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「自分の感受性くらい」とはいうけれど。

Twitterやnoteにさらさらと文章を書けるようになりたくて、「書けるひとになる!魂の文章術」という本をKindleで購入した。

文章を書く練習として、感じたことをすべて書き出してみようとあり、なるほど、と思い、「何でも書くノート」を作った(TOEICの勉強をしようと思ったらしく、表紙に「TOEIC」と書かれているが中身はまっさらなままのノートを見つけたので再利用した。何年前のものだろう)。
人に見せるものではないし、自分で読み返すことも考えず、つれづれなるままに、心にうつりゆくよしなしごとを、何のフィルターも通さずにつらつらと垂れ流す。
何の制限もなく思考をすべてノートに書き記していたらいつまででも書き続けられるのではないかと思っていたが、案外すぐに書くことは無くなるものだった。私ってこんなに何も考えてない人間だったのか、とちょっとショックを受ける。

ちょっとした用事があって、役所まで往復1時間ほど歩いた。
帰宅して、では道すがらあったことを書き出してみよう、とノートに向き合ってみたものの、書くことが思い浮かばない。
1時間の間に見たもの、感じたことを、特別なことでなくてもいいから何でも書いてみればよいのに、何も思い出せない。
雨が降りそうな気がして長傘を持ってきてしまったことと(結局降らなかった)、帰路のはじめの方でドラッグストアを見つけ、そこそこ重たい買い物をしてしまったせいで、「荷物重たいな」「傘邪魔だな」くらいしか感じることが無かったし、徒歩で行くのは初めてだったから道を間違えないことにばかり意識が行っていた。
きっと私は、感性を閉じて歩いていたのだ。

小学校低学年の頃、私は大人の足なら片道20分程度の道のりを1時間以上かけて下校していた。早く帰らなければいけないなどという考えはなく、道端にある全てのものに気を取られて歩いていた。
季節の草花。虫たち。用水路を流れる水。
名前を知っている野草たちすべてが、幼い私に語り掛けていた。
小学生の私にとって、帰路の草花や虫は背景ではなかった。
毎日のようにタンポポやらヒメジョオンやらホトケノザやらを摘んで遊び、家に帰ってヤクルトの空き容器に差して飾っていた。

やがて忙しさや疲れからか、空の色や雲の動きにも目を留めなくなった。
社会生活を送るには、万物に感性を開いていることは忙しすぎる。
作家が精神を病むことがあるのは、感性を開いたまま社会生活を営むことの難しさ故なのかもしれない。
実際、(私は作家ではないが)精神のバランスを崩してから、感性の開き具合について意識的に調節した。

社会生活を営むことと、感性を開いて感じる豊かな世界を享受することのバランスを保つことは難しい。
けれど、残業帰りの星空や、季節の花の香り、肌に触れるニットの心地よさ…立ち止まって感じずにはいられないものがきっとあるはずだ。
大人になった私たちは、ともすれば日々の「やらなければならないこと」に忙殺されがちだけれど、その道程にあるものたちのために、時々足を止める余裕を忘れずにいられたら、と思う。


よろしくお願いします!