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広告において許されない表現とは?――虚偽表現・ステレオタイプ表現・性的表現を例に

 しばしば、広告の表現が物議をかもすことがある。近年、広告がいわゆる「炎上」の火種になることは珍しくない。それ以前も、誇大広告や子どもを対象とする広告などの問題が消費者から提起されてきた(疋田/亀井/小宮山 1999 p. 66)。

 はたして、広告においてどんな表現は許されないだろうか。そして、なぜその表現は許されないのだろうか。この記事ではそのようなことを考えてみたい。

 この記事は次のように進む。Ⅰでは、広告において許されない表現や規制される表現についてまとめる。Ⅱでは、なぜ虚偽表現と誇大表現は許されないかを考える。Ⅲでは、なぜステレオタイプを強調する表現は避けるべきかを考える。Ⅳでは、映画では性的表現と残虐表現は許されるのに、なぜ広告ではそれらは許されないかを考える。

※ 参考文献は記事の最後に示し、本文では著者名・刊行年・ページのみを括弧に入れて表記する。

Ⅰ.広告において許されない表現

 広告においてどんな表現は許されないだろうか。ここでは『新版 新しい広告』(小林/嶋村監修 1997)という本を参考にしたい。これは1974年から改訂・改版を重ねた広告の教科書である。この本では、広告において許されない表現や規制される表現が11の観点から整理されている(小林/嶋村監修 1997 第9章)。以下では、それらをまとめよう。

(1)虚偽表現:事実や実体を偽って消費者に誤認を起こさせる広告表現は許されない。

(2)誇大表現:広告関連の法規の過半は、虚偽の表現と同時に、誇大な表現を禁止している。

(3)景品表示法の定める「不当表示」:景品表示法は、商品やサービスの内容や取引条件について消費者に誤認される表示を禁止している。

(4)表示に関する公正競争規約:(略)

(5)違法な取引に関する広告:広告によって伝達されている取引自体が違法であれば、その広告は違法である。例えば、麻薬の取引を申し出る広告は正当とみなされない。

(6)誹謗・中傷表現:特定の個人や団体・企業、または他者の製品やサービスを誹謗・中傷する広告表現は違法である。

(7)表現の自由と差別表現:基本的には、広告表現も精神の自由として憲法上の保護を受けていると考えるべきだろう。しかし、差別表現は許されない。差別表現というと「差別語」を使った表現のことだと考えられがちである。しかし、ある表現が差別表現か否かは、差別語の有無ではなく、文脈の中で判断しなければならない。

(8)公序良俗に反する表現:社会の秩序を乱し、健全な習慣を害するような表現は、多くの自主規制によって禁じられている。次のような表現がそれに当たる。

① 暴力や犯罪を肯定・美化する表現
② 露骨・猥褻な性に関する表現
③ 醜悪・残虐・猟奇的で不快な表現
④ 射幸心をいたずらに煽る表現
⑤ 低俗きわまりない表現

(9)知的所有権等の第三者の権利を侵す表現:(略)

(10)製造物責任法と広告表現の関係:(略)

(11)広告の道義的責任:広告は社会に多大な影響力を持つ。よって、違法でなければ何を表現してもよいわけではない。次のような表現は、違法ではないが、消費者から企業姿勢を問われかねない表現である。

① 子どもが真似したら困る表現
② 正しい消費者教育を阻害する表現(例:タレントが清涼飲料水を飲みながら片手運転するシーン)
③ 環境問題など社会全体が取り組んでいる問題に対して無見識だと疑われる表現(例:タレントがポイ捨てするシーン)

 以上が広告において許されない表現や規制される表現のまとめである。ⅡとⅢとⅣでは、このうちのいくつかに関して、なぜその表現が許されないかを考えていこう。

Ⅱ.虚偽表現と誇大表現

 Ⅰで見たように、広告において虚偽表現と誇大表現は許されない(以下では、これらをまとめて「虚偽・誇大表現」と呼ぶ)。広告の送り手は受け手に正しい情報を伝えなければならない。

 なぜ広告において虚偽・誇大表現は許されないのだろうか。理由は3つある。第1に、虚偽・誇大表現は一種のである。「嘘をついてはいけない」という規範は基本的な倫理規範の1つである。第2に、虚偽・誇大表現は消費者に損害を与える。第3に、虚偽・誇大表現は市場の円滑な働きを損なう。

