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「自分は何をしたらいいのか?」について

「何をしたらいいかわからない」という人がいる。

「好きなことをしていいよ」と言われたり「好きな職業に就けるなら?」などと聞かれると頭が固まってしまうのだ。

人生相談にはこういう相談が必ずあって、それは僕の世代でも同じだった。

死ぬほど言われてきた事だけど「何をしたら褒められるのか?」(もしくは「何をしたら怒られないのか?」)を主体に考えて行動していると、次第に「そもそも自分は何がしたいのか」がわからなくなるわけだ。

日本ではこういう「他者に評価されることを目的とした教育」が延々と続いていて、そのせいで多くの人が「自分」がわからなくなった。

そういう人達を「アダルトチルドレン」と呼んだり「自分探し」なんかのブームも起こったのが0年代くらい。

そんなこんなやっているうちに政治も経済も(文化も)ボロボロに劣化して行き「生きていくだけで精一杯」の時代が来てしまった。

「自分は何がしたいのか?」「自分とは何ものか?」なんて考えるエネルギーも余裕もない人達が多数派になった。

【AIが見つける自分】

そこにトドメを刺すようAIが「あなたのオススメ」を洪水のように押し付けてくる時代になった。

自分探しまでAIがしてくれるわけだけど、その出口は基本的に「消費行動」だ。

「何がしたいか?」は「何を買えばいいのか?」であり、消費のために必要なお金の問題には「こうすれば儲かる」とかいう情報も合わせて送られてくる。

AIは「自分」を「消費行動の奴隷」として定義していて、油断していると「買う」と「稼ぐ」の無限地獄へ導く。
(映画「ファイトクラブ」はそんな地獄からの解放闘争がテーマでしたね)


ともかく「便利な機能」は人間から「意思」とか「自分」とかを奪っていくようにできているので、今の日本は「評価教育」と「ネットAI」が2段構えで(本当の)自分を消してくる国なのだ。

こういう流れを見ていると「自分に従って生きる」というのが本当に難しい時代になったのだと思う。


【逆張りブーム】

そうしてみんなが「みんなと同じ」になる雰囲気になると、今度は「自分だけはあいつらとは違う」という気分が「商品」になってくる。

言論人の多くが「世間と真逆のこと」を言って人気を集めているのはそういう気分(危機感)が背景にあるのだろう。

僕の書いた「非属の才能」にも「ひねくれスイッチを押せ」という、世間の空気に逆らっていいのだ、という内容を書いていたのだけれど、それはあくまで「自分の感覚を優先しろ」という話で、闇雲な「逆張り」を推奨していたわけではなかった。

どちらにしても「流され派」も「逆張り派」も「他者への評価」が目的ならば同じことだろう。

【突然現れた自由時間】

そんな時代に突然「パンデミック」が来た。
「全自動」で生きてきた多くの人達に「自由な時間」が強制的に与えられたのだ。

この感染症はあなどっていると「無症状」が「急変」して命を奪う。
「風邪と同じだ」などと言っている人達がいる一方で、1日に3000人以上の人が亡くなっている人がいる国がある。

誰もが「いつ死ぬかわからない」状況で「考える時間」が与えられたわけだ。


【犬のおまわりさん】

そんな時、興味深い動画のリンクが送られてきた。

今日の時点で776万回再生されている人気動画なので観た人も多いと思う。

2歳の女の子が「犬のおまわりさん」をただただ一生懸命に歌っているだけの動画だ。

この動画の魅力は、この子がまだ「どうすれば褒められるか」を十分に意識(理解)してない点にあると思う。

多少テクニカルな表現があるので「歌唱指導」は受けているのだとは思うけれど、それより「ただただ歌っている」感じがする。

「自分とは何か」とか「高評価のためには」とか、そういうアホみたいなものに支配されていない。

今のこの子にとっては「歌う」も「走る」も「食べる」も「泳ぐ」も同じ「新鮮な体験」なんじゃないか、なんて思う。

動画には「銀賞」なんて書いてあるけど「次はがんばって金賞を」なんて馬鹿なことを彼女に言わないで欲しい、なんて思う。

「いいね!」「君の歌は最高!」「君は最高!!」だけ言ってあげて欲しいんだよ。

【好きの始まり】

細野晴臣さんが「自分を形成するもの」に出会うのは「3歳か4歳に出会ったもの」だと言っていた。

「人生は14歳の時に出会ったものに支配される」という定番ではなく、本当は「物心つく瞬間に出会ったもの」だというのだ。

「みんながいいと言っている」とか「褒められるから」とかの意識が邪魔をする前に「好き」と思ったものが「自分」を形成している。

つまり、迷ったら「その頃好きだったもの」に戻ればいいのだ。


ヤングサンデーでは庵野監督のエヴァの話をしていたけれど、彼にとっては6歳の時に出会った「ウルトラマン」が絶対的な「好き」になったのだろう。

もちろん「ウルトラマン」だけではなく、彼の作品には3、4歳頃に観た様々な「好き」が込められているのだと思う。


第1世代の「オタク」にとって、自分の「好き」は絶対的なもので、それはいくつになろうが社会的責任が増えようが捨てられるものではない。

新劇ヱヴァ2作目「破」で彼が「諦めない」と宣言したのは「大好きなウルトラマン」を手放さないこと、だった。

作中で出てくる「この世界には面白いものが一杯あるのよ」というミサトのセリフは、おそらく庵野監督の言葉だろう。

庵野監督は、この世界に生まれて沢山の「面白いもの」と出会った。
そして「自分もそれになりたい」と思い、同じような作品を作りたいと思った。

その原点である「好き」を手放したら彼の魂は死んでしまうのだ。
彼が「ウルトラマン」を手放したら死ぬのだ。

すでに「ウルトラマン」は彼自身でもある。
そんなウルトラマン(劇中では綾波レイとして出ている)を抱きしめるのは「自己同一化」の儀式だった。

そんな話をヤンサンでしていた時「好きを諦めない(ユリ熊)」みたいなコメントをもらった。

まさに幾原監督が「ユリ熊嵐」で言っていたのも同じテーマだったし、ウテナのラストでの「自己同一化」とも重なる。

同世代の庵野、幾原両監督が向き合ったのは「戦争」でも「学園紛争」でもなく「自分を取り戻す」というテーマだったのだろう。


【あなたのウルトラマンは?】

そんなわけで、僕も今「自分の本当に好きなこと」について考える日々を送っている。

長く商業誌で自分を抑圧して作品を作ってきたけど、明日死ぬかもしれないのだ。
僕にとっての「ウルトラマン」に向き合うのだ。

これを読んでいる人で、今まさに「自分はどうなんだ?」と迷っている人がいるなら「3、4歳の頃に好きだったもの」を思い出して欲しい。

それが正解かどうかはともかく、これから先の人生を決めていく「指針」や「ヒント」にはなると思う。


えーー・・
そんなわけで次回のヤンサンでは「男女の問題の本質」に迫るシリーズとして「性」を「ポップな商品」に変えた「プレイボーイ創始者ヒュー・ヘフナー」を題材に楽しく思索したいと思ってます。

ディスカバリーレイジチャンネルでは、いよいよ「インド哲学」の本質に迫るシリーズが始まりました。
こちらもワクワクして「目が覚める」企画なのでよろしくお願いします。

それでは今週もお身体に気をつけて!


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