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妻がうなぎのお化けに取り憑かれた話

僕の妻がうなぎのお化けに取り憑かれた。去年の8月のことだ。ちなみに今は解決済みなので安心してほしい。僕の妻は少々ヒステリックな質で、僕は彼女の扱いに度々辟易していた。妻は僕を鈍感だとなじり、僕は妻の理不尽に思える言い分を黙って聴く。僕らはうまくいっていなかった。
あの日もそうだった。僕は彼女のためにコンビニでひつまぶしを買って帰った。彼女は暑さに滅入っていて、冬場よりもさらにイライラしているようだったから。もちろん、事前に夕飯を買って帰るとはラインで伝えていた。ありがとう、という返信も確認している。僕は「そんなお金がどこにあるのですか」などとなじられる可能性も危惧していたので安心してコンビニに寄ったのだ。けれど彼女は、帰宅した僕がひつまぶしを食卓におくなり激怒し始めた。



「これって、うなぎ?」

「そうだけど」

もちろんうなぎだ。彼女の眉はどんどんつりあがり、ああ、くるぞ、と僕は身構える。

「なんでうなぎなんて買ってくるわけ?!」

「えっ、それは」

彼女の好物だと思っていたからだ。高校生の頃からつきあいだした僕らは、お互いの好みをよく知っている。僕の知る彼女はうなぎが好きだった。お寿司を食べにいけばうなぎを注文するし、うなぎ定食なんか目を輝かせて食べていた。なのに彼女は今怒っている。

「うなぎは、うなぎは、絶滅しちゃうのよ!」

「え」

それは知っている。うなぎは絶滅危惧種だ。

「だから私は、うなぎは、二度と食べないって決めてたの!」

それは知らなかった。彼女の顔は真っ赤だ。僕は謝ろうとした。でもできなかった。だって知らなかったのだ。これは僕のミスだろうか?正直なところ、僕はもう妻とはやっていけないと思い始めていた。意識が低いだとか、うなぎがかわいそうだとか、喚く彼女の言葉を遮るようにして僕は切り出した。

「早希、あのさ、僕たち……」

「え」

彼女は急にぽかんと口をあけて宙を見つめた。赤かった顔から、さぁっと、血の気が引いていく。

「え、なにこれ、なにこれ?なに?」

「どうしたの、早希?」

ただごとではない様子の彼女に声をかけると、彼女はこちらを見る。

「これって、どっきり?」

「……なにが?」

「だって、これ……」

妻は宙を指さす。なにもない、そこには。

「どうしたの?」

「どうって……うなぎが、いるじゃない」

「え?」

「うなぎが、いて、喋ってる」

意味の分からないことを言い出した妻をマジマジと見つめる。

「見えない?」

「見えない」

また怒られるかも、と思ったが正直に答えた。妻はなにもない空中と僕を見比べる。

「うん、わかった、わかったわ」

一人で納得して、妻は椅子にさっと座ると割り箸をぱきんと割った。

「これは私の罪悪感が見せる幻なのね。ひつまぶしを食べたら消えると思う。おかしなこと言ってごめんね」

妻が僕に謝った!言っていることはよくわからないが。妻に罪悪感なんてものがあるのも驚きだが。

「そうよ、幻よ、蝶ネクタイをつけた半透明のうなぎだなんて……」

妻はプラスチックのどんぶりを持ち上げてひつまぶしを食べ始める。僕もようやくコンビニチャーハンに手をつける。妻があからさまに僕のチャーハンを恨めしそうにみた。でも価格的にチャーハンの方が安価だったのだ。

翌朝、僕は妻の「なんでよ!」という悲鳴めいた声で目を覚ました。
僕と妻は別々の部屋で寝ている。妻は寝室、僕は居間のソファ。悲鳴は寝室から聞こえたようだった。嫌だなあ、と思いつつも体を起こし、のろのろと廊下を歩く。寝室のドアをノックした。

