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インターネット社会で「隠れて生きる」後半、

今回はエピクロス的生で「インターネット社会から隠れて生きる」 後半です。 エピクロスとは古代ギリシャの哲学者で、 「快楽主義」を唱えました。 快楽主義と言っても、好き勝手欲望を満たしまくろうぜーという意味の快楽主義ではなく、 必要な快楽は適度に満たす。
適度な食事と水、心の平安、 体の健康など、人間本来に必要な快楽を求めてるのがエピクロスの 「快楽主義」です。

それを超える大きな快楽 (莫大な富を得ようとしたり、女優と付き合おうとしたりとしたり)
それによる欲望は、それを手に入れられないと、より大きな不快が反し、人間本来の快楽が乱れる原因になります。
仏教にも、 快楽とそれに伴う欲望を取り除こうと試みるメソッドはありますが、
仏教的メソ ッドはあまりにも現実味がないどころか、無理をすれば、それこそ人間本来の快楽が乱され 、
それこそ人間本来の快楽が乱される可能性があります。それでは本末転倒です。
そこで、より現実的な、 エピクロス的生を実行できればとおもいます。




  1. インターネット断食=仏教的生

  2. 節制的なインターネット利用=エピクロス的生

エピクロスの欲望論

  1. 自然であり、必要な快楽

  2. 自然であり、必要のない快楽

  3. 自然でも必要でも無い快楽⇐SNSの快楽や承認欲求はこれ。


前回までは、SNSを利用していると、それに伴ういいねやフォロワー数による不満。
そして、それを「把握」 する事で、快楽と欲望をコントロールし、しようというという所まで、説明したと思う。
今回はそのSNSの断絶方法というよりも、なぜ必要に応じてそれを実行しなければならないかを説明していこうと思う。
まだ前回の記事をチェックしていない人はぜひ
見てください。

前回はその「把握」についてSNSにこころを乱されない以下4つの段階を説明した。

第一段階: 「自分はSNSのいいねがほしいけどもらえない。フォロワーも増えてほしい」と認識する。

第二段階: 「その自分が欲する快楽の正体はなんなのか」 それは承認欲求であり、他者の背定欲求である。

第三段階: 価値評価は所詮「運」 であると知る。

第四段階そしてその快楽は手に入れづらい 「運」 によって右往左往されると理解する。


上記の四つを把握し、 言語化する事で、

より一層自分が手に入りずらい快楽に振り回され、自由を奪われ、その欲望によって窒息寸前なのかが理解できる。
しかし、だからといって、 SNSやブログ等で活動をやめろといっているわけではない。

むしろ積極的にアウトプットし、世間の目に触れられる努力はするべきなのだ。
そして、不要な投稿は一切シャットダウンし、
見なければいい。
SNSは自分の好きなものや好きな事を投稿し、
それを承認してもらう場所である。(承認欲求を満たすのと、承認されようとするのは別)
好き勝手投稿し、ほかの投稿を見なければならないなんて決まりは無い。

他の投稿を閲覧するからこそ、
自分の価値観に疑いを持ち、一貫性が無くなり、単一化する。 単一化するからこそより一層競合が多くなりなお息苦しくなる。
好き勝手投稿すればいいと言ったが、
むろん個人を傷つけたり、誹謗中傷していいという意味の、好き勝手投稿すればよいという 意味ではない。

自分の活動領域を広げるためによる好き勝手な投稿だ。

そういうとこういう声が聞こえてきそうだ。
「絵師どうしの繋がりは大事だ。 そのつてで有名になる事はある。」
無論それを見るユーザーである。

まああながち間違いではないが正解ともいえない。
本来「絵師」や「漫画家」は誰のために存在するだろうか?
ユーザーが存在して初めて成り立つ職業だ。
確かに絵師は自分が描きたいから書くし 、好きだからうまくなろうと思うのだろう。

だけど、その過程」はユーザーからすればどうでもいい事であり いいねやフォロワーは、ユーザーが好むところの絵柄やタッチ、世界がその絵師が作り出したものとマッチして、
その相互の理解の上で生まれるのだ。
という事はユーザーがある程度好むものを作り出さなければ、実際のところそれは評価される事はないわけだ。
ユーザーに評価されるためにSNSを利用するのは大事だが、絵師と馴れ合ったとれあったところでなにも生まれはしない(絵を参考にするのは別)。

