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  英語をどうして学ぶのか?

英語の講師を生業にして15年が経とうとしている。
いや、正直いつ頃からそんなに英語に情熱を傾けているのか分からない。

学生時代の家庭教師のバイトや大学生の時の教育実習の期間などを含めて『英語や教育』の分野と自分の人生はいつしか切っても切れない関係になっていた。

私の英語力はどうか。人と比べるもんでもないが
講師だからと言って英語力が通訳や翻訳を仕事としてやれるレベルかと言うと恐らくそうではない。
最低限人並みに英語ができて、それを教える行為の対価を頂くことができる、というレベルとでも言えるのかな。

最近、何故かずっと考えていた。
もし誰かに『なぜ英語を学ぶのか?』と聞かれたら
自分は何と答えるのだろうって。

それはきっと

英語が好きだから

ただその一言に尽きる。言葉が好き。そして人が好き。好きだからやるのか。やるから好きになったのか。どちらも相互に作用している。

最近Twitterで英語について思うことを少しずつ呟き始めた。そうするとご丁寧にハッシュタグ『英語学習』や『英語習得』というオススメが提案される。

あまりにその文字を目にすることが多いせいか、ふと思った。『あれ?私はいつ一生懸命に英語を学習したんだろう?』って。

そもそもが勉強をしたという意識があまりないまま今の今まで過ごしてきたのかもしれない、と。

帰国子女でもなければ、親がペラペラな訳でもない。もちろん中学高校では科目の勉強として真面目にやったのは確か。ただそれは他のと同じく教えられる科目の一つとしてもれなく習ったと言うだけのこと。

英語を学ぶためにそれに向けてとにかくやりまくる、とか、頑張って時間を割いて英語をやるという頑張っている方々のTwitterのコメントを見ていると、素晴らしいなと思う。そこに嘘はないし頑張れるって凄いなって心から思う。

その半面、不思議とあれ?この熱い学習者の皆さんのコメントを眺めていたら不思議と疎外感を覚えたのだ。私、頑張っていないのかも。

『英語』という共通の話題なはずなのに、何年も英語を教えているはずなのに、皆さまの頑張れ!をやれやれ頑張れ!と旗を振って支持しきれない自分がいることに初めて気づいてしまった。だからTwitterを開くのが今は少し怖い。なんて弱いんだ、自分…

なんだかよく分からない大きなモノに『君は講師としてはダメなのかもしれない』と言われているようで、勝手にひとり落ち込んだ。きっとTwitterの大きな情報の波に流されて自分の信念は何処かに行ってしまいそうに感じたんだ。

学習者の気持ちが分かる講師でありたいと思う。

頑張ってTOEICや英検や資格試験を目指す日本人の学習者を応援したい。その気持ちはもちろんあるのに、どうして英語が学びの目的になってしまっているのか?その摩訶不思議な事実に正直、動揺してしまったんだろう。

薄々気づいてはいたのだけど。
あー、何かが違うんだ、と。

誰かを責めているわけではない。でも
誰かを責めたい気持ちにはなった。

変えたいな。せめて私の周りだけでも。
そんな想いが沸き起こる。

言葉はコミュニケーションのツール
何かしらの欲求から生まれるやりとりだ。

ふとまた立ち止まって思った。
必要だからやるモノでなければ、
じゃあ、やらなくなるんかな?

点数を取らなきゃいけない。
会社に言われたから。
受験だから。
いろんな理由があるだろう。
好きでやってない人もいるだろう。

理由は何であれ、英語を始めたきっかけがあってゴールの途中で英語が好きになれたら良いよな。

教える側としてはきっかけは何だって本当は良いのは分かっている。英語しか話さない恋人が出来た。話す必要がある。いや、話したい欲求が生まれる。だからこそもっと知りたいし、学びたくなる。きっとこんな風に英語との関わりが始まる人もいる。

ただ、悲しい現実は何か。

それは不必要になった時点で英語をやる理由がなくなる事実。大金を払って何年も英会話スクールに通った人たちは受験が終わり、TOEICの目標点達成すると、ほぼ辞めていくという決断をする。経験上のデータは確かそう。その後英語をやっているかもしれないが、恐らくやっていないのだろう、と思う。

英語をやるって表現も不思議。

取り止めもなく書けるが、読んでくれた方に聞きたかった。なぜ英語を学んでいるのか?それは必要だから?それとも別の理由があるのか?

学んで話して体験して、その過程で好きって気持ちや楽しいって気持ちが芽生えたらぜひ大切に育てて欲しい。

一講師としての小さな、でも大きな願いです。

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