『勝手にふるえてろ』を見て体調不良になりました

映画「勝手にふるえてろ」感想。軽くネタバレあり。
4回目を見直したところなので、また感想を書くことにした。感想を語ると自分語りにならざるを得ないシリーズの映画なので「お前の話じゃねえか!!」ってになるけどな!!!!

この映画を見た少なくない数の女性がそう思ったように、ヨシカはほぼかつての私そのままだった。有り体に言えば「こじらせている」。
少し前に通り過ぎた、もしくはどうにか捨てて通り過ぎようとしている私の輪郭を持った粘着質の何かにとても似ていた。渦中にいる時より鮮明に見えてしまうし、まだ手触りの記憶が残るそれは、タイミングが良くか悪くかヨシカとして現れた。

自分の性別が女であることに異存はないけども、「女らしい」とされることは苦手で拒否感があって「それは私のためのものではない」と思う。可愛いものや綺麗なものは好きだけど、それをこちらに求めてくる人は嫌い。
初めから敗北が決まっている「女らしさ」の軸での評価の俎上に勝手に乗せられるのは我慢ならないのでそこから予め降りて、傷つかないようにする。
誰かに私をジャッジさせてなどやるものか。

ヨシカの他人に対する雑な扱いの正体はきっと自信のなさなのだ。
自分の世界の中ではそれなりにご機嫌に生きているけど、「自分は周りの人間にとっては価値のない人間だ」という認識だから、自分が誰かに影響を与えるなんてことはありえないと思っている。だからある程度の暴言も無礼も好意も無効化されると無意識に考えているし、人間関係が相互作用の立体的な成果物であるという意識に乏しい。
視野見で見ている世界と自分の世界の接続はあくまでコンタミの発生であって、基本的に交わらない。だから、イチにはたらきかけて望む方向に転がすことが出来るなんて発想がまずない。
望んでいるのは何の変哲も無い陳腐な類の他者との繋がりだったりするのだけれど、方法がよくわからないのだ。

この映画はあの赤い靴を靴箱の奥に持っている私たちの話だ。心惹かれて買ったはいいものの履く機会がなく一度しか履いていないけれど、ときめくピカピカのあの靴。足を入れた瞬間、重心の方向を迷って少しふらつくけれどそして、自分以外は誰も絶対に知ることのない落胆を乗せて帰ってくるであろう赤い靴。

イチはアンモナイト。いつまでも何年経っても変わらない大好きな秘密の存在。
でも、長い時間が経って、元と同じような形はしているけれど全然違うものになってしまっている。
ヨシカが外から帰ってきて置かれたマフラーがしばしばアンモナイトに被さる。「イチが好きー!」となっている時にはアンモナイトが見えるように整え、ニに気持ちが傾いている時は被さったまま。またイチを思い出す時にめくる。あのベランダから始めてイチと関係を深めていけばいいのにと思っても、ヨシカの中のイチは化石であって生き物ではないから、形を変えるようなことできない。
部屋のアンモナイトの硬い殻を撫でて話しかけても生き返ったりしない。

ヨシカは人の名前をちゃんと呼ばない。
私もそう。
1年付き合った人の名前をまだ呼べなかった時は本当にどうかしてるとは思った。
どうやら私は、名前を呼ぶことは相手の領域に侵入することのような気がしているらしく、そしてどうやらそのことを恐れている。
ましてや"特別な関係における特別な呼び方"なんて、相手の領域に侵入したい欲望と、それを許されているのだという驕りと、今まさに侵入をするのだという宣言を、1秒ぐらいの音に込めて公衆の面前で発するなんてなんて下品なことだろうか。
私には耐えられない。微笑ましい違和感なんかで処理できるものなの?
しかもそれは相手のこちら側への侵入を許すこととトレードオフなんでしょ?
みんなちょっと待ってくれ、もっとこうさ、どうしてそんなこと簡単に出来るんだお前ら。
「心許してくれてないの?」って許してるわけないじゃん、時間がかかるんだ仲良くなるまでには3、4年はみといてくれ。
「私の名前をちゃんと呼んで」なのはわかるけど、ちょっと待ってよ。やらないとは言ってない、なんなら君の名前で僕を呼んでもらう?いやもう何の話だよ。

二はいとも簡単にヨシカのことを「江藤さん」と呼び、あるタイミングで何の躊躇も見せずに「ヨシカ」と呼ぶようになった。それは彼にとって当然のことで、自然なことで特別な意思も何もないことだったろう。
それはそれは真っ当に生きてきたのだろうと思う。体育科系の部活にでも入って友達も多くて、適度な挫折なんか経験しちゃったりして、それをバネに頑張っちゃったりして。会社でも一部の女子に少し煙たがられつつもめちゃくちゃ嫌われたりはせず上司や同僚の覚えもめでたくて。きっと吐き気がするほどまっとう。

二はヨシカのことを待てるのだろうか。
玄関の入口から部屋の中に入って積み上げた透明のバリケードを崩して、奥の部屋にあるアンモナイトに辿り着くまでの距離がどれだけ長いか。
バリケードは彼には見えない。
見えないからうまく避けることができなくて、壊していくしかないのだけれど、その壊すものはヨシカが今まで必死で積み上げて彼女を守って来たもので。
きっと彼は「待つよ」って言う。彼は優しくて正しい。待ってくれる。すぐそこに見えているのにおかしいね。簡単なことだ。彼は正しい。だからきっと彼にはわからない。
知ってる。悪いのはヨシカだ。おかしいのはヨシカだ。
本当はそこには何も無いのだ。
何もない。初めから何もなかった。
なんの利益も実態もない子供じみた拘泥だ。
彼が正しい。彼にはわからない。

だけど、なにもかも平気でガサツに見える二にも葛藤も傷つくこともあるはずで、そのことにヨシカは気づけるのだろうか。

この映画を見終わった途端に比喩ではなくお腹が痛くなって、這々の体で家に帰り、わんわん泣いた。
一人暮らしでよかった。人と会う前に見る予定だったのを変更しててよかった。
“なるほど、孤独とはこういうことか”
泣きながらウトウト寝るという子供みたいなことをして、起きてまた泣いた。
それから一週間ぐらいは気持ちが不安定で、普段あまり感情の起伏がない人間にしては異常事態だ。
私とヨシカに起こったこと、私とヨシカに起こらなかったこと、ヨシカに起こって私に起こらなかったこと、私に起こってヨシカに起こらなかったことについて泣いた。
だけど何がそんなに悲しかったのか未だによくわからない。


その後「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」の映画コーナーにメールほんのちょっと読まれたので自慢しておくよ!
https://www.tbsradio.jp/219863


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