではないでしょうか? 

 この世の真っ当な暗闇は、あのエジソンのおかげで自然に手に入れられることが出来なくなってしまいました。あの自由に浮遊している雲が、太陽に光を反射して地上の温度を下げる役目を果たしているのと同様に、地球の自転によって夜の間は気温が下がります。暗闇は気温の調節もするのです。その夜は電灯によって犯されつつある。 

 また暗闇は恐怖、不安、死等、人々を不安にさせる役割も果たしていす。人は平穏を求めつつ、どこかで不安定を欲する不可解な生き物なのでしょう。ですから無意識のうちに、精神のバランスをとらんがため、昼間に暗黒を生み出そうとしているのかもしれません。 

 それにしても、エジソンは月に代わって、闇夜を半永久的に破壊する権利を人類の手に与えてしまったともいえる。まったく後先考えずにたいそうなことをしてくれたものだ。 

 マクルーハンのいうグーテンベルグの活字の発明が、それまでは言葉を音で認識していたものを眼で認識するようになり、記憶力の低下とともに、聴覚空間の時代から視覚世界へと移行した。そしてバランスを保っていた感覚の内、視覚にかなり負担を与えた。 

 それからというものの、ある程度のバランスを保っていたが、人間の感覚の外化したもの全て(マクルーハン)―の発達に伴ない、元々歪んでいた人間の本能に更なる狂いが生じ、一端淘汰でもされない限りはもとに戻らないところまで行ってしまったということだろう。環境の発達に気を取られ、自らが進化するポイントを見失ってしまったのだ。 

 人類の進化ということで言えば、自由論のミルによると、『交通網の発達』さえも進化の妨げになるそうだ。それが正しいとすれば、20世紀は人間の進化の妨げになることばかりやってきたということか。まあ全ての責任を文明開発者に帰結するのは、彼らの残したものに享受していることから考えると、少し気の毒な気がしないではないが。 

 また最近は混沌の時代だかなんだかしらないけれど、色々な方面でちょっと行き過ぎてはいないだろうか?時代は繰り返すものさ、なんだかんだいって落ち着くところに落ち着くさなどと、人間本来の理性、自己保存本能に賭けてみたい気もするが、今のままではまず勝ち目はないだろう。原因は多々あれど、これだけ個人主義が横行してしまっていては、すべてが個々の自由という聞き心地のよい言葉が邪魔をして、歯止めを利かせる術がないのではないだろうか?…」 

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此れも、二十代前半に書いた随筆もどきです。完成出来ていませんが、それなりに書けてはいると判断し、汚点を晒す覚悟で見て頂きます。よろしくお願いいたします。

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