 第3の理由の「虚偽・誇大表現は市場の円滑な働きを損なう」とはどういうことだろうか。しばしば、広告における虚偽・誇大表現の問題は市場経済の観点から説明される(坂口 2007 p. 226、中田 2015 p. 39、疋田 2002 pp. 55-56)。以下では、そのような説明をまとめよう。

 経済学の知見によれば、市場で財やサービスが非常に円滑に取引されるには、いくつかの条件が満たされなければならない。その1つは「その財・サービスの自分にとっての価値や生産にかかる費用についての情報を売り手と買い手の双方がそれなりによく知っている」という条件である(安藤 2013 pp. 49-50)。

 広告は企業と消費者の間の情報伝達の重要な手段である。企業が財やサービスを販売するうえで、広告で消費者に情報を伝えることは欠かせない。一方、消費者が財・サービスを選択するうえで、広告から情報を得ることは欠かせない。

 もしも広告に虚偽・誇大表現があれば、消費者は正しい情報を得られない。そうなれば、先述の条件は満たされず、市場で財やサービスは円滑に取引されなくなる。

 以上が市場経済の観点からの説明のまとめである。このように、虚偽・誇大表現は市場の円滑な働きを損なう。これが、広告において虚偽・誇大表現が許されない第3の理由である。

 本節をまとめよう。広告において虚偽・誇大表現は許されない。その理由は3つある。第1に、虚偽・誇大表現は一種の嘘である。第2に、虚偽・誇大表現は消費者に損害を与える。第3に、虚偽・誇大表現は市場の円滑な働きを損なう。

Ⅲ.ステレオタイプ表現

 Ⅰで見たように、広告において差別表現は許されない。また、後に見るように、人種・ジェンダー・年齢などに関するステレオタイプを強調する表現も避けるべきだといわれている(以下これを「ステレオタイプ表現」と呼ぶ)。

 ステレオタイプとは、簡単にいえば、あるカテゴリーの人々についての固定的なイメージのことである。例えば「血液型がA型の人は几帳面」とか「女性は数学が苦手」といった固定観念がステレオタイプに当たる。

 なぜ広告においてステレオタイプ表現は避けるべきなのだろうか。理由は2つある。第1に、ステレオタイプは偏見になったり、差別につながったりする(上瀬 2002 pp. 7-11)。第2に、広告には様々な社会的・文化的機能があるため、広告は個々人に影響を与える可能性がある。

 第2の理由の「社会的・文化的機能」とは何だろうか。以下では、広告研究者の岸志津江の整理と『新版 新しい広告』の整理を参考にして、広告の社会的・文化的機能のうちの3つをまとめたい(岸 2008 pp. 19-23、小林/嶋村監修 1997 pp. 26-27)。

 第1に、広告にはライフスタイルを提案するという機能がある。広告は個人の年齢・性別・社会的地位・家族のライフサイクルの段階にふさわしい商品とサービスの組み合わせを提示する。広告批評家の天野祐吉は次のようにいう。

〔略〕ふつうテレビや新聞でやっている広告というのは、ものを直接売る、というよりは、暮しの仕方、その商品のある暮しのイメージを売っているんですね。こういう暮しはいかがですか、こういう暮しの仕方の小道具としてこの商品はいかがですか、そういう、いわば間接的な販売をやっている。(天野 1986 pp. 24-25)

 つまり、広告はライフスタイルのイメージを伝えているということである。

 第2に、広告には娯楽や話題を提供するという機能がある。現代の社会では、広告の目的を達成するには、広告そのものの面白さや、いかに関心をひくか、ということが重要になっている。

 第3に、広告には教育や社会化(人間がその社会に適応すること)の機能がある。例えば、子どもがテレビCMから面白い表現、歯の磨き方、化粧品の使い方などを覚えることもある。

 岸はこれらの広告の社会的・文化的機能を説明したうえで、次のようにいう。

このように広告は個人の生活に浸透し、さまざまな影響を及ぼす可能性がある。そのため、広告が特定の人種や性別、年代の人々について画一的イメージ(ステレオタイプ)を強調したり、人間の外見や生活の多様性を無視することは避けるべきだろう。(岸 2008 p. 23)

