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【アークナイツ】「ラテラーノ」考察—サンクタの楽園とその虚飾について
ラテラーノ人よ……我々の楽園は偽りであり、あなたたちの信仰もまた偽りのものです……
『空想の花庭』では「楽園」という言葉が何人もの登場人物の口から発せられた。この言葉は先立って開催されたラテラーノイベント『吾れ先導者たらん』においても登場するが、同時に「偽り」や「まやかし」、或いは「楽園」であることへの疑問という否定的な要素も含まれていた。
本稿では『吾れ先導者たらん』及び『空想の花庭』の2つのラテラーノに関するイベントを題材として、ラテラーノという楽園とその虚飾について考察する。
「サンクタ」の誕生
「サンクタ」の誕生
まずはサンクタという種族が如何にして誕生したのかを見ていく。
古代テラには「ティカズ」と呼ばれる在来生物が存在していた。現在「サルカズ」と呼ばれるそれは、目に映る世界を「カズデル」と呼びテラ全土を故郷としていた。
ティカズ……人? というのは、あの奇妙な在来生物のことか?
サルカズがまだティカズと呼ばれ、故郷を有していた時代では――カズデルとは、我々の視界が及ぶ全世界を指していたのです。
カズデルとは本来テラと同義なのです。
「テラ」と呼ばれる惑星に旧人類が移住を目論むその前から、ティカズはその惑星で暮らしていた。このティカズの一部が「法」あるいは「アレ」と呼ばれるものの力によって、それまでの姿を変え光輪と翼を得るに至った。
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これがサンクタの誕生であり、サンクタは他のサルカズ、例えばナハツェーラーやブラッドブルード等と同じ起源を持つ者である。これはレヴァナントがサンクタの裏切りに憤激を表した場面でも、両者が同種であることが明かされている。
カズデルは奴らに滅ぼされた。
魔王と王庭は我らを率いてあの塵埃どもと戦った。サルカズはこのような恥ずべき敗北は認めない。
しかし自らをサンクタと称する軟弱な一部のサルカズが、己の責任から逃れ、己の種族を裏切り、己の使命に背いたのだ!
サルカズとの繋がり
上記の事実は次の二つの事象がなぜ生じたかの根拠を明らかにするとともに、サンクタとサルカズとが完全には分離していないことも明らかにしてくれる。
その一つはセシリアの存在である。
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セシリアはサンクタの母とサルカズの父との間に生まれた混血児であるが、サンクタと他種族の間の子はサンクタとなることはできないとされている。
サンクタと他種族の混血の子はサンクタにはならねぇからだ。
サンクタとフェリーンの子供ならフェリーンに、サンクタとフォルテの子供ならフォルテになるって具合だな。
サンクタとの混血は、生まれて初めて言葉を発した時にも光輪と光の翼を得ることはないし、サンクタ同士の共感も得られない。
要するに、混血であればサンクタの特徴は現れない。例外なくな……
真に注意すべきなのは、混血児であるセシリアの頭上に、不安定ではあるが光輪が輝いていることである。サンクタと異種族との子供がサンクタであることはない――これは不変の鉄則のはずだった。光輪と光の翼は法律に受け入れられた証明であり、そしてサンクタの法律は他者を拒否するはずなのだ。
しかしサンクタとサルカズとが起源を同じにする種族であり、両者間に大きな身体的差異がないのであるならば、両者の間の違いは"アレ"に選別されるか否かのみということになる。フェリーンやフォルテのような発生から異なる他種族と異なり、サンクタとサルカズとの間に本質的な違いがないのであれば、その間の子にサンクタの特徴が表現されることもあり得ると解される。
二つめは堕天である。現状堕天したサンクタの例として我々が見受けられるのはモスティマとフォルトゥナの二名である。
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堕天したサンクタはその特徴である光輪と翼が黒ずみ機能を失う代わりに、頭部の角と尻尾が生えることとなる。その外観がサルカズによく似た特徴を有することになるのに加え、身体的ないくつかの指標にも変化が起こり、上述したサルカズの血を引くセシリアと似た傾向、すなわちサルカズとしての要素が生まれることとなる。
問題があるのはこちらのいくつかの指標です……私が以前受けた身体検査でも、似たような傾向が確認されています。
ですがこの少女は十二歳未満ですので、まだ守護銃を手にしていないはずです。他に戒律を破る能力が彼女にあるとは思えませんし、外見的特徴からも堕天した可能性は否定できます。
堕天がいかなる場合に発生するかについては後述するが、サンクタがティカズから分離するに際して手に入れた光輪と翼の機能を取り上げられ、代わりにサルカズの形質を発現することは一種の先祖返りと見ることができる。
ラテラーノの建立
サンクタが誕生した後、「アレ」の上に「ラテラーノ」が築かれることとなる。
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「サンクタの楽園」として築かれたそれは同種であるサルカズを拒み、サルカズと有史以来の対立をしながら、サンクタ至上主義の国へと発展を遂げていくこととなる。
ラテラーノは楽園である──と、人々は口を揃えて言う。
ここには自由があり、喜びがあり、秩序がある。この混迷した大地における数少ない理想郷なのだ。
ここにいう「サンクタ」については『吾れ先導者たらん』でその答えが示唆されていた。
ラテラーノとは何か?
