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仏談 ー五劫思惟ー

 いやしかしこのテーマは興味のない人にとってはクソつまらないものであるに違いない。面白くないにも程があるといったところだろうか。でも何の因果か、私は若い時分より仏教の世界に興味があり、これまでに買い求めた書籍は数知れないし、一人で寺院や博物館に足を運んだ。僧侶の解説に膝を打ち、文化財の特別開帳日には胸を躍らせた。特に人々の祈りの対象である仏像の世界には完全にハマった。残念ながらこの仏像については、興味を共有できたリアル世界での隣人はいないが、私にとってはしびれるほど心酔できるモノがあったりする。今やある程度有名なものならば「〇〇寺の△△観音」「▼▼院の⬜︎⬜︎坐像」などと、所蔵する寺と尊格 ( 仏像 ) の名称までわかるようになった。
 しかしみうらじゅん氏のように芸術として仏像をとらえていらっしゃった方が亡くなったという噂がまことしやかに流布された時には、大きな喪失感を感じたものだ。仏像のような極々古式ゆかしい世界とサブカル界のパイプ役でもある彼亡き後は、相棒のいとうせいこう氏一人の双肩に大きな責任がかかることになるからだ。デマで良かった・・・。そんな私もまだまだ駆け出しに違いないが、これを読んでわずかでも「へぇ!」と思ってくれる人がいれば嬉しいのだけれど・・・いないか(笑)

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 もともと自然崇拝(太陽、山、海など)を絶対的な神(GOD)としていた当時の日本人の宗教観に、海外発祥の新興宗教である仏教は強力に切り込んできた。黎明期には賛否両論の対立をもたらし政治をかき乱した訳だが、かの聖徳太子たちの働きもあって、結果として反対勢力の抵抗にあいながらもお釈迦様の教え(だと弟子たちが記録したこと)は全国に浸透していった。これが我が国における仏教の始まりだ。以後仏教の世界観に従い、世の中の人々は死んだら天国(極楽)に行くことを夢見て毎日を送ったのである。しかしそんな平和な日々の中、悪夢のような次の情報が人々を恐怖のどん底に陥れた。

「お釈迦様が亡くなって1500年経ったらその法力が消えて、どんなに祈っても救われない暗黒の世界がこの先1万年続く!!」

 お釈迦様が入滅したのは紀元前483年といわれているから、1500年後は紀元983年になる。日本は平安時代だ。持てる者も持たざる者も死後の世界を疑いなく信じ、地獄に落ちることを全員が心の底から恐れていた当時、こんなニュースが入ってきたらそりゃパニクる。「俺も地獄に落ちるのか!?救ってくれるはずのお釈迦様ももうすぐ頼れなくなるぞ!」お釈迦様の死後1500年のタイムリミットまで、もう時間がなぁぁぁい! 

 お釈迦様の後継者である、弥勒如来(ミロクニョライ)が現れて衆生を救うのは1500年どころか、お釈迦様の死後56億7千万年後だ。そんなミライのことを待っていられるか!! だから民衆は皆こう思ったのだ。「俺が生きている間にお釈迦様の後継者は出てこないなら、それまでに死んだら地獄行きだー。なんとかしてくだせぇ!!」と。

 そんなある日あるお坊様が現れこう説いた。「どんな悪い行いを犯した者も、『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで、その罪は償われ、仏の住む浄土に行けるのだ」と。当然民衆は飛びついた! 誰もが「もしや、あの時ムシを殺した私は地獄に行くのかも……」ってビビっていたんだからね。その『南無阿弥陀仏』の祈りの対象として造られたのが、ご存知阿弥陀如来だ。阿弥陀様は人が亡くなる往生際には自ら雲に乗ってお迎えに来て、そのまま『極楽浄土』へと連れて行ってくださる。何と素晴らしいシステムであろうか。様々な○○如来の中でも、一番多いのが阿弥陀如来であることを考えても、この阿弥陀信仰は民衆へのインパクトは絶大だったみたいだ。

 タレントさんがロケで温泉に入ったりすると「はぁぁ、極楽極楽〜ぅ!」と言ったりするが、この『極楽』こそ、昔から民衆が 死後に住みたい町No.1 である夢の楽園である。そこには一切の苦はなくただ楽のみがあるらしい。またいつでも阿弥陀様の有難い説法を聞くことができるとも聞くが、私個人としては、それはあまり有難いものでもないから特典としてはちと弱いかな。でも当時の人たちにとっては、今でいうとドバイのブルジュ・アル・アラブに召使い付きで住むより、さらにすごいことだったのだろうなぁ。
 この阿弥陀如来様だが、全ての人々を救う(成仏させる) ための方法をずっと考え、また願っておられるのだが、この願いを「本願」という。他力本願という成語があるが、これは人が自分が修行した結果ではなく、阿弥陀如来の本願によって成仏することを指す。だから、自分では何もしないくせに他人の力をあてにするという、私たちが普段使っているような意味とは少し違うのだが、どちらにしても自分は楽チンで明らかに虫のいい話なのかもしれない。

 阿弥陀如来というお方は考える仏様である。人々を救う方法をいつも考えておられる。またそれをご自身に課しておられる。しかし考え過ぎるきらいがある。というのも・・・色んな如来の頭髪はまるでパンチパーマのような『螺髪(らほつ)』と呼ばれる様相を呈するのだが、あまりにも長い時間考えると、仏とはいえその髪が伸びる。なんと阿弥陀様、伸びた分だけ頭が膨らむのである。だから長い間考えてしまうと頭はデカくなる。まるでアフロだ(笑)  ちなみに髪がデカくなった阿弥陀如来像を「五劫思惟阿弥陀如来」(俗にアフロ仏)と呼ぶ。見ればわかるがほぼジャクソン5でありファンキーこの上ない。
 「思惟」は考えるということなのだが、「五劫」とは時間の単位である。だから「五劫思惟」であれば「五劫」の期間考えましたってことだ。その「劫」とは、、、100年に一度、空から降りてきた天女が、着ている羽衣の袖で1由旬(長さの単位で、1由旬は10km以上)四方の立方体である大きな岩の上に立ち、足下の岩肌をひと撫でする。その行為によって、岩がすり減ってすっかりなくなってしまう時間が、まず一劫だ(そんなアホな!)。五劫とはその5倍ということである。「寿限無」に出てくる「五劫の擦り切れ」の五劫ですね。ま、とてつもなく長いということだ。

 ところで阿弥陀様にはお気に入りの子分(脇侍 わきじ・きょうじ)がいて左右に従わせてるが、正面に向かい合ったら、向かって左側の尊格が勢至菩薩、右側はかの有名な観音様なんだけど、観音様の話はそれだけでかなら盛りだくさんだから、今日はこの辺にして、別の機会に取っておこうか。

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