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【真天地開闢集団ジグザグ/WANDS】今更WANDSからジグザグを知って、「やりたいことは全部やる」という姿勢を見習おうと思った話

一言でいうと、ここ数週間、私はずっと混乱していた。

そもそもの経緯

WANDSに新メンバー加入で再始動(しかも若くてきれいでビジュアル系の子らしい)というニュースが世の中を震撼させたのは、もう一年半も前のことだ。
現在の新しい体制のことをWANDSの5期と呼ぶらしい。

私が人生で初めて信じたバンドはWANDSだった。(私の好きだった時期は2期と呼ぶらしい)
あまりに盲目に信仰したので、元メンバーの上杉さんと柴崎さんがWANDSを離れた後、私はWANDSを好きだったことを言外することをやめた。
それからもう二十年以上が経つ。

加入のニュースが流れた時、名探偵コナンのタイアップが付いたことも含めてふんわりと耳には入っていた。
「どこそこのバンドのなんとかさんなんだって」
耳慣れないバンド名に興味もなく、「へえ」と聞き流して、それからずっと忘れていた。
かつて見守っていたメンバーの柴崎さんと木村さんが居ると聞いても「そうなんだ、よかったねえ」と思うばかりだった。
加入したらしい新ボーカルには興味も期待もなかったし、噂されている他人に過去の記憶を損なわれるくらいならと曲を聴く気すら起きなかった。

きっかけは、渋谷を題材にした原稿募集だった。
原稿募集〆切間近の夜、友人の家を訪れて「昔こんなことがあったんだよ」と話しながらYouTubeを見ていた。
地方在住の女子高生だった私が、死ぬほど行きたかった渋谷クアトロでのライブ。早稲田大学文学部の入試の日にあって、受験後に行くことを許してもらえなかったライブ。未だに無念に憶えている記憶。
「普段人には言わないけど、本当に好きだったし、格好いいバンドだったんだよ」
YouTubeで再生されるWANDSの曲は、よく知っている過去の曲と、聞き覚えのない新曲らしき曲たちが半々程度で表示されていた。
知っている昔の曲を選んで再生する。


「格好いいね、曲もギターも全然古くない」
WANDSを知らない若く耳の肥えた友人にそう言ってもらえ、若かったころのWANDSを信じていた私の亡霊が初めて認めてもらえたように成仏した。

再生が終わると別の動画に切り替わる。よくよく聞くと、耳に馴染んだ過去のボーカル上杉さんと、よく似ていてもっと硬質な声が重ねられて、動画内で比較されていることに気付く。これが新しいボーカルか。
終電の時間が迫り、私は急いで友人の家を出た。

通常なら、そこで頭が切り替わるものだ。
帰宅して、留守にしたことを猫に詫びて、お風呂に入り寝る準備をする。
好きだったことすら蓋をし続けた二十年前の自分が、認めてもらえたことがうれしくて、もう少しWANDSの動画を見ようとYouTubeを開く。
さっき気付いた比較動画、上杉さんと対比されている若い青年は上原さんというらしい。

そこでふと異変に気付く

本当に違和感なく許容できていることが、そもそもありえない話なんじゃないか。
他のバンドなら、楽器メンバーが脱退して、別のメンバーに変わっただけでも、好きだった曲を受け付けなくなってしまうということは、よくあることだ。好きで、耳慣れている楽曲ならなおさら、埋められない違和感で、曲自体を聞くのがつらくなってしまう。
それも楽曲を象徴するボーカルが、別の人になったのに、なぜ私は違和感なく聴けているのだろう。

過去ボーカルの上杉さんは、人間性そのものを音楽に投影する芸術家タイプのミュージシャンだった。声の抑揚や、歌詞の文言は、そのまま歌う本人の祈りの言葉として効力を発揮するタイプのミュージシャンだったから、他人が歌う違和感があるとするなら、それはなおさらだ。上杉さんが歌わなければ意味がないとすら言っても問題ないというほどの存在感だ。これは誰に聞いても認めてもらえる認識なんではないかと思う。