 つまり、広告には様々な社会的・文化的機能があるため、広告は個々人に影響を与える可能性があるから、ステレオタイプ表現や多様性を無視する表現は避けるべきだということである。

 例えば、広告において「男は仕事、女は家事・育児」という性別役割分業のステレオタイプ表現は望ましくない。社会学者の守如子によれば、広告が性別役割分業のステレオタイプを多く描いていることは、様々な研究で指摘されてきた(守 2015 pp. 142-144)。また、フェミニズム運動も、広告が性別役割分業のステレオタイプを多く描いていることを批判してきた(守 2015 pp. 147-148)。

 社会心理学者の上瀬由美子によれば「曖昧な形であれ、露骨な形であれ、ジェンダー・ステレオタイプは受け手の現実認識に影響を与え、最終的には個々の女性の生き方に対する姿勢にさえ影響を与える」(上瀬 2006 p. 83)。ゆえに、広告において性別役割分業のステレオタイプ表現は望ましくない。

 本節をまとめよう。広告においてステレオタイプ表現は避けるべきである。その理由は2つある。第1に、ステレオタイプは偏見になったり、差別につながったりする。第2に、広告には様々な社会的・文化的機能があるため、広告は個々人に影響を与える可能性がある。ゆえに、例えば、広告において性別役割分業のステレオタイプ表現は望ましくない。

Ⅳ.性的表現と残虐表現

 Ⅰで見たように、広告において公序良俗に反する表現は多くの自主規制によって禁じられている。それには「露骨・猥褻な性に関する表現」や「醜悪・残虐・猟奇的で不快な表現」が含まれていた(以下では、これらをまとめて「性的・残虐表現」と呼ぶ)。

 しかし、性的・残虐表現は他の表現物では許されている。例えば、性的・残虐表現を含む映画は日常的に上映されている。映画では性的・残虐表現は許されるのに、なぜ広告ではそれらは許されないのだろうか。私が思うに、それは広告の公共性があるからである

 広告の公共性とは何だろうか。広告研究者の疋田聰は次のようにいう。

企業が広告を出稿するのは、自社の商品を他社の商品と差別化を図り購入してほしいと考えるからだ。それは私的な動機から発せられるものだ。ところがその広告がメディアに一度露出されると、その広告は社会的なものになってしまう。「闇夜のウインク」という言葉がある。真っ暗な中でウインクすると、本人には何をしているのか分かっても、周りに人には誰も分からない、という意味だ。広告も「闇夜のウインク」では駄目で、「私はあなたにウインクしていますよ」ということが、はっきり分からなければならない。従って広告は私的な動機で行うけれども、メディアに露出されるとパブリックな〔公共の、公開の〕ものになる。その意味では広告は、思わぬ人に伝わる可能性がある。特にマスメディアを使う場合難しい。(疋田 2002 p. 59 強調は引用者 〔〕は引用者による補足)

 つまり、闇夜のウインクは狙った相手に伝わらないように、露出されない広告は狙ったターゲットに伝わらないから、広告はパブリックなものでもある。また、露出された広告は思わぬ人に伝わる可能性がある。広告は、その商品を買わない人、そのターゲットではない人、その広告を見るつもりのない人、その広告を見たくない人にも晒される。この記事では、広告のこのような性質を「広告の公共性」と呼ぼう。

 ここで、次のような疑問をもった方がいるかもしれない。「営利広告は民間企業によって行われるものだから、公共性はないのでは?」。この疑問に答えるために、公共性について補足したい。「公共性」や「パブリック」という言葉には、次の3つの意味がある(齋藤 2000 pp. viii-ix、山脇 2004 p. 19)。

①「国家に関わる」(official)例:公共事業、公的資金
②「すべての人々に関わる」(common)例:公共の福祉、公共心
③「開かれている」(open)例:公然、情報公開

 営利広告に、①の「国家に関わる」という意味の公共性はないが、③の「開かれている」という意味の公共性はある。この記事で「広告の公共性」というときの「公共性」は、③の「開かれている」という意味の公共性である。補足は以上である。