サンクタとは何か?
そうだったのか。
私たちが私たちであるのは、ただ単に――
アレが私たちを繋いでいるからだ。
アレが私たちを作り上げているからだ。
アレが一切の基準だからだ。
「アレ」の正体は明確にされていないものの、サーバー音のようなSE、『吾れ先導者たらん』のロビー画面での「Terminal is starting」の文字、そして『空想の花庭』で示された何かしらのプログラムの実行と思しき文言からみれば、「アレ」とは機械、より具体的にはコンピューターのサーバーと思われる。
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『空想の花庭』 HE-ST-1 栄えの冠を捧げ奉らん - 幕間
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非常事態発生。
繰り返し警告します。
非常事態発生。
……危険レベル……測定中……
危険度:最高……
シミュレートプログラム起動。
シミュレート失敗。
緊急対応システム起動。
適正人員リスト出力中……
......
イグゼキュターのプロファイル資料にはラテラーノには条例の他により高次の法律が存在し、ラテラーノは法律に名実相伴っているように見せるため、執行人を確知に送り出している旨の記述がある。
【権限記録】
イグゼキュターは私に一種の錯覚を感じさせた。ラテラーノの法律はただ法として存在しているだけではないと。確かに、公証人役場もラテラーノの法律の一部だが、執行人の存在はさらにある事実を示している:ラテラーノは公民に対し十分な責任を負っている、あるいは強大な拘束力を備えているのだ。
しかしラテラーノ人の法律への厳守、もっと言えば畏怖の念が、執行人の力の及ぶ範囲を優に超えている。私は宗教の力について話しているのではない。この大地には信仰に篤い団体が星の数ほどあるが、ラテラーノ公民が独自の境地を築き上げているのは決してただ敬虔さや自律心からくるものではない。
~~
実際の条例の他に、ラテラーノにはさらに高級な法律が設けられているはずだが、私たちはそれについて何も知らない。執行人がラテラーノ法律の具現化だというより、むしろラテラーノが法律に名実相伴っているように見せるために送り出されたイメージといった方が良い。少なくとも私はそう認識している。
この高次の法こそ「アレ」が示した真なる法、即ち「我々を存在させ続けること。」と推測される。「我々」とはラテラーノが建立される前に「アレ」によってティカズから選ばれた「サンクタ」であり、ラテラーノはサンクタを存続させ続けるために建てられた楽園ということができる。
ラテラーノの誕生以降、この楽園はサンクタを荒野の厳しい生活から守ると同時にサンクタの存続を図るため、サンクタとそれ以外の種族とを明確に区別する道を選んだ。以下ではラテラーノにおけるサンクタとそれ以外との区別について見ていくこととする。
サンクタの特権
ラテラーノはサンクタのために建てられた国であり、それ故にサンクタに特別な地位を与えている。ここではリーベリとの比較とEN版の記載からラテラーノにおけるサンクタの特権を見ていくこととする。
リーベリとの比較
ラテラーノにおけるサンクタとの扱いの差が描かれたのは主としてリーベリである。『吾れ先導者たらん』においてアンドアインやパティアが語ったように、リーベリはラテラーノにおいてサンクタと明確に区別され、劣位に置かれている。
このラテラーノでは、信仰深きリーベリの修道士がすべての戒律を遵守し、一つ一つの儀式を慎重に執り行い、聖賢と認められ、後に枢機卿に昇進したとしても……
教皇庁は一度として、彼らを真に受け入れたことはない。リーベリたちは俗事を解決するための小間使いであり、庶務を処理するための道具としか見なされない。
この両者の地位の違いが生じた原因はラテラーノにリーベリが移住してきたこと、より詳細にいえば銃や戒律、光輪、共感といったサンクタ特有の性質を移住者であるリーベリが特別なものだと認識し、サンクタがその認識を甘んじて受け入れ、そして下記に述べるようにその扱いを法のレベルで定めたことに由来する。
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スイーツと銃器によって保たれる奇妙な均衡がリーベリを惹きつけ、移住者によってサンクタは「素晴らしき」天性を押しとどめるようになり、法もまた征服者の故郷へと持ち替えられた。
このリーベリとサンクタとの地位の差に異議を唱えるリーベリはほとんど存在しないようであり、『吾れ先導者たらん』でラテラーノに反旗を翻したパティアはそのことに憤激していた。
ラテラーノのリーベリは、考えなしにラテラーノの戒律をあがめ、言われるがまま「ラテラーノ教」を信仰と見なし、しまいには思考停止して……サンクタを神の使いと信じてる!