その「上杉さん=過去楽曲」という前提認識があるにかかわらず、対比される上原さんへの違和感や嫌悪は全く生まれなかった。
ただ、誠実に「過去私が信じた曲を、大切に尊重して、継承してくれたのだ」ということが伝わったのかもしれない。
上原さんのWANDS加入を喜んだファンは、彼が大切な楽曲を大切に扱ってくれたことに心から感謝したのではないかなと思った。
そして過去の曲を尊重するだけではなく、彼らは新しい現在の存在としてWANDSを襲名し、人前に立って、新しい曲を作り続けていることにも驚く。
大きすぎるネームバリューを、これほど真剣に背負いながら、さらに曲を生む覚悟は半端なものではできないだろうと思う。
新しい曲は、かつての少女漫画めいた片想いの祈りを主軸にした題材とは違い、大人同士の恋愛を描いたクールな楽曲だった。


大きすぎる名前を背負いながら、誠実に「WANDSのボーカル」という役割を全うする上原さん。余談だがWANDSのボーカルは、存在感や作風に至るまで事務所の厳しい制約が入り、清潔で清涼感のある実力派ポップサウンドであるという定義が付きまとうという話がある。二十歳近く離れたベテランの先輩たち二人の中央に立ち、自分の実力を出すというプレッシャーは想像できるものではない。
そればかりか、既存の世界を尊重しながら、格好良く新しいものを作り、人前に立つという覚悟。その傍らでギターを弾く柴崎さん。キーボードに向かう木村さんも、変に太ったり老けたりせずに、格好良いまま年を重ねていることが心から嬉しい。音を聴いただけで聴き分けられた柴崎さんのギターは今も鮮やかで存在感があるのに耳に柔らかく、思わず目頭が熱くなる。こんな風に柴崎さんのギタープレイをWANDSとして向き合って見ることは、できないんだと思っていた。

新旧WANDSの違いと、自分の中の結論を探す

YouTubeにはかつてのヒット曲を、新旧ボーカルで比較する動画が多く上がっている。その動画を作った人の気持ちも、その動画を繰り返し見て、自分の中での落としどころを探すファンの気持ちもすごくわかる。


こうやって比較してみると、上杉さんの声には、アンニュイでくぐもった響きが内包されていることが改めてわかる。例えていうなら、切り出したばかりの強く香る無垢材を思わせる素材感。
対して、上原さんの声は、上杉さんに比べて引き締まっており硬質だ。無防備な響きが少ない。そして歌自体が冷静にコントロールされていることを感じる。技術が高く、コントロール性が高いのだろう。例えていうなら、作品に合わせて絵柄を変えるプロアニメーターのデッサン力と柔軟さというような。
この歌の上手さがカラオケ的な技術で留まっていたとしたら、私は上原さんの歌を受け付けなかったと思う。先人のものを最大限に尊重して、細部まで声質や発声を寄せていることだけではなく、自分で歌詞を書いていない過去の歌までも引き受ける誠実さがあったからこそだなあと改めて思わせられる。
メンバーとして加入し、過去の曲を歌うとなると、比較されることは必至。それを承知して、納得いくまで見比べられた上で、認めてもらいたいと、ただ誠実に仕事をしていることに、あらためて驚く。スタイルを狭める芸術家タイプにはできない、プロフェッショナルの仕事だ。

(偉いでしょ、偉すぎるでしょ)
画面に映る細面の華奢なきれいな青年にあらためて感謝する。
余談だが、新曲のうちの一つである「賞味期限切れI love you」のYouTubeコメント欄には、上原さんが口にするサビ末部分のセリフ「チェックで」の声と色気に爆死する女性ファンが大量発生していた。


上原さんが入ってくれて、新しいWANDSが時代を始めていることを改めて実感する。本当に良かったなあ、と思う。
過去の存在として墓に埋めるのではなくて、現在の音楽として新しい楽曲が作られ、大人になったメンバーたちが誇りをもって活動していてくれること。そんなの想像もしてなかった未来じゃないか。

(ありがとう、上原さん。知らん人だけど、心から偉いよ、尊敬する……)と合掌するところで、通常なら記事はきれいに終わるものだ。
今回は、ここから奇妙な渦に飲み込まれる。

ジグザグとは???