「どうしたの、早希」

「うなぎが、うなぎが」

熱に浮かされているような声だった。

「うなぎがどうしたの?あけるよ?」

返事を待たずにドアを開ける。妻はダブルベッドの上に座り込み、すすり泣いていた。

「どうしたの?なにがあったの?」

妻は静かに空中を指さす。僕はそこに視線をやるが、やはりなにもないのだった。

「見えないの?うなぎがいるでしょう」

「ごめん、見えないよ。なにも、見えない」

「うなぎがいるのよ。半透明の。きっとうなぎのお化けよ。しかも話しかけてくるの。今も」

「なんて言っているの?」

「優しいご主人でやんすねえ」

「え」

「私が言ってるんじゃないのよ!」

妻は僕に枕を投げつけた。僕はそれをそのまま顔面で受け止める。その方が妻の怒りが鎮まる可能性が高いからだ。避けると、荒れる。

「う!うるさい、私だってあんたにそんなこと言われなくてもわかってるのよ!」

妻は空中に向かって大声で喚いた。なんてことだ。妻がおかしくなってしまった。どうしたらいいんだろう。

「う、う、うなぎが、うなぎのくせに……」

妻は体を折り曲げ布団に突っ伏してまた泣き出した。幼子のかんしゃくのようだ。いつものヒスとは印象が違う。

「早希、落ち着いて」

「わ、私だって落ち着きたい。でもあなた、うなぎのお化けなんて見たことある?そんなものに取り憑かれて、落ち着いていられると思う?」

妻の言い分はもっともだった。だけどうなぎのお化けなんているわけがない。この科学の世の中に。いや、人間のお化けならいるかもしれないけど、うなぎって。うなぎだ。あのぬるぬるしたうなぎ。

「助けてよぉ」

妻は切実な声を出した。僕は布団に顔を埋めたまま泣き続けている妻を見つめた。そうだ。うなぎのお化けなんているはずないけれど、今は彼女を助けなければ。

「わかったよ、早希。じゃあ、どんなうなぎが見えるのか教えてくれる?絵を書いて」

手を動かせば落ち着くかもしれない。幸い今日はふたりとも仕事は休みだ。うなぎのお化けが見える妻につき合おう。妻はやっと涙と鼻水でグシャグシャになった顔をあげた。


妻の絵はへたくそだ。昔から下手なんだ。変わってない。でもかろうじてうなぎだとわかる。蝶ネクタイなんてつけているのか。

「このうなぎ、やんすやんすってうるさいの」

まるでお話の設定を聞かされているかのような気分になる。

「そうなんだね。今はなんて言ってる?」

「こんなに不細工な絵を見て噴出しないなんて、できたご主人でやんすねえ」

「そ、そうなんだ」

「そんなに下手かしら」

妻は自分の絵をしげしげと眺め、宙に向かって「よく書けているでしょうよ」と言い捨てた。うなぎに言ったのだ。

「はぁ、こんなうなぎに付きまとわれて、どうしたらいいのかしら」

「こまったねえ」

僕は妻の書いた絵をもう一度見た。妻が嘘をついているようには見えない。もし彼女がいないうなぎを書いたなら、おそらく髭をかいてしまうだろう。
これを見てほしい。



彼女が高校生の頃に書いた馬を再現したものだ。なぜか触覚があるのだ。
そんな彼女がうなぎを見ないで正しく書けるとは思えない。ということは、いるのか、うなぎが。僕は先ほどまで彼女が見つめていた空間を見た。

「じろじろ見られると照れるでやんす、見られていないことはわかっているでやんす」

妻が棒読みする。うなぎの言葉を教えてくれたらしい。

「それで、絵は書いたけど。これからどうしよう」

「そうだね」

何も思い浮かばなかった。それもそのはずだ。うなぎのお化けなんてどうしたらいいんだ。

「とりあえず、朝ご飯にしようか?」

僕の提案に、妻は一瞬顔をしかめたが、すぐに穏やかな表情でそうね、と同意してくれた。

「僕が作るよ。パンがいい?ご飯がいい?」

「……そうだね、外にいかない?」

「えっこんな時間に開いている店なんかないよ」

「うん。だからコンビニでパンやおにぎりを買って、どこかで食べるの」

それはかつて、僕らがまだ仲の良い恋人同士だった頃、よくやっていたことだった。

「それって、うなぎの提案?」

「……嫌?」

妻は肯定も否定もしなかった。だからよくわからなかった。でも僕は妻の提案に乗り、ふたりは車で出かけることにした。
僕が昨日帰りに寄ったコンビニへ向かう。6時半。開店したての店内には、まだチャーハンもひつまぶしもなかった。妻と僕はそれぞれサンドイッチとおにぎりや飲み物を買い込み、車に戻った。

「どこか、いきたいところはある?」

妻と、うなぎにきいた。妻は一瞬沈黙し、宙を見て、こくりと頷いた。

「高校にいかない?久しぶりに」

「高校?」

「うん」

「うなぎは、なんて?」

「お二人が出会った場所に行ってみたいでやんすねえ」

そういうことか。

「うなぎが満足したら、成仏するかもしれないでしょ」

「わかったよ」

僕は車を走らせる。まだ早いので対向車も全然いない。なにかはなそうと思うのになにを話せばいいのかわからなくて、僕は黙っていた。妻もなにもいわなかった。ただ、妻は時折うるさい、うるさい、とつぶやいていた。うなぎはなにか話しているらしかった。

