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『行くな』を飲み込んだ母親

 なんという展開だろう、私たち家族は先月に続き、再び鹿児島を訪れることになった。なんとなれば先月、先の大戦末期に若者たちが国のために散っていった特攻隊の記念館(旧鹿屋海軍航空基地:現海上自衛隊鹿屋航空基地)に行くため鹿児島県の鹿屋に行ったのだが、その時私たち夫婦のおまけの形で同行した息子が一連の訪問先に痛く心を動かされ、旧海軍だけでなく今度は陸軍の特攻隊の歴史にも触れたいたいと言いだしたのである。しかし2か月連続でそんな遠いところへの泊付きの旅行はさすがに厳しいとその時は断ったのだが、本人は諦められなかったのだろう3日ほど経って、旅行費用は自分が出すからまた鹿児島に、今度は知覧に行かないか?と申し出てきたのである。3人で鹿児島までとなれば少々思い切らないといけない出費になってしまうが、その全額を拠出してまで行きたくなった息子の気持ちが二重の意味で嬉しかった。もちろん両親を連れて行ってくれるまでに成長したこと、そして今年24歳になる自分よりさらに年下の当時の若者のことを、日本人としてもっと知りたいと思ってくれたことに。息子の意思を尊重し、厚かましくも大いにその思いに甘え、私たちは再び鹿児島の地に降り立つ計画を立てることになったのである。 

 知覧においても鹿屋の海上自衛隊内にある資料館と同様のことを感じたのだが、多数展示されている特攻隊員の遺書を見ているとそのほとんどが泰然自若で達観しているかのような文面なのである。しかしその落ち着きは本当なのだろうか・・・。本当に心静かにその時を迎えたのだろうか。私の中でずっと疑問であったそのことに、今回の鹿児島行で答えを得ることができた。その日、語り部である男性から、私自身納得できる話が聞けたからだ。出撃を翌日に控えた少年たちの多くは、前夜兵舎の中で頭から布団をかぶり、肩を震わせ泣いていたのだという。そりゃそうだ!と私は涙をぬぐいながら膝を打った。一見勇壮に思える特攻隊員も当たり前だが怖かったはずだ。メシどころではなかっただろうし眠れるわけがない。

 もう一つ。敵艦に突っ込むその時には母を呼んだという話を、私は長い間『話半分』で聞いていたのだが、ある少年兵の話を聞いてそのモヤモヤも一掃した。知覧ではないのだが、ある基地内で特攻攻撃の志願者を募った際、それ以外の回答は許されない空気感の中で『熱望』の意味となる二重丸を記して提出した少年兵がいた。いよいよ明日が出撃という夜、漆黒の闇の中、その少年兵が『お母さん!お母さーん!』と何度も叫んで滑走路に向かって走っていったという。もしかしたらまだ整理がつかない心を落ち着かせるには、その存在しかなかったのではあるまいか。まだまだ子供だといってもよい歳の彼らが、自分の死にあたり冷静でいられるはずなどない。だから敵艦に突っ込む時には『お母さん!』と叫ぶことには大いに合点がいく。このことは書籍にも、映画『連合艦隊』においても描写されていた。
 特攻機からの連絡は電信信号によってのみ行われ、基地の電信室で信号を受信している通信担当が、飛行兵からの『敵艦発見』や『今から突撃する』といった連絡を受信する。特攻機はいよいよその時には発信機を押しっぱなしの状態にして突っ込むというから、『ツーーーーー』という発信音が途切れたことで『突入』が確認される。電信を受ける側もなんとも辛い仕事であったろう。実際飛行兵たちが『母』を叫んだかどうかは知るすべもないが、そんな状況を想像すると切なくてじんわり涙が滲んでくる。

 特攻機に搭乗する日が近づいた本人に、攻撃直前に休暇が認められることがある。ひょっこり帰ってきてすぐまた隊に戻る我が子を迎えた家族は、口にはせずとも、その運命がわかっていたのだろう。いよいよ隊に戻るために慌ただしく家を後にする我が子を見送る母は、笑顔の奥で『行くな』の言葉を飲み込んだのだろうか・・・。

 今回の旅で改めて私は確信した。日本を救うため、故郷のため、そしてなにより愛する家族のために現実に戦っていたのは、大臣や政治家や将軍より、ひたむきな若者や一途な少年たちだったのだ。そんな彼らの気高くも悲しい運命があったことを、我々は忘れてはいけない。

 精神を病んで時に思考が極端に走る妻は言う。もし我が子に戦いの召集がかかるような時代が来てしまったら、兵隊として不適格となるために子供の片足を折る。それでもだめなら片目をつぶす。子供の命を守るためなら自分は犯罪者にでも鬼にでもなるのだと。戦時中なら非国民のそしりは免れず、村八分となって近所の人から石を投げられそうな話だが、そう言う妻の目は笑っていない。

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