(小中学生の頃に大人の歌だと思って聞いていた曲を、いざ大人になって聞いてみると少女漫画のようなロマンチックさで耳にすると思っていなかった)
と感慨深くYouTubeを眺めていると、関連動画に見覚えのないビジュアルバンドのサムネイルが多く表示されていることに気付く。
(そういえばWANDSの新メンバー、どこかのバンドのボーカルって話あったな)
(上原さん??)
と思いつつ、いくつか再生してみて、「んんん???」と私は大いに混乱した。

私は知らないものに対する警戒心が強い。
知らないものには基本的に懐疑的に、不信感をもって、どのようなものかを冷静に見定めて、私の人生にとって必要なものかどうかを見極めたいという気持ちがある。

正々堂々としたロックバンド然とした曲もある。


顔が見えないので、声質しか共通点を探れないのに、曲によって声が違うため、上原さんだという確証を得ないまま、私はジグザグの動画視聴を進めた。


今度はジグザグの画面とWANDSの画面を見比べて、
(ベースの人めっちゃ美少女だな、男だろうけど)
(ドラムの手数がやたら多いな)
という雑念も入りつつ、訳が分からないまま混乱が深まっていく。


(動画いくつも見てるのに、実態がどんなバンドなのか全然わからない)
(他のファンはこれ、どんな風に受け止めてるんだ)
(というか、ジグザグのもともとファンの人は、WANDS加入応援してくれたんだろうか
などもろもろ雑念と謎が浮かび続ける。
(こういう時は、あれだ。YouTubeのコメント欄を見れば、他の人の受け止め方がわかるはず)
と、上がっている動画のコメント欄をどんどん遡って読んでいく。
WANDS加入のタイミングで新作追加されたMVがメイドだったことがわかった。
私同様に、WANDSからジグザグを知って混乱したまま、YouTubeを行き来している人が大量発生しているということが分かって少し安心する。

ジグザグの曲は、多くの人に「掴みどころがない」「方向性が分からない」言及されているように、多様な音楽が含まれていた。
 ラルクのような壮大なロックナンバー。ふざけているのかと見える曲。和風コンセプトが高じてお江戸みたいな歌。銀杏ボーイズのような島田。ビジュアル系の底辺地獄を煮詰めたような暴れ曲。歌い方ひとつとっても、そもそも曲によって声が違うから、さらに何が何だか分からない。

ジグザグはどんな経緯で、この混沌に至っているのか?

ジグザグの前身バンドまで遡ると、ホストのようなギラギラしたアプローチや、キラキラしたアイドル的なアプローチ、アニメや乙女ゲームを彷彿とさせるような2.5次元アプローチなどさまざまな経緯を経て今に至っているということが分かる。
さらに、曲の面で言っても、前述のように「できるアプローチを全部やる」という姿勢があるということが分かってきた。

さらに、「音楽を仕事にする」という一点を譲らないために、可能な限りの模索を続けてきたということが分かってきた。芸風を選ばない、ということは恐らく想像するよりも難しいハードルであると思う。
一般的に、音楽を志す人、特に芸術家タイプは、自分のスタイルにこだわりやプライドを持ったまま売れようとすることが多いように思う。そして、自分のスタイルではないものに対しては、「イメージが崩れるから」「自分のやることではない」などの理由を付けて、回避する傾向がある。芸術活動に限らなくても、一般的な生活態度を取って見ても同様だろう。何かをやる理由よりも、何かをやらない理由を考えたほうが楽であるから、人は往々にして楽な方向へ怠惰に進んでいきやすい。
努力を続けて上手くいかなければ、日々の生活と直結する要素(たとえば別口の仕事やアルバイトなどの要素)が大きくなってしまい、結果として音楽から離れる決断をするという人も多い。

