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自分のものと、そうじゃないもの

 坂本龍一の CODA は、荒れ果てた廃墟で、彼が汚れたピアノを愛おしむように触り、弾くシーンから始まる。

 何の前情報も無いまま、今ならしばらく坂本龍一の映画がYoutubeで無料公開されてるらしいからと夫がそれを観始めたので、ヒョイと便乗しただけだった。 目に入った廃墟と汚れたピアノと坂本龍一という華やかな人とのコントラストで瞬時にわかった。そこが東日本大震災で津波に呑まれた跡地で、壁にある泥で描かれた線はそこまで波がきたことの証拠で、彼は慰霊のため演奏をしに来たんだ。時は2011年、そのときの映像だ、と。

 すると一気にそのときの感情が思い出されて、グワーンとなりそうになるのを堪えた。ここでその感情の波に乗ると良いことがないのを知っているので、猫を撫でてお茶を飲み、気を取り直した。
 そうして聴いた、沢山のロウソクの灯りに照らされながらの『戦場のメリークリスマス』。音楽家はすごい。生と死の狭間で、目に見えない何かを深く悼み癒す。それこそが彼らが命をかけてやっていることの本質なんだと思う。

 悲しいときは悲しいと存分に泣いてよいと思う。だが、時々強すぎる感情は自分のものではない感情まで引っ張ってきてしまう。

 2011年、時間と体力だけはあった私はボランティアをしに東北へ行こうかと考えていた。頭も体も回るタイプではないから即戦力にはなれないだろうが、地道な人手が要る類のことの手伝いくらいは出来るのではないかと考えた。
 当時私はカウンセリングを受けていて、カウンセラーにその話をすると、止められた。
「あなたがここにいて出来ることは他にいくらでもあります。まずはあなたが幸せであることです。実地のことは、プロに任せなさい」。
 結局、ボランティアには何処へも行かなかった。その代わりに小額だが寄付をして、絵を描いたり、詩を書いたり、漫画を描いたりした。ぼんやりと、申し訳ないなあと思いながら。

 それから数年後、テレビに久しぶりに津波の映像がうつったのを見た。勿論最初に「これより津波の映像が流れます」などの注意を促すテロップが流れたはずだが、不安になるよりまた見たいきもちが勝った。そうして、じっ、とその黒く大きくうねりながらやってくる何かを見ていたら、突然涙がこみ上げてきて、びっくりすることに、うわあああ!!!と自分の口が、泣き叫んでいた。
 東日本大震災については、ただぼんやりとなんだか何にも出来なくて申し訳ないなあ、というきもちでいると認識していたが、私自身の奥の方に、こんなにも、何万人もの、同じような細胞をもつ人々を一気に亡くした悲しみがあったなんて、その時まで私自身、知らなかった。
 そうか、そういう感情があったのだな。では泣きたいだけ泣いておこう、と思った。更に加速して赤鬼みたいにウォーウオーと泣き始めたら、突如そばにいた猫にファアアアアア!!!!と威嚇された。
 その瞬間、はっと気づいた。確かに最初に表れた悲しみは、私のものだった。だがそれ以上に膨れ上がった、この爆発したような慟哭、嘆きの感情は、違う。
 これは、私の感情ではない。
 気づいた瞬間、すーっ、と悲しみは離れていった。

 もしも被災地へうっかり、こんな私が丸腰で訪れたら、どれだけの人々の念に巻き込まれまくったことだろうと思う。一旦巻き込まれてしまったら、人を救うどころではない。勝手に自滅していたかもしれない。

 これは私の感情ではない。ということは、そのあともよく観察していると日々、沢山あった。そのつど呼吸の仕方を変えたり、外に出たりした。
 他者の感情の影響を受けるということは、自分の感情も同じく他者へ影響する、ということだ。
 自分の感情を見分けることは、自分の感情に責任をもつこと、と繋がっていった。責任をもつとは、とりもなおさず機嫌よくいることなんじゃないかな。

 面白いことに私の感情は何か?を探ってゆくことは、私とは何か?を発見してゆくことだったように思う。

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