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インターネット社会で「隠れて生きる」前半


エピクロスは、世俗的な事から身を隠し、自身の必要な快楽を求めて生きよと言った。
では、隠れて生きる事は可能なのか?
隠れて生きるとは、「物理的に隠居」すると捉える事もできるが、これは現実的で無い上に、本当に隠れて生きようと思えば、文明を遮断した上で生きる形になる。
「物理的隠居」は余計な精神的リソースに負荷がかかり、エピクロス的生からは、遥か遠ざかり、結局は世俗的な生活を強いられる事になる、それではなんの意味も無い。
仏教的生(無欲的な坊主の生)はプロの荒療治であって、我々一般人にはかなり難易度の高い挫折要因の多いカテゴリーだ。

インターネットがある以上、いやでも広告や、不安を煽る記事には遭遇する。
インターネットを使いながら、不快な記事や広告は定期的に遮断する。
それが、IT社会における「隠れて生きる」なのかもしれなく、より良く生きる事なのかもしれない。
インターネットに警笛を鳴らす連中が、インターネット断食と称して山籠りをしたり、孤島で暮らす?ような物がはやったが、あれではただの「免疫暴走」であり、一過性のエクスタシズムにしかならず、一般社会を生きる人間にとってはなんの意味ももたらさないどころか、断食から解放されたリバウンドは凄まじいものになるだろう。


快楽や欲望は非常に厄介なもので、
それを克服するのはかなり骨が折れる。
古今東西、それを克服するために様々な知識や宗教の歴史だ。
昔も今も自らを滅ぼす要因は欲望や快楽が密接に関わっている。
インターネット社会で欲望を誘発するのは、インターネットの広告であったり、SNSのバズりだだたりする。
この記事では、スマートフォンや、SNSが人間にどういう影響を及ぼすかは言及しない。
私は脳科学者でも無ければ、精神科医でも無いので、それらがどういった影響を及ぼすのかを知りたい方は、別途そういう記事や書籍を閲覧して下さい。
快楽や欲望がインターネット社会と密接に繋がっており、時には身を滅ぼすという、前提をおいて話を進めます。
そして、その

インターネット社会から「隠れて生きるために抑えておきたいワード


インターネット断食=仏教的
インターネット節度=エピクロス的
仏教=無欲
エピクロス=欲望コントロール

エピクロスの欲望感

  1. 自然であり必要な快楽

  2. 自然であり、必要の無い快楽

  3. 自然でも必要でも無い快楽

インターネットを無くして暮らすのは不可能だ。 上記のように仏教的にそれを断絶したとして
、違う問題が出てくる。 この記事のテーマはいかにエピクロス的 「隠れて暮らす」がテーマであり、 精神的不可を無くすことが重要なわけだから、 インターネットを断絶したことで別の物質的、精神的問題が発生しては、本末転倒なのだ。

それほどインターネットというものは、水や電気などのライフラインと同等なのだ。

私の活動領域も100%インターネット上による活動なので、 それが無くなるとすると、いささか具合が悪くなる。 まあ、それは考えずらい事ではあるが、、

問題なのは「使う」事ではなく、「使い方」なのだと思う。

SNS は承認欲求の行き交う疲弊する場所だ。



Twitterでは日々いろいろな人達が色々な投稿をしている。

中には気分を害するものや不安を煽るものが散見される。 簡単に人と比べる事ができるし、 調べ方によって一喜一憂できるのが常なのだ。

SNS の閲覧やいいねはドラッグと同じを及ぼすと言う。 これはエピクロス的に言えばどんな快楽なのか?

