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<神さまじゃないんだから>

*この記事は「脱サラをする前に」というサイトから転載したものです。

最近は「民主主義の崩壊」を危惧する声を聞くことがありますが、その背景にはITの発達があるように思います。ITが発達したことにより、いろいろな人がそれぞれの意見を社会に発信できるようになったからです。以前ですと、一般の人が社会に自らの考えを発信するにはマスコミを通してしか方法がなく、その結果いろいろな、そしてそれぞれの意見がマスコミによって収れんされていきました。その結果、いろいろな意見はマスコミの数に絞られることになっていました。

もしかすると、そうした社会構造が民主主義を成り立たせていたのかもしれません。現在のようにSNSなどで多種多様な意見が発信されますと、あまりに意見が多すぎて完全に一致する意見が生まれにくくなっています。僕は、それが巷間いわれる「民主主義の崩壊」につながっているように思います。

民主主義の難しさを痛切に感じたのは十数年前に中東地域の各国で起きた「アラブの春」です。なにかの記事で読んだのですが、民主化運動の「アラブの春」が起きたのもITの発達が大きな要因だったそうです。しかし、その後の展開を見ていますと、「アラブの春」はあまり成功とは言えない状況です。

独裁政権で生活することに慣れている人たちからしますと、民主主義の「すべてを自分たちで決めるシステム」が容易ではなかったのかもしれません。上から言われたり与えられることに慣れている人々にとっては、対立する意見を調整するのは並大抵のことではないはずです。意見の調整とはそれぞれが「100%満足する」ことではなくなることだからです。

今年初めに「セクシー田中さん」の原作者がお亡くなりになった事件がありました。先日、それを検証していた日本テレビと小学館の両方から検証報告が発表されました。本当の原因がどこにあるのかは外から見ている僕にはわかりませんが、この事件も結局のところは原作者とテレビ局の調整がうまくいってなかったことに要因があるように思います。

調整がうまくいっていたなら原作者と脚本家の軋轢も生まれなかったでしょうし、最悪の状況も起きなかったはずです。外部の人間である僕が軽々しく意見を言ってはいけないことは重々承知しておりますが、一つだけ言わせてほしいことがあります。それは、小学館および日本テレビの、原作者および脚本家に対する向き合い方です。僕には小学館と日本テレビの両方が原作者・脚本家それぞれに対して真摯に向き合っていなかったように感じます。俗な言い方をするなら「なめている」という感じです。

「なめて」いましたので、ドラマ化に際して本気で調整していなかったように見えて仕方ありません。ドラマの最後2話を「原作者が脚本を書いた」のは調整がうまくいってなかったことの顕れです。おそらく小学館の担当者も日本テレビの担当者も、当初は軽く考えていて本気で調整していなかったと思えて仕方ありません。

僕がこのように思うのは、それこそいろいろな情報に接することができるからです。もし小学館と日本テレビからだけの情報であったなら、両方に批判的な僕の考えは思い浮かばなかったでしょう。いろいろな情報を得ることができたからこその僕の考えです。

このようにいろいろな情報が得られることは民主主義の一番の長所ですが、その情報の正確さが保証されているわけではありません。最近では著名人の偽広告が大きな問題になっていますが、広告よりも社会的影響が大きいのはニュース・報道です。ニュース・報道自体が偽であったなら世の中で起きていることを正確に知ることができなくなってしまいます。

僕はたびたび書いていますが、ウクライナやゴザの戦争状況も、メディアの立場によって伝え方が違っています。ときには正反対な印象を与える映像が映し出されることさえあります。事実が真実でなかったならこれほど危険なことはありません。どこに正義があるかわからなくなってしまいます。しかし、今の時代は「正義が幾つもある」とまで言われていますのでさらに判断が難しい世の中になっています。

先進国であるはずの米国で、現在州によっては「中絶が法律違反」なっているそうです。宗教が関係しているであろうことは想像できますが、IT先進国である米国で「中絶禁止」となっているのは驚きです。しかし、見方を変えるならこれも民主主義だからこその結果ともいえます。「中絶禁止」と考える人が多くいることの裏返しだからです。

そもそも米国では長らく「中絶」は憲法で違法だったそうです。しかし、1973年にテキサス州のある主婦が裁判を起こし「違憲」ではなくなっていたのですが、一昨年にその判断を覆す判断が下され、また「違憲」に戻ってしまいました。ですので、現在米国では中絶を禁止している州にいる女性は「中絶」をする場合わざわざ認めている州まで行く必要があるそうです。

先日、映画評論家の町山智浩さんがこのことを描いた「コール・ジェーン 女性たちの秘密の電話」という作品を紹介していました。「中絶禁止」を合法化した判断が起きたのは、「中絶容認」を支持している人と同様に、真剣に「中絶禁止」を考えている人がいるからです。ここに民主主義の難しさがあります。

よく考えてみますと、民主主義では「正解」を決めることはできません。民主主義で決められるのは「多数決」の結果でしかありません。そうしたときに悩ましいのは「多数決」が「正解」とは限らないことです。多くの人が賛成したからといって、それが正しいとは限らないことは歴史が証明しています。

先の戦争に関する書物を読みますと、わが国でも戦争が起きた当初は「戦争反対」の声よりも「戦争賛成」とまではいかなくとも「戦争容認」の雰囲気のほうが強かったそうです。もちろんそうした雰囲気を作った戦争遂行派の策略もあったでしょうが、それに乗ったことも事実です。ドイツでヒットラーが台頭してきたのも民主主義の中での出来事でした。僕が民主主義では「正解」を決められないと思う由縁です。

小学校の頃、森山先生に民主主義を習った際に言われたのは「少数意見の尊重」でした。これがなければ「多数決の独裁主義」になってしまうと教わりました。しかし、幼心に思いました。せっかく「多数決」で決めたのに「少数意見」も取り入れてしまうと、多数決の意味がなくなるじゃん、多数決の損じゃん、と。

しかし、世の中には多数派の人だけが暮らしているわけではありません。少数派のいろいろな考えの人が生活しています。そうした人たちも気持ちよく生きていけるようにする必要があります。いえ、「必要」ではなく「義務」です、民主主義の。

民主主義が「正解」を決められないということは、それぞれの個人も「正解」を選んでいるわけではないことになります。だとするならば、100%自分の思いどおりにしようと考えるのはまちがっています。自分の考えが正解とは限らないのですから、100%を求めるのではなく、70%くらいの実現で納得するのが世の中をうまくまわすコツといえそうです。

「ベスト」ではなく「ベター」くらいがいいじゃないでしょうか。神さまじゃないんだから。

じゃ、また。

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