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【編集後記】2023年4月号:人と言葉| 八重山方言とフィリピン語の共通点



人と言葉

今回「月刊まーる」の創刊にあたり、初号にふさわしいテーマは何だろうかと考えた。が、考えがまとまらなかったので、とりあえず作家の方々にはマガジンの根本テーマである「クロスボーダー✖️縁」を大切にしながらも自由に書いてくれとお願いした。するととても不思議なことが起こった。別々の筆者に依頼した最初の3つの記事内容において、全ての記事が「人と言葉」に深く関わりのあるものとなっていたのだ。初号のテーマを「人と言葉」としたのはそういう経緯である。

創刊号ではまた、石垣市議会の与党、野党を代表する二人の議員、長山いえやす氏と花谷シロー氏の対談(第一回)を掲載することができた。対談前は立場や主張の全く異なる両名という印象ではあったが、この地をいかに住み良くするかという面では保守派も革新派もないのだ、ということを改めて認識した。また、記事には掲載しなかったが、お二人とも感謝の言葉を伝えることに重きを置いていると語ったことが非常に印象的であった。越境対談は単なる記事のみに留まらず、今後に繋がる極めて有意義な企画となったと自負している。

石垣市議会議員のお二人、また、創刊号の記事作成・編集に関わってくださった全ての皆様に感謝申し上げます。
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八重山方言とフィリピン語の共通点

石垣で「人と言葉」というテーマで書くならば、触れておきたい話がある。八重山の方言とフィリピン語の共通点についてだ。私は日本語教師として長期間フィリピンに住んでいた。そのため、現地語であるビサヤ語やタガログ語を学ぶ必要があったのだが、お陰で石垣に来ていくつか面白い発見をすることになった。

私が一番初めにビサヤ語(セブアノ語とほぼ同義で使われる)と八重山方言の関連性を疑ったのは、近所の子供が「あがっ」と言う言葉を発したときだ。石垣に移住してしばらくした頃、近所に住む小学生がつまづいて足をぶつけ「あがっ」と言うのを聞いた。その後、気になって地元の方に「あがっ」の意味を聞いてみた。すると「痛い」という意味ですと教えてくれた。

私は即座に「お腹が痛い」と言うのを「お腹がアガい」とは言いませんよね?と尋ねてみた。するとやはり、反射的に「いたっ!」という時にしか使わないという。念の為、図書館へ行って「石垣方言辞典」を引いてみると、その通り「痛い時に発する声」とあった。

私がそのように直感したのには理由があった。ビサヤ語でもほぼ同じ表現の「アガイ」があり、反射的に痛い!という時に「アッガイ!」とか「アガッ」と言うのだ。(タガログ語ではアライ)そして形容詞の「痛い」は「Sakit」であり別の表現となる。つまり表現と用法が酷似しているのだ。

さらに、沖縄方言の疑問詞の一つとして使われる「〜ば」も、フィリピン語には接尾疑問詞の「Ba?」が存在するし、「アイ、あんたそこで何してるねー。」という驚いた時の感嘆詞である「アイ!」も同様に使われる。

これは面白いかもしれないと思い図書館で他の文献を調べてみた。すると、例えば与那国方言の「イス」は、ビサヤ語と共通点がある。「イス」は磯で魚貝などを獲るという意味である。一方、ビサヤ語では魚のことを「イスダ」といい、これは動詞化すると「魚を取る」と言う意味になる。「イス」と「イスダ」で音韻と意味が似ている。これは古語の「磯、イソ」である。(「万葉集と八重山方言(1990)著者:, 宮良泰平」より一部引用)

また、白保の方言では「へそ」のことを「プッツォ」と言う。そしてビサヤ語圏では、へそは「Pusod」というのだ。最後のDの音は子音のみであるので、発音は「プッソッ」に近い。私はやはりビサヤ語と八重山の言葉には言語学的に関係があるのではないか?と、考えている。

更に「てぃんがーら」という言葉も気になる。なぜならビサヤ語にもティンガーラ、と言う言葉があるからだ。しかし、てぃんがーらの意味は天の川と言う意味だと分かったため、「あぁこれは(天の川原)が転訛して「てぃんがーら」となったのだと理解し、ビサヤ語の「TIngala」とは無関係であると思った。

が、これも文献を漁ってみると、「てぃんからうてぃむぬんや」という表現も見つかった。「天から(てぃんから)落ちるもののよう」の意である、とある。突然、意外な時に人が現れて驚く、というような場合に使うとされる。そして、ビサヤ語で「Tingala」も、突然で驚いた、と言うような時に使う。こじつけにしておくのは惜しい。(こじつけだけれど)

そもそも八重山の方々とフィリピン人は容姿もよく似ている。石垣のおじいおばあには、どうみてもフィリピン南部の人にしか見えない方々が大勢いる。地理的な理由が大きいのだろうが食べ物や文化も共通点が多いし、精神性も近いものを感じる。きっと「人と言葉」の双方に縁があるのだろう。

ちなみに私が石垣に移住することになったのも、フィリピンに遊びに来てくれた石垣在住の友人からのご縁である。

(了)

編集後記執筆者

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三宅一道
(クロスボーダー✖️縁の石垣コミュニティマガジン:月刊まーる 編集長)

1977年生まれ。20代でミュージシャンとしての成功を目指すもバンド解散で挫折。日本の閉塞感に耐えきれず25歳でフィリピンへ移住。日本語教師として10年間現地の大学で教鞭を取る。2011年に日本語人材の学生達を組織して起業。漫画の翻訳を中心とした事業展開を行う。2020年に石垣に移住。
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