銃、戒律、光輪、共感……
神はサンクタにそれだけの恩恵を与えたのかもしれないけど、それがラテラーノのリーベリと何の関係があるの?
ラテラーノでは明確にサンクタとリーベリとの地位に差を設けており、これによってサンクタが特別な存在であるとの認識を保持し続けていることがわかる。
そしてこの軽視はリーベリだけに向けられるものではない。アンドアインが故郷ロカマレアを救うためラテラーノにほんのわずかな支援を求めた時ですら、ラテラーノは支援を受けるのがサンクタではない種族だからという理由だけで要請を拒否した。
そんな中、故郷でない故郷を救うために、サンクタは聖都ラテラーノへ赴き、ほんのわずかな支援を求めた。
彼が得た答えは至極簡単なものだったわ。君は我らの一員だが、彼らは違う、と。
サンクタがイベリアに帰ると、その「故郷」はすでに消えていた。
この強硬なまでのサンクタとそれ以外という区別がなぜ生まれ、維持され続けているのかについては後ほどもう少し考えていきたい。
法によるサンクタの特権
次にEN版の記載から、法のレベルでサンクタに優越的地位が与えられていることを見ていく。
ラテラーノ公民であり、第一条から第十三条までのラテラーノ公民権が適応される。
多くのサンクタのプロファイル資料に記載されているこのラテラーノ公民とラテラーノ公民権という文言はEN版では特殊な記載方法がされている。
Exusiai is a citizen of Laterano and as such, is entitled to the privileges listed in Clauses 1-13 of the Laterano Constitution.
この「is entitled to the privileges listed in Clauses 1-13 of the Laterano Constitution.」という記載は、聖約イグゼキュターやエンフォーサー、インサイダーといった代表的なサンクタのプロファイル資料に同様に記載されているが、アドナキエルのプロファイル資料では以下のような記載がなされている。
アドナキエルはラテラーノの公民。ラテラーノ第一条から第十三条までの公民権が適応される。
Adnachiel is a citizen of Laterano and enjoys rights one through thirteen afforded to all citizens of Laterano.
英語:Adnachiel - Profile
鉱石病に感染しラテラーノを追放されたアドナキエルについては、エクシアらの「privileges」ではなく「rights」が用いられており、また「listed in Clauses 1-13 of the Laterano Constitution.」という文言はなくなり、代わりに「one through thirteen afforded to all citizens of Laterano.」という文言が用いられている。
この「rights」は同様に鉱石病感染により追放されたアレーンのプロファイル資料にもみることができる単語である。
ラテラーノ公民が鉱石病に罹患した場合、感染者であっても公民としての一通りの権利は保障される
When a Laterano citizen contracts Oripathy, he or she continues to enjoy all of the rights guaranteed to them as part of their citizenship.
英語:Arene - Archive File 1
またイグゼキュターのプロファイル資料には以下の記載がなされている。
Executor is a citizen of Laterano, serving as an executor of the Laterano Notarial Hall, responsible for applying Rights of the Laterano Citizen numbered One through Thirteen.