3:「自然でも必要でもない」 
快楽ではないだろうか? 自然でも必要でもないどころが害を及ぼす快楽だ。 
いいねやフォロワー数はより大きな快楽が得られるかもしれないが、

それが少ないと不安や不快な気持ち、自己肯定感の低下が現れる。

例えば、絵師などがわかりやすいかもしれない。 自分と似たようなジャンルの絵師が、
自分よりも多いフォロワー、 いいねを獲得するとなると、 自己肯定感の低下及びその不安はより大きくなる。 
それが精神衛生上いいとはあまり言えないかもしれない。
承認欲求はアーティストにとって必要不可欠なものだし、それがより一層絵師を成長させるのも事実であるが、そこに依存すれば、破滅するのも事実だ。
大多数に評価軸が単一化する。
評価軸が単一化すると言う事はそれだけ競合する相手がたくさんいると言う事だ。
大多数が価値あるものを描こうとすればするほど、その絵の評価軸は単一化し、領域が狭くなる。
評価を外部依存と、単一化により、一層アーティストを疲弊させる。 
スマホを開けばそのたびに自分より上手な自分より多いフォワーの数そのたび精神的不可がかかってしまえば、 じぶんが求めるよりいい絵を描くどころではないだろう。

SNS の問題


「SNS 断食」 「SNS 中毒」 世のメディアの記事はこの二元論が大好物だ。 「SNS 断食」 というのも、昨今の 「SNS 中毒」によって現れた 「SNS疲れ」 の反動なのだろう。

SNSを楽しむとなると、それだけ膨大な情報量が脳に入ってくる事になる。

これだけでも人間にはかなりの負荷がかかってしまうのは誰にも明らかだ。 それに加えて、感情を揺さぶる広告や投稿があると、
さらに疲弊する。 
仕事や勉強のリフレッシュがてら開いたスマホで、さらに疲弊するという悪循環は確かに 存在する。

こんな状態で、どうやって「隠れて暮らせる」 だろうか。

この悪循環を、無理なくコントロールするのが「隠れて暮らせる」ためのキーになると思う。

エピクロス的にいえば、「自然でも、必要でもない」 快楽の反動によって疲弊するのが、「SNS
疲れ」の実態であり、 解決しなければならない事項なのだ。

しかし、「抑え込むという断食的」で仏教的な方法は、 現実味が無さすぎる。

SNSの使い方をコントロールする事 「隠れて暮らす」 といっても過言は無いだろう。 
それが困難なことも事実だ。 
欲望や快楽をコントロールするには 「把握」

エピクロス的な快楽のコントロール方法と、 
仏教的な快楽のコントロールの大きな違いは、 
積極的にその欲望や快楽を言語化し、
現実的なフローに落とし込み理解、 把握する事だ。 
仏教は自身をコントロールするために 「瞑想」 を進める。

「瞑想」はより肉体的に物事を観察、 
「把握」 によって色々な感情をコントロールする。 
「怒り」という感情があれば、
その所在がどこにあるのか、無心で眺め、
把握する。 
確かにその仏教的生のメソッドである「瞑想」なら、
自分自身に内在する感情をコントロー ルできるかもしれない。 
エピクロス的生も感情をコントロールするかもしれないが、仏教的生より、 かなり現実味が
るし、実践的なのだ。
エピクロス的生のポイントは快楽の把握とその言語化 だ。
「SNSでいいねがもらえないという不安状態」の状態の対局にあるのは、いいねがもらえることによって得られる快楽だ。

いいねの数は、自分がいいと感じたものを制作した時間を、他者評価によって整合化するための立派な判断基になりうる。 
その数が多ければ多いほど、
その時間に対して定感が生まれる。 
逆にそれが伴っていないと、自分の制作した時間の損失及び徒労に思えてしまう。

他絵師のいいねが多ければ多いほど、より一層如実になる。

SNSで活動する以上、ブロガーであれ、 絵師であれ、youtuberであれ、
フォロワーの数は絶対的な価値基準になりうるのは事実だ。

その数を増やそうと活動をしていくのは、自然である。 
しかし、それが絶対的基準になる以上、それが上下すれば、精神に負荷がかかる。

しかし、SNSの活動において、フォロワーの数は絶対的な価値とまでは言わなくても、大きな価値がある事は事実な事を理解しよう。

すると、こんな声が聞こえてきそうだ、 「そんな事誰でも知ってることだ。」 

そうだ、それは誰でも知っている事だ。 SNSで活動している以上、フォロワーの数は必要な指数だし、
その数や知名度によって再生数も左右されるのは今時小学生でも知っている事実なのだ。 

それでは何故そこで疲弊するのか?それは知らず知らずのうちに快楽をコントロールされているからだ。

ではどうやってそのSNSによる精神的負荷を解消するか?