10分ほどで母校に到着した。校門は当然のように開いているのでそのまま車を入れ、職員駐車場に停める。僕らはコンビニで買ったものを持って車を降りた。

中庭の石造りのベンチに腰を下ろす。昼休み、一緒に並んで親の作ってくれていたお弁当を食べていたことを懐かしく思い出す。

「孝くんはなに買ったの」

「僕はクルミパンとコーヒー。早希は?」

「私はツナマヨおにぎりと緑茶」

僕らはお互いの顔を見合わせ、しばし無言になった。

「あー、うるっさい。好みが変わったなってお互い再確認しているだけ」

早希が宙に向かって言う。

「孝くんはハンバーガーとミルクティだと思ってた」

「そう言う早希だって、チョコチップメロンパンとカフェオレだと思ってたよ」

「好みが変わったの」

「そういえば、昨日、僕がひつまぶし買ってきたのは、早希がうなぎが好きだと思ってたからなんだよね」

「うなぎは好きだよ、昨日食べたひつまぶしもおいしかった。でも、絶滅するものを食べるのはどうなんだろうって思っちゃう」

僕と早希は黙り込んだ。懐かしい話などひとつもせず、ただそれぞれの朝食を済ませた。高校生の頃はなにを話しても楽しかったのに。なにを話せばいいかなんて考える必要もないくらい、すべてのできごとを早希に聴いてもらいたかった。早希もたくさん話してくれたのに。昨日頭をよぎった別れが再び脳裏に浮かんだ。

「次はどこへ行く?帰る?」

「海に行こう。孝くんがプロポーズしてくれた、あの海だよ」

別れを切り出すか迷っている僕を妻は見抜いているみたいだった。僕は小さく頷いた。

久々に訪れた海は、変わらず綺麗だった。海だけは変わらないんだな。

「見て、あれ」

妻が指さす先には、水色の建物があった。

「あれって」

「うなぎの養殖場だよ」

「そういえば」

何年か前にそんな話を聞いた。この島でうなぎ養殖するんだって。

「あそこ、建物ができる前は浜の方へ降りていけたよね。あそこでいろいろ話したよね」

「うん」

やっぱり、なにもかも変わってしまうんだ。

「……私も、変わったよね」

「……うん」

また、僕らは沈黙した。沈黙ばかりのふたりだ。

「うん、わかってる」

妻は小さく小さくつぶやいた。

「ねえ、孝くん。ごめんね。私いつも、いつも怒ってたね」

「……うん」

「孝くんが私の好きなものを覚えていてくれて嬉しかった」

「でももう変わってたけど」

「だから、もう一度、新しく覚え直さない?お互いに。私も孝くんの今好きなものを知りたいよ」

僕はすぐに返事ができなかった。ここで頷いてしまえば、また妻のヒステリーに振り回されて疲弊するんじゃないかと思って。自分も妻も傷つけてつらいだけなのではと思って。妻の顔を見るのが怖くて、僕はうつむいていた。

「孝くん、僕からもお願いでやんす!」

突如頭上から降ってきた声は、妻のものではなかった。驚いて顔をあげると、そこにはうなぎがいた。半透明の、うなぎが。


「僕はもう消えるでやんすが、最後に、最後に早希ちゃんのことをお願いしたいでやんす!」

なるほど最後の力を振り絞って僕に姿を見せているのか。

「でもどうしてそこまで早希に」

「早希ちゃんは優しいでやんす。絶滅するから食べないと、もう死んでいる僕には意味ないのに言ってくれたでやんす!」

「あ、あれは優しさじゃないわ」

早希は戸惑っている。そうだ、あれは優しさじゃなくて僕への当てつけだった。

「そ、それでも僕は嬉しかったでやんす!早希ちゃんは孝くんを失うと不幸になるでやんす、早希ちゃんには不幸になってほしくないでやんす!」

「だけど」

「人間はすごいでやんす!壊れたら直すし、減ったら増やすために努力するでやんす!だから早希ちゃんも孝くんとやり直すためにがんばるはずでやんす」

「早希……」

数年前、この場所でプロポーズしたことを思い出していた。早希をかばうように半透明のうなぎが浮いている。うなぎ越しに早希の涙に濡れた目を見つめた。あの日も泣いていたな。

「孝くん。私、怒らないように努力する。だから、これからも一緒にいてほしいの。好きなもの教えて。クルミパンとコーヒーと、それから?」

「早希……」

うなぎがどんどん透き通っていく。代わりに早希の姿がどんどん鮮やかになっていく。最後に微笑んで、うなぎは消えていった。

あれから約1年、僕と早希は一緒に暮らしている。早希は怒ることが減った。理不尽さが減った。あのうなぎはなんだったのか、今でもわからない。だけど僕と妻の関係をつなぎなおしてくれたことは確かだ。
居間にあのうなぎの絵を飾っている。妻はこの絵を見ると自分を見つめ直せるそうだ。僕はこの絵を見ると、妻の書く絵のへたくそさを思い出し、その不器用さがかわいいのだと思い出す。僕らはうまくいっている。

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