そう思って作品群を見返してみた時に、(正直、心から信念を持ってやってるとは思えない)という感想を持った作品群が、一つ一つすべて「自分が楽しみ、周りを楽しませ、活動を続けるためのアプローチ」なのだと理解できる。
 並大抵の覚悟でできることではない。たいていの場合、何かをやってみて上手くいかなければ、「向いてない」「難しい」など理由を付けて、努力の方向を別方面に向けてしまう。私は特に飽きっぽいので、仕事をしながら文章を趣味として扱うことに慣れすぎてしまったと反省する。形を選ばず、道化やエンターテイナーの役割を引き受けながら、やりたいと思ったことを全部やるということの偉大さを改めて思う。


アニメのMV「さくらさくら」を命さん自らアフターエフェクトで自作した(コロナのステイホーム中に)というのは、ファンの中で有名な話らしい。もとより、MVの大半を命さんは撮影から編集まで自作で行っている。「もはや趣味」と言いつつ、そこで生み出された作品群がYouTubeに存在することで、注目の集まったタイミングで「バンドの姿」を伝える証憑として存在し、通算2500万回(2021年5月Wikipedia参照)に至ろうとしていることが現在に至るジグザグの躍進の理由を示している。

理屈っぽく書いたが、私は相当ジグザグを好きになっている。
メンバーたちが無邪気に笑い、仲が良さそうに談笑しているところ、インタビューで答えているように「メンバーの特権は、命さんの曲を一番最初に聴けること」と全幅の信頼を寄せていることが、本当にバンドとして見ていて嬉しいし素晴らしいと思う。そして命さんは、想像以上に自由でフットワークの軽い、腹の座ったエンターテイナーだった。
もともとビジュアル系に素養のない40代以上の男性が命さんに心酔する例があるのは、バンドとしての音楽性・実力の高さだけではなく、自分の人生に重ね合わせて見た時に到底まねのできない覚悟と腹の座り具合に、憧れと共感と敬意を覚えるからではないだろうか。
そして理由は如何としても、注目が集まったタイミングで、彼らの実力とポテンシャルは見ている人に焼き付けられる。それは一見、節操のない芸幅の広さや混沌として残る過去の模索の結果だ。歌唱力の高さも、作曲性の広さも、演奏力の高さも、キャラクターとしての魅力も、全て前提であり、その後の話だ。
WANDSのオファーを引き受けたことも、その一環であるのかもしれない。ボーカリストとしての実力と技術力の高さを前提として、リスクを伴う高すぎるハードルに真摯に向かい、多くの人に存在を認めさせ信頼を勝ち得ていることは、尊敬に値するとしか言えない。
上原さんの歌唱力には、プロアニメーターのデッサン力のような柔軟で高度な技術があると前述したが、芸術家タイプのボーカリストだったとしたら、声の相性が適合したところで、この役割は果たせていなかっただろうと思う。

ここまで考えて、私は信頼を持って、ジグザグを見続ける気になっていることに気付く。
そのタイミングでファンクラブが発足して、入会キャンペーンをしていたため、ジグザグを知った二日後、私は混乱したまま入会手続きを済ませた。

「ファンクラブに入ったよ」
「WANDSの?」
「ううん、ジグザグの」
「ウソでしょ? どうしちゃったの」
 バンドに詳しい友人に、近況を報告すると、彼女は目を丸くした。
「ジグザグって、バンギャの地獄を煮詰めたような曲で、暴れたいバンギャ集めてるイメージなんだけど」
 友人が対バンでジグザグを見たのは2017年頃のことだという。今は公式に残っていない当時のバンギャやらメンヘラやらの地獄みたいな歌を思い出しながら納得する。
「うーん、そうだね」
 当時はビジュアル系の文脈の中で、ライブの動員を増やすための最適解が、ライブで暴れられる点と、バンギャの地獄みたいな歌だったんだろうなと推察する。