 さて、本節の冒頭の問いに戻ろう。映画では性的・残虐表現は許されるのに、なぜ広告ではそれらは許されないのか。それは広告の公共性があるからだと考えられる。

 映画の場合、ある映画を観るのは、年齢制限上の問題がなく、かつ、その映画を観たい人である。しかし、広告の場合は、広告の公共性があるから、ある広告を目にする人々の中には、子どもや、その広告を見たくない人も含まれる。私たちは子どもに性的・残虐表現を見せるべきではない。また、性的・残虐表現はそれらを見たくない人々の感情を甚だしく害する。ゆえに、映画では性的・残虐表現は許されても、広告ではそれらは許されないのだと考えられる。

 このように、広告の公共性があるから、他の表現物では許されても広告では許されない表現がある。

 なお、広告の公共性の高さは、時と場合によって異なると思われる。具体的には、広告の公共性の高さは媒体(例:新聞・テレビ・Web)によって異なると考えられる。なぜなら、広告が誰にどんな形で晒されるかは媒体によって異なるからである。

 例えば、交通機関における広告は特に公共性が高いと思われる。理由は2つある。第1に、不特定多数の多様な人々が交通機関を利用する。第2に、例えば、通勤・通学のためにA駅を利用する人にとって、A駅構内の広告を見ずに通勤・通学することはできない。このように、多くの人にとって、自分が利用する交通機関の広告を目にすることは避けられない。

 広告の公共性の高さは媒体によって異なるとすれば、許される表現の幅も媒体によって異なると考えられる。具体的には、広告の公共性が高いほど、許される表現の幅は狭くなるだろう。

 例えば、交通機関の広告に関しては、一般的な広告規制(誇大広告・不当表示・人権侵害・名誉毀損・性差別などの規制)に加えて、より厳しい審査がある(白𡈽 2007 pp. 287-289)。よって、他の媒体(例:雑誌)の広告では許される表現が、交通機関の広告では許されないということがありうる。

 本節をまとめよう。広告はパブリックなものでもあり、思わぬ人々に伝わる可能性もある。映画では性的・残虐表現は許されるのに、広告ではそれらは許されないのは、広告の公共性があるからである。また、広告の公共性の高さは媒体によって異なり、許される表現の幅も媒体によって異なる。

おわりに

 この記事の要点をまとめよう。第1に、広告において虚偽・誇大表現は許されない。虚偽・誇大表現は市場の円滑な働きを損なう。第2に、広告においてステレオタイプ表現は避けるべきである。広告には様々な社会的・文化的機能があるため、広告は個々人に影響を与える可能性がある。第3に、映画では性的・残虐表現は許されるのに、広告ではそれらは許されないのは、広告の公共性があるからである。

 読んでくださって、ありがとうございました!

[追記]2022年6月13日、主題を「広告においてどんな表現はNGなのか?」から「広告において許されない表現とは?」に変更した。

参考文献

天野祐吉 1986『広告の本』(ちくま文庫)
安藤至大 2013『ミクロ経済学の第一歩』(有斐閣)
上瀬由美子 2002『ステレオタイプの社会心理学――偏見の解消に向けて』(サイエンス社)
上瀬由美子 2006「メディアとジェンダー」(福富護編『ジェンダー心理学』〈朝倉心理学講座14〉朝倉書店 pp. 69-84)
岸志津江 2008「広告とは何か――説得か関係構築か」(岸志津江/田中洋/嶋村和恵『現代広告論』新版 有斐閣 第1章)
小林太三郎/嶋村和恵監修 1997『新版 新しい広告』(電通)
坂口嘉一 2007「総論」(川越憲治/疋田聰編『広告とCSR』生産性出版 第5章 第1節)
齋藤純一 2000『公共性』(岩波書店)
白𡈽栄次 2007「交通広告」(川越憲治/疋田聰編『広告とCSR』生産性出版 第6章 第5節)
中田邦博 2015「現代法学研究から見た広告規制」(水野由多加/妹尾俊之/伊吹勇亮編『広告コミュニケーション研究ハンドブック』有斐閣 第2章)
疋田聰 2002「広告の倫理を考える」(日経広告研究所編『広告に携わる人の総合講座』平成14年版 日本経済新聞社 第4講)
疋田聰/亀井昭宏/小宮山恵三郎 1999「広告の倫理の関する研究」(『広告科学』第38集 pp. 65-80)
守如子 2015「ジェンダー研究と広告表現」(水野由多加/妹尾俊之/伊吹勇亮編『広告コミュニケーション研究ハンドブック』有斐閣 第7章)
山脇直司 2004『公共哲学とは何か』(ちくま新書)

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