流れに棹さす人生に思う

2019年12月27日(金) 01:41
お風呂みたいだと思った。
温かいのははじめだけでずっと浸かっているとだんだんと体の熱を奪われてしまう。
もしや自分は普通ではないのかもしれないと薄々気づいていた。好きになるものが違ったのだ。まわりに馴染めない幼少時代をすごし、友達の数よりも読んだ小説の数の方が多いような学生時代だった。
人間というのは社会的な営みによって他の生物との差異を生み出しているのだと先生が教えてくれた。それは、わたしが学生時代に唯一信頼していた国語の先生だった。
面と向かって話したことこそないが授業における丁寧な言葉選びと落ち着いた振る舞いには彼の人格が全て表れていた。彼の授業中には教室に消しくずとノイズのような笑い声が飛び交ったが、まるで気づいていないように50分間のひとり芝居のようにそれらに動じることは1度もなかった。なるほどこんなにらしくない大人もいたものだと高校生ながら感心して、ひとり芝居にみとれていた。
そうして思い返してみるとどうして当時彼とちゃんと言葉を交わさなかったのだろうとすこし後悔する。でもやはり無理だっただろうなと、いつも折り合いがつくのだが。 わたしにとって彼は理想的で完壁で、まるで高嶺の花のようであった。だからきたないわたしとの交流によって彼が織れ、汚れてしまうのをわたしは避けたかったのだと思う。彼にはきれいなままでいてほしかった。その思いはある種の信仰のようで、俗世間に毒されていないきれいな大人の存在を証明するたった1人の希望への信仰であった。
社会性をもたないわたしには人間を名乗る権利があるのだろうか、世間の役に立てないわたしには健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるのだろうか。その思いとまわりとの価値観のずれは日に日に増していくばかりで、ついにその拡がる溝は埋まることはなかった。
普通になろうと努力し、抵抗したこともあった。そのころはまだ元気だった。普通になるために槽ぎ出した人間関係の海は、荒々しい波をもってわたしの脆弱な舟を瞬く間に破壊した。身一つ投げ出された海は思っていたより温かく、不思議と落ち着いた。ずっと浸かっていたいと思うほどだった。だがしばらくそうして揺蕩っていると、ふとこのままでいいのかという思いに駆られる。
このぬるま湯はいつかわたしの体温を奪い去っていくのではなかろうかと危機感を覚え、ぼんやりと冬のお風呂みたいだと思った。はじめこそ温かく、けれどもだんだんと冷めて体温までも奪っていく。死ぬことは怖くないがそんな死に方は嫌だと思う。わたしはもう嫌なのだ、まわりに気を遣う生き方も1人では何もする勇気がないために徒党を組んで弱者を囲む弱者と共に過ごすのも。
ずっと海に浸かっていたら、わたしもそんな存在に成り下がってしまうような確信がある。
そうしてわたしは樟さすことをやめ、浜にあが
り、砂の1粒も残らないように丁寧に足を洗っ
た。今後一切この場所には戻らないと決意して、その浜をあとにした。

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