 私は友人に、ここ数日ずっと考えていたこと、「できる努力を何でもする」という覚悟と真摯さに感銘を受けたこと、「実力や作品はその前提であり、その後のことである」ということを訴えた。
「私も、できること、やりたいと思ったことは、先延ばしにせずに、生きてるうちになるはやで全部やろうと思って。とりあえず、もっとフットワーク軽く、書ける話を全部小説に書こうと思う。ホラー小説も書くし、ホラーのノベルゲームは作るし、リリースまでこぎつける」
 黙って話を聞いてくれていた友人は、
「なるほどねえ」
 とつぶやき、
「まずこれ、記事に書きなよ、書けるでしょ十分。何考えたのか残しておきなよ」
 とアドバイスをくれた。

学んだこと、見習おうと思ったこと

あともう一点、学ばせてもらったことがある。
WANDSの新曲における、「題材(経験)と作品の距離の取り方」だ。
私は題材を、そのままの形で書きたくなってしまうのだが、それをするとモデルになった係者や周囲の他人に齟齬を生んでしまう場合がある。
その点で、実感的な経験を地盤にしながら、相手のことを描写せず、自分個人の中の感情の変遷にフォーカスする描き方をするラブストーリーの構成に舌を巻いた。

これは歌詞だからできることで、小説として用いるには難しいことなのかもしれない。そう思う反面で、題材に対する冷静さについて見習いたいと思った。
まあ、どう書いても伏せても、突っかかってくる無関係な他人がいることは分かっているので、自分が書きやすいように料理するしかないということではある。

諸々と勉強させてもらい、見習おうと思ったので、とりあえず、やりたいと思ったことを一つずつ全部やっていこうと思う。
暇つぶしにドラマを見ても、疲れたからと早く眠っても、何かを作るのと同じだけ時間は過ぎていく。思い返してみれば、ここ十年、私は仕事とゲームと恋愛と猫とバンドと海外ドラマで時間を費やしてしまった。
小説を書くことも、ゲームを作ることも、その先の出版や活動なんかを目標として掲げながら、目先にある日々の生活や怠惰や娯楽に甘んじてしまっている状況だと我ながら思う。
どうやって生きても時間は流れて、年齢を重ねて、人生は終わっていくものだ。
やりたいと思ったこと、目標に掲げたことに達するかどうかは保証されない。理由を付けた先延ばしが謙虚さとして前向きに働くのは、若い間だけの話だ。
題材を厳選して結局何も作らないよりも、「アウトプットできそうな案は全て作品としてアウトプットに至らせる」という姿勢は、ものを作る人間にとって、何より大事なことなのではないかと思わされた。

 とりあえず、先延ばしにしていたことを解決しようと、私は今月、壊れかけていたiPhoneを買い直し、壊れていた部屋のエアコンを買い替えた。公募に短編7本を書いて送り、立ち上がらなくなっていたパソコンをリストアし復活させた。

自作MVといえばGuniw toolsを思い出した

本当に余談だが、バンドメンバーが自らMVを作るという点で、私は昔好きだったバンドGuniw Toolsを思い出していた。


こちらのバンドも、ボーカルがメンバー2人を従え、真冬の北海道など過酷なロケを行って、アルバム全曲に至るMVを、機材がデジタル化する前の1990年代に作りまくっている。
メンバーたちは奇妙な衣装を着て、振り付けを覚えて踊ったり、眉毛を剃り落としたり、川に腰まで入って演奏したり、雪の残る平原に立ち尽くしたり、ファンの目から見ていても本当に大変だっただろうなと印象深い。

最後に、ジグザグで好きな曲まとめ

このほかにも「それでも花よ咲け」とか、夜明けを迎える題材の曲がいくつかあるんですが、切実な祈りがあって好きです。
Promiseは「ねえ例えば、この世界終わる日が今夜なら」ってところで、(思ったより近い話だな????)って驚きました。いい歌です。


わた殖は純文学……

仕事で心が疲れたらこれを見てます


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