身につける身体、あげる身体
ジュエリーが好きだ。
好き放題に購入出来ないし、よく無くしてそれはそれはへこむが、魂から好きだ。
近所に、見た目は小さなおじさんなのだが
知れば知るほどに、妖精としか思えないほどぶっ飛んでいて可憐な中身をもつ、
野口整体をやってらっしゃる方がいる。
その方の、智恵にあふれた訥々としたブログの大ファンなのだが、
そこで語られていたことに、
人は服や装身具を褒められると
体が物理的に、プルルルル!と高速で震える、というのがあった。
女性ならば、子宮のあたりが震えるんだそうだ。嬉しくて。
なんかわかる。
つまり、着ている服やジュエリーなどは、その人の身体の延長線上にあるもの、ということだ。
「身体」を身につける「身体」があるということか。
ニンゲンって面白いなあ。
それほどまでに身につけるものがその人の身体性と切り離せないということを、甘く見てはいけない。
中学時代は、制服を着るのが嫌で嫌で、あまりに嫌だったため、したくない勉強をガリガリして
制服がない高校へなんとか入ったくらい、とにかく他者に着るものについて決められ、とやかく言われるのが、心底ストレスフルでたまらなかった。
反体制とかそういう以前に、ひたすら気持ちが悪かったのだ。
あのまま何年も制服を着続けたら確実に何かが死ぬと思った。
あの頃のあの切実さは正しかったと思う。
服は身体そのものだからだ。
自分が許すのでない限りは、他者にそれをああしろこうしろ、言われてはならない。
ちなみに、そんな普通服OKなラフな高校だったが、それでもどこかの制服をわざわざ買って着る、リアル女子高生なのに女子高生のコスプレをしている人々もいた。理由を聞くと「この方が圧倒的にモテるから」「あと考えなくていいから楽」とのことだった。
以来、私の中で制服とはキャバ嬢のコスプレと変わらない位置にある。好きな人は着ればいいよ〜それ以外の人は着なくていいよ、と思っている。
私はふだん絵を描いている。
絵も「身体」である。
絵が身体である、というのは言葉どおりの意味で、
己の身体を一部もいで、はい、とあげることが、
絵を差し上げる、ということなのだと思っている。
そんなに大事なものをあげてしまって、残された身体は大丈夫なのか?と最初は恐ろしかったけれど、
無くなれば、またそこからニョキニョキと新たなる身体が生え出てくるので、
まったく心配はないことが、だんだんわかってきた。
むしろあげた方が、代謝が上がって調子は良い。
植物みたいなのである。
剪定した方が、グングン伸びる。
切り方や、バランスにもよることは植木職人のようにわかってきたが。
一気に全部はダメだが、ちょっとずつならむしろ良いのだ。
さりとて、物理的な身体である。
人へ渡すことにはとても慎重だ。
あなたは私の友人だから、私の好きな人だから、といきなり耳や指や髪の毛を貰っても、大概の人は困るだろう。
いやべつに欲しくないし生臭くて気持ち悪いし…と内心ドン引きされる危険性は、非常に高い。
頼まれてないのに、相手からの承諾を得ていないのに、「身体」を人に差し上げてはならない。これ鉄則。
なので、間にギャラリーを入れている。
今のところ本当に欲しい人しか買いにいらっしゃらないので、よかったなあと思っている。
とっちらかったが、身体考。
ヒトは身体を買う生き物なんだなあということ。