見出し画像

和菓子で鹿嶋を面白お菓子くしたい7代目

アントラーズサポはじめ、一部のJサポの皆様にはおなじみ、鹿島菓匠丸三老舗の7代目若旦那でございます。

お店のことはよく知ってる!!という方も多いとは思いますが、意外とディープなストーリもあるので、まずは改めてお店の歴史など紹介させていただきます!

丸三老舗昔の画像

お店は丸三老舗まるさんろうほ)といいまして、鹿島神宮の参道の端っこにあります。(画像は昭和30年代の本店の様子)

一般的に老舗といえば「しにせ」と読むんですが、何故か「ろうほ」です。(昔からの取引先や金融機関なんかからも間違えられることは多いので、特に気にしてはいません。)
「ろうほ」と読む理由は?とたびたび聞かれますが、正直分かりません…💦お店の歴史は古く、創業1822年と伝え聞いております。


かつては地元住民向けに細々とお饅頭や餅などを作っていたようなのですが、戦後の高度成長期における国内観光ブームに乗って、祖父である笹沼清一(5代目)が鹿島神宮への参拝客向けに日持ちのする羊羹(鹿島城羊羹)や最中(鹿島立最中)を土産物として販売し大ヒット!
鹿嶋市(当時は鹿島町)近隣では押しも押されぬ有名和菓子店に成長したとのことです。

また、若旦那の父である笹沼清和(6代目)が、京都の和菓子店に修行に出され、饅頭、餅、羊羹、最中といったベタな和菓子以外にも京風のエッセンスをちりばめた(田舎らしからぬ)創作和菓子を始めたことで、さらなる業績拡大に成功。
バブルの熱にも浮かされ次々に店舗も増やし、鹿嶋のみならず茨城東~南部を代表する名店として鹿行近隣~水郷地域に最大8店舗を展開しました!


…が、高度成長期~バブルにかけて一気に成長を遂げた丸三老舗も、90年代後半にバブルが弾けてからはジワジワと店舗数を減らし、さらに若旦那が大学生だった1997年に丸三老舗を一気に成長させた最大の功労者である5代目清一が不慮の事故により突然の死去…。
その後を経営者というよりは職人気質の6代目清和が後を継ぎました。

父清和は男兄弟4人で、弟(若旦那にとって叔父たち)それぞれが店舗や工場、事務など重要なポジションを担当していましたが、突然の清一の死去に不景気な状況も相まって日々喧々諤々でなかなかストレスのかかる状況が続いていたようです。

そのストレスのせいか日ごろの不摂生(ヘビースモーカー!)のせいかは分かりませんが、若旦那が大学卒業後に入学した製菓専門学校を卒業し、都内有名和菓子店で修業を始めた2001年4月、肺腺癌に罹ったことが発覚…。

若旦那は父がヤバいという話を聞き、すぐに当時修行していた店を辞め鹿嶋に戻りましたが、すでに癌が全身に転移し手の施しようのない状態に。

肺から脳に癌が転移していたことで、癌が発覚してから意識もすぐに混濁状態になり、7代目として受け継ぐべきであった丸三老舗の歴史なども一切聞くことができず、6代に渡り積み重ねられてきたストーリーは、5代清一、6代清和の立て続けの急逝によってほぼ断絶してしまいました。
(冒頭に書いた丸三老舗の読み方の由来がよく分かっていなかったり、これまでの歴史が伝聞調であった理由はこちらになります…)

そしてそのまま7月には死去し、まだ20代前半だった若旦那が7代目を継ぐ…
ことになると思いきや、叔父3人が、店舗、工場、事務所という重要なポジションの責任者としてまだまだ健在で、親族会議の結果「お前はまだ若いし、まずはこっちで社長をやるから」ということで、学校を卒業したばかりの若旦那は工場の端っこで与えられた仕事だけを黙々とこなす日々が続きます…。

それなりに血気盛んだった若旦那は、そういった状況に飽き足らず新商品の開発などにチャレンジしようとコソコソ動いていましたが、当時の工場長だった叔父から「余計な事するな!」という話をされ、言うまでもなく経営にも携われず、丸三老舗に居場所は無いな…と悟り、仕事の合間に転職活動し、運良く(悪く?)起業家排出機関と自称していた東証一部上場の某コンサル企業に中途採用され、鹿嶋を離れました。(このコンサル会社でのストーリーもまた超強烈なので、別の機会に…笑)


そして若旦那が去った後の丸三老舗は、もう絵にかいたようなバブル崩壊負け組企業になり、年々業績は悪化…。

当時経営していた叔父が打つ手も全てが裏目に出たうえ、景気が良かったころの名残で会社のお金の使い方の公私混同も酷く、経営状況はあっという間にとてもここでは書けないような最悪のレベルに…。

かつて8店舗を展開し、鹿行地域で栄華を誇った丸三老舗は、ド派手な粉飾決算をしても倒産寸前、銀行への返済もストップ、税金は数年滞納、お給料や支払いも遅延続きという状態にまで成り下がり、歴史があり、倒産すれば地域経済に悪影響が出る…ということで何とかお目こぼしをしてもらってるだけのゾンビ企業になっていました…。

そんなこととは露知らず、都内でサラリーマンをやっていた若旦那は、コンサル会社の次に入った体育系営業会社で自分ですら気づいていなかった営業スキルが大開眼し、トップセールスとして順風満帆な東京生活を満喫(笑)

そんなある日、丸三老舗で名前だけ役員だった母から「どうも会社がまずい」との連絡をうけ、鹿嶋に戻ってみれば当時社長をやっていた叔父は完全にお手上げ状態…。あれよあれよと後を継ぐことになり、今に至ります!
(実際の丸三老舗再建までの道程もまた別の機会に詳しく!)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?