それは「自分はSNSのいいねがほしいけどもらえない、 フォロワーも増えてほしい」と「把握する事だ。 これは把握の第一段階だ。 」
お前ふざけてんのか?ぶっぱすぞ!! と思ったかもしれない。

だけど、その自分を把握する事が快楽をコントロールする第一歩なんだ。 
なにか事象が起きた時に、物事を冷静に見つめることは当たり前の事だ。

でも、この「把握」 するという冷静なスタイルを維持している人は意外と少ない。 
そんな当たり前の事ができないから、
「SNS 離れ」や 「SNS疲れ」 なんて事象が起きるんだ。

そして、第二段階は、その自分が欲する快楽がなんなのか 「把握」 することだ。

いいねやフォロワー数が増えたことによって得られる快楽は、承認欲求が満たされ、 自分が肯定された気分に浸れる快楽だ。

そうすると、 自分はその快楽に踊らされていると気付ける。 第三段階は、その評価価値は所詮 「運」 であるづく。

「運」であると理解すると、自分の価値評価が妥当であるかわからないという事だ。 自分がいくら素晴らしい作品を投稿したところで、全て運であるから、そこにしても仕方ないと「把握」することができる。

その運は、価値評価が単一であればあるほど、競合がたくさんいるという事だから、それが認知される確率も自然と下がる。
それはごく自然の事であり、その答えを厳密に知るには、統計の知識が必要であり、下手したら専門家の意見が必要だ。
価値評価ぎ単一と意味が分かりづらいが、例えば、初音ミクの絵を描くのが大好きな人が多いし、それを好む人も勿論多い。
それだけ、需要(ニーズ)があるという事はそれに対して供給の数は多くなる。
第四段階は第一段階-第三段階の把握を踏まえると、自分が快楽を求めれば求めるほど、それらは運的要素に快楽を委託させているわけだから、
より一層、自らを不自由にしているのだ。
簡単にまとめるとこうだ。

第一段階:「自分はSNSのいいねが欲しいけれど、もらえないフォロワーも増えて欲しいという気持ちを把握する。

第二段階:「その自分が欲する快楽の正体」はなんなのか?それは承認欲求であり、承認欲求という快楽は他者の価値評価の総数が多ければ多いほど、高くなる。逆に少なければ、大いなる不安が襲う。

第三段階:それらの承認欲求を手に入るには、大いなる「運」要素が大きい。

第四段階:運要素が大きい故に、手に入れづらい快楽であり、それ自体が大きいものであっても、その快楽への欲望がより一層自分を苦しめると理解する。

エピクロス的にいえば、「運」で手にいれられる快楽は入手困難なため、自らを不自由にする。
ここで誤解して欲しくないのは、
運だけでその世界で成り上がれるという意味ではないという事だ。
ただ、実力が一定あったとしても、他者も同じように実力が有れば、あとは「運」だ。
運要素がたかければ、高いほど、その快楽は入手困難であり、その快楽を得られないときの不快指数はかなり高い。

仏教的にそれを断絶するので無く、必要に応じて、利用して生活する。「承認欲求をコントロールするなんて、なんのためにSNSをやるのかわからない」
そう言った声が聞こえてきそうだ。
もし、そう考えているのであれば、逆に聞きたい、あなたはなんのためにSNSをやるのか?絵師であれば、イラストのためにSNSをやるし、ブロガーは文章を書くのがすきだから、その活動領域を広げるためにそれをやる。
SNSをやりたいから、絵を描くのではなく、絵を描きたいからSNSをやるのでは?
イラストを描くのも、承認欲求と密接に繋がっていることは否定しないし、そのための療法として、エピクロス的生があるわけだ。
だけど、前提が「承認欲求」のみのためのSNSならこのメソッドは虚しいからオススメしない。
全容は、絵を描きたいとか、文章を描きたいであるはずだ。
いいねが主体なら、それこそ本末転倒だ。

少し長くなってしまったので、これ以降は後半に持ち越そうとおもう。

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