「privilege」は基本的人権として用いる場合もあるが、「right」を用いている以上ここでは特権を意味すると解するのが妥当である。そしてprivilegeについてはLaterano Constitution(ラテラーノ憲法)に定められている一方で、rightについてはそのような記載はない。
むしろrightについて「afforded to all citizens of Laterano.(全ラテラーノ市民に与えられる)」との記載や「applying Rights of the Laterano Citizen numbered One through Thirteen.(ラテラーノ市民に一番から十三番までの権利を適用する)」との記載があることから推察するに、Privilegeはラテラーノに住まうサンクタに与えられ、rightはそれ以外、すなわち鉱石病に感染し追放されたサンクタやラテラーノにいるリーベリに与えられるものと解される。
ラテラーノにおけるprivilegeとrightの厳密な使い分けの基準は定かではないものの、少なくとも文言上ラテラーノが権利の側面からサンクタに特権を与えていることは確かであり、ここでもサンクタとそれ以外との区別がなされている。
ラテラーノが法を重んじる国である故に、この国は法それ自体によってサンクタとそれ以外を区別し、サンクタが特別な存在であるとの認識を形成したことで、サンクタの優越性を確立することに成功したものといえるだろう。
楽園の虚飾
楽園への疑念
これまで見てきたように、ラテラーノは「サンクタの楽園」として誕生し、他の種族との間で「我ら」と「彼ら」というように線引きをしながら、楽園として存続し続けてきた。
この楽園の在り方に疑念を持ったサンクタはアンドアインとステファノ・トレグロッサ司教が存在する。
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アンドアインはラテラーノの人間と同じ信仰を持ち救いを望むサンクタでない者達とラテラーノのサンクタとの間に何の違いがあるのか、なぜラテラーノが「彼ら」を救おうとしないのかに疑念を抱いた。
楽園には……ラテラーノには真の人々の営みがあるだと? ならばラテラーノの外の人々の生活は……偽りだと言うのか!?
彼らは苦境の中でも希望を抱き、教義と規則を心から信じ続けているんだ。それによって生活が変わると――差し出すことで得られる見返りがあると期待しているというのに……
ロックソルト雑貨店を営むバロン夫人、タイダル教会のランディー助祭、鐘の紐を編むことを生業とするサグレ少年……
教えてくれ、彼らの信仰と期待の何が偽りなんだ?
イヴァンジェリスタⅪ世――歴史を背負い、楽園を守り続けるあなたに、偉大で栄光あるあなたに問いたい。
……ロカマレアはどうして滅ばざるを得なかった?
違う。ラテラーノは本来荒野の道を示す星に……寒い夜を照らすかがり火になれたはずだ!
……できないとは言わせない。ラテラーノは経典に記された過去の遺産じゃない。ラテラーノは今ここに……この現世にそびえ立っているだろう! ラテラーノはより多くの人を救えるんだ!
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ステファノ・トレグロッサはかつて救いを求める全ての者の声に応え、誰であろうと平等に扱うことを誓った。しかし彼が信仰する主がいるはずのラテラーノは、サルカズというだけで楽園に受け入れることを拒み、彼はそおようなラテラーノに失望し、一度その信仰を捨てるに至った。
「楽園はサルカズを受け入れない」と。
なぜだ!?
種族だけを理由に拒むのか!? サルカズだというだけで!?
彼らと我々に何の違いがある? 彼らのような戦に長けた兄弟姉妹がいなかったら、この修道院はとうに瓦解していたのだぞ!
我々が互いに支え合いながら生き抜いていた間、ラテラーノは一体どこで何をしていたのだ!?