それを理解し、ほかの絵師とのなれ合いを捨てれば、ほかの絵師が作品にいいねを押す必要もないので、 SNS を閲覧する数がおのずと減る。
数が減るという事は、 自分が作品を作成する時間が単純に増える。 いわゆる「作品投稿 BOT」 になるのだ。


SNSを他人の作品を閲覧するために利用するのではなく、自分が投降するために利用するのである。これによって、「他者評価によるトレンド」に惑わされる事が無くなる。

それゆえ一層自分の作品のオリジナル性に磨きがかかる。
他者評価によるいいねやそれに伴う快楽や欲望をコントロールできると 、自分の作品にオリジナル性が増す。
オリジナル性が増すとそれだけ競合相手が減るというメリットも同時に生まれる。
もちろんそれにはデメリットも伴うものだが、 コンテンツが飽和状態では避けられない。
単一化した「トレンドを追えば」 右往左往される。 「オリジナル性」を突き詰めればを他社評価に時間がかかる。

僕の好きな yutuber に 「とれとれチャンネル」という方がいるのだが、

彼は動画の中ででこう言っていた。

「僕は SNS は動画投稿した時の宣伝にしか使わないし、一切みない」

僕は意外だも思ったと同時に金言だと思った。

彼は yutuber の中で目立って莫大に成功しているわけではないが、一定数のファンと人気を維持している。
あの独特な絵柄と世界観は人を魅了するものがある。

これは私の憶測だが、 トレトレチャンネルが自分のオリジナル性を発博し、そこそこ人気があるのも、インターネットの執拗な広告やSNSの投稿から隠れて生きている賜物だと思っている。

正直、SNSを日々チェックし、 なにが成功するかを確認し続けている人間から、あの作品がは生まれるとは思えない。それこそ彼はイラストも特出してうまいわけでも、内容がビジネスに役立つものでもない(ごめんなさい)。

だけど、なんとなく彼の作品を見たくなるのは、独特の世界観から来るものなのだろう。

そしてその独特な感じは、オリジナル性に関係しているからだろう。
常にトレンドを追っている人間からオリジナル性はうまれるだろうか? インターネットで成功している人間が、それから隠れて生きるのはおかしいと思う人もいると思うが、これはなんら矛盾しない。
インターネットは現実の延長線上に存在しているといっても今や過言ではない。
もはや、インターネットが現実と溶けあっているのだ。

現実で成功しているからといって、その人間が不用意に外交を重んじ賞賛しているわけではない(もちろんそういう人間もゼロではない)
現実で成功している人間が多くの外交をしているのは確かだ。

しかし、成功している人間は多くの外交をしているから成功しているわけではなく、成功し ているから外交しているのではないだろうか?
インターネットでも同じことが言える。
「トレトレちゃんねる」はそれなりに成功しているが、SNSで他人と必要に以上に関わっているわけではない。
そして今も、SNSでつかず離れずの距離を保っている(彼のTwitterの投稿頻度を見る限り)
彼こそが SNSやインターネットとの上手な付き合いをしており、それを仏教的にする わけでなく、心に平安をもたらす、エピクロス的生である「離れて暮らす」の体現をしてく れている。


 
彼(トレトレチャンネル)が証明してくれた事は、SNSでなれ合う事なく、そこそこ成功する(ごめんなさい)事が可能だと言うことだ。
彼 (トレトレチャンネル)が SNS を日々チェックしてトレンドを追っていたなら、そうはならなかっただろう。これについてはまた別の機会で言及したいと思う。

最後はトレトレチャンネルの話がメインになってしまったが、エピクロス的生のインターネットから隠れて生きるを実行したいなら、彼を参考にするのが一番かもしれない。
この記事で散々 「オリジナル性」というワードが出たが、具体的な「オリジナル性」につい ては言及しなかった事をお詫びしたいと思う。
これについてもまた別の機会に言及しようと思う。

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