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ほんとうは知ってた

 くうちゃんと私は仲良くなってから数年しかたっていないが、ほんとうは多分もっと長いつきあいだ。初めて会ったとき、あ、この人を私は知っている!と胸のセンサーがブーブー鳴った。そういうことが人生で何度か、今までもあった。普段の私は小動物のように用心深く、人見知りが強い。だがこのときばかりは「ひさしぶりー!」とハグする勢いでくうちゃんに近づいてゆき、いきなり「私、インドに行きたいんです。今度一緒に行きませんか。」なんて誘っていて、すると案外とてもまっとうで慎重なくうちゃんに「私、あなたのことよく知らないんだけど。」と、厳しくいなされたのだった。

 幸いそれから何年かたって、私たちは仲良くなった。私がくうちゃんのアトリエの近くへ移り住んだのだ。そこは一応東京のわりには大変緑深く、夜の闇が濃くて、人間よりも妖怪の方が多く住んでいそうな地域だった。そもそも人口もそんなに多くないし、アーティストだって数少ない。そんな希少なご近所のアーティストどうしということで、私たちは何かと口実をみつけては一緒に遊んだ。

 くうちゃんは土と火を扱う人だった。作品をつくっているときだけでなく、いついかなるときも、くうちゃんの後ろには深く暗くやたらと大きい、得体の知れない森が広がっていた。彼女はそこからインスピレーションを得ながら、森の精霊たちとともに行動したり話したりしているようだった。つまりおそろしく勘が鋭いのだ。くうちゃんには、どんな突拍子もないことをいっても通じなかったことはない。それがどういうことか、彼女には瞬時にわかるのだ。理屈ではなく。それは多くの場合理解されず、ときにとても寂しいことなのだろうな、というのはつきあううちにわかってきたのだが。

 その日はさわやかな秋晴れで、海の近くをくうちゃんの真っ赤な車で走っていた。せっかくのきもちのよい日に、「人と水面下で喧嘩すること」について私はなぜだか熱心に話していた。

「もう今ではそういうことはあまりないけどね。私のことをとても好き、といってくれる人がいたの。その人は魅力的な明るい人で、でもなぜか彼女は水面下では私のことが大嫌いらしいの。それって、なぜだかわかるの。どんなに感じよくしてくれても、一緒にいると、体がどんどん冷えていくの。そしてそういう人と会った後は、必ず足が痛くなる。痛くて痛くて眠れないほどになるんだ。私は昔からしょっちゅう夜になると足を痛くする子どもだった。それがあるとき、彼女に誘われて会った後、わかったんだ。そうか、私は誰かと水面下で喧嘩していると、足が痛くなるんだ。それはたぶん、子どもの頃に、父と母がよく、表面上はやさしい言葉の羅列なのに実際はトゲトゲした空気の、陰湿な喧嘩をしていたからだって思い出した。母は父のことが好きなのに、いつでも父に対して凄く凄く怒っていたの。なんでそんなに怒っていたのか、乳飲み子だった私を連れて親戚の家へ籠城してたこともあったそうだよ。私、人質だよね。人生最初の思い出は泣いている母に抱かれながら玄関で母に謝ってる父を見てる映像だもん。なんであんなに母は父に怒ってたんだろうね。浮気でもしてたのかな。…そういうとき、覚えてる限りでは同じように私の体はどんどん冷えていって、足が猛烈に痛くなったの。うちの家系は、ダメージが足に出やすいのよ。それがわかって、私のことを表面上は好き、というその人とはもう会わなくなった。そういうことになりそうな、気を使う集まりにも一切顔を出さなくなった。」

 運転しながらじっ、と私の話を聞いていたくうちゃんが、ふとつぶやいた。「ねえ。もしかしてあなたの前に、生まれなかった子どもがいた?」

 誰にも、くうちゃんにももちろん、その話をしたことはなかった。私ですら今の今まで忘れていたくらいだ。確か心ない親戚に子どもの頃、「あんたの前にほんとはもう一人子どもがいたんだよ。流れちゃって残念だったねえ」なんて教えてもらっていたのだ。その時はセンチメンタルになるのも母に申し訳ない気がして「ふーん」くらいの薄さで受け止めて、心の引き出しにポイと投げ込んでおいたのだった。ということすらも、忘れていた。なのでびっくりしすぎて、受け入れるしかなかった。

 「うん。いた。」

 「たぶんあなたのお母さんは、その子が流れたことがとても悲しくて、本当に本当に悲しくて、でもその悲しみはお父さんには理解できなくて、受け止めてもらえなくて、それで怒っていたんだと思う。」

 「ああ…、いかにもありそうな。うちの父って、心根はやさしいけどそういう男だからねえ。流れたんならしょうがないだろ。じゃあまた作るか。なんでそんなに怒ってるんだ、っていう。」

 「お母さんの感情が、お父さんには理解できなかったんだね。」

 「母自身、自分の感情を理解して説明できるタイプの人じゃなかったしなあ。それで病気になっちゃったんだけど。」

 「ごめんね。もし知りたくなかったようなら。」

 「ううん、多分ほんとうは知ってた。ありがとう。」

 思い出せてよかった。ただただ理不尽に父に対しネチネチ怒っていた、般若のようだった母のイメージが淡く消えていくのが、わかる。代わりに、子を亡くして嘆く、そしてその嘆きを愛する伴侶とも、誰とも、共有することが出来なかった、悲しく寂しい女性が、ポツンと現れた。

 私はその女性を抱きしめにいく。悲しかったね。よくがんばったね。それでもめげずに私を産んでくれて、ありがとうね。ちょっとお父さんをイジメすぎたけど、大好きなんでしょ。ずっとそばにいられてよかったね。あなたは父への想いを貫徹したよね。たいした玉だと思うよ。

 くうちゃんの赤い車が、音もなく暗い森の中へ入ってゆく。やはり、たいした魔女だと思う。

 

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