「私にはもう無理だ。己が信仰に背き、誰かを救うために別の誰かを捨てることなど……多数のため、少数を犠牲にすることなど!」
「ラテラーノよ……去りて久しき我が故郷よ……」
「何ゆえ、ただラテラーノだけが楽園たり得るのだ?」
両者の疑念はある一点で共通しているといえる。
「他者を救う力があるはずのラテラーノが、自己と信仰や生活を共にしてきた同胞を、なぜ種族の違いだけを理由に楽園へ受け入れようとしないのか」
アンドアインの問いに対し現ラテラーノ教皇イヴァンジェリスタⅪ世は以下の返答をした。
私たちが「私たち」であるがゆえに、私たちがラテラーノのサンクタであるがゆえにだ。
しかし、「彼ら」は「私たち」ではない。「彼ら」はごまかし、幻滅し、託し、失望し、もがき、憎むのだから。
彼らは自ら自分の敵を作り上げる。破滅の炎を心に秘めたまま、欲望と羞恥が混ざり合って人食いの怪物となるのだ。
なぜこの大地では無数の都市や王国が戦火に陥り、またたく間に消え去るのか。なぜ奇跡のラテラーノはそうならずに、永遠に存在することができるのか――
アンドアイン、彼らは地獄そのものなのだよ。
ラテラーノ内におけるサンクタと他種族の扱いの差、サンクタにのみ与えられる恩恵と特権、そして楽園の外で生活するサンクタ以外の存在を「地獄そのもの」とまで言い捨てる教皇。
ラテラーノを楽園たらしめているものはこのグロテスクなまでの差別意識あるいはサンクタの選民思想ではないのだろうか。
このサンクタの選民思想について、多くのラテラーノに住むサンクタは何の疑念も抱いていないことが窺えるところ、その原因にはサンクタ特有のとある性質、即ち共感機能とスイーツと爆発をこよなく愛することにその一端があるのではないかと考えられる。
共感
まずサンクタの共感に関する情報を整理していく。
サンクタは光輪を通じて他のサンクタの感情を共有することができる。この共感機能は単に相手の感情を共有させ同族の結びつきを強めるのみでなく、最も重要な戒律ともいえる「同族に銃を向けてはならない」という戒律を厳守させる機能をも有している。
サンクタには戒律と共感があり、ほかのサンクタに敵意を持つあるいは隠すことは、本来困難である。戒律に違反せずに銃を向けるとしても、同族に敵為すには大きな心理的プレッシャーと背徳感を乗り越えなければならない。
他方でこの共感機能には「離群」と呼ばれる共感障害があり、「長年ラテラーノから離れ、サンクタの生活方式とコミュニティの価値を理解していない者に見られることが多い」とされている。離群状態のサンクタは共感機能に損傷を受けているわけではなく、ラテラーノに住むサンクタ達がなぜ笑い、なぜ泣くのかを理解できないとされている。
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としてもこの共感障害についてはエンフォーサーにも発生している。
サンクタ同士が互いの心情を察することができるのは、僕たちにとっては言うまでもない常識です。しかし残念ながら、ある時ふと、そういった同族間での知覚が失われていることに気付いたんです。身体的な病変が原因ではなく、ただ……思考するようになったからです。
エンフォーサーによれば非病理的な共感障害の原因は「思考するようになった」ことにあるとされている。そしてこの記述を反対解釈すれば、通常のサンクタ、即ち共感機能に障害を来たしていないものは「思考」をしていないということになる。
としてもそれではレミュアンやエクシア、インサイダーといった共感に問題のない者達も何ら思考していないとの結論になり、これは妥当でないようにも思える。そこでここにいう「思考」とは何を意味するのかを考える必要がある。
この点サンクタに光輪が与えられたのが「アレ」による恩恵であること、その目的がサンクタを存続させ続けること、ラテラーノがそのために建てられたこと、そして「離群」がラテラーノのコミュニティの価値に触れないことも原因とされていることに立ち返ると、エンフォーサーのいう「思考」とは「ラテラーノでの暮らしを当たり前のものと認識しなくなった」ことを意味するのではないかと推測される。
これはエンフォーサーがラテラーノを離れ今までの生活に疑念を持ったこと、またアンブロシウス修道院のサンクタはラテラーノの生活に一切触れてこず『空想の花庭』を経て初めてラテラーノのサンクタと接触したことにも符合する。
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だけど、ラテラーノの外に視線を向けた時……自分の認知とは異なるけど、否定できない観点に触れた時……
またもや僕は普通の人にありがちな悩みを抱え、今までの生活を当たり前だと思えなくなってしまったんです。
「思考」をこのような意味で捉えたとき、ラテラーノのサンクタ達には思考が欠けていることとなる。その一端を担うのが、サンクタ特有の異常なほどのスイーツへの熱意と「様々なものを爆破したくなる」という奇妙な性質と考えられる。
「スイーツと爆発」
古代ローマの詩において市民の政治的無関心を示す言葉として、また愚民政策を比喩する言葉として「パンとサーカス」という言葉がある。
食料と娯楽を権威者が市民に提供し生活の安定と快楽とを満たすことで、市民を政治的無関心状態の愚民へと陥れる政策を比喩する言葉である。
甘味が多幸感を与え、爆発が興奮状態を引き起こすこと、それらのポジティブな感情が共感を通じてサンクタ全体に広がる社会は、「パンとサーカス」が示すものと完全には一致せずとも同じ方向性を向いているとみることもできなくはないと思われる。
このスイーツ好きと爆発衝動が「アレ」によるものか、それとも長い年月をかけてラテラーノが生み出したのかは定かではないが、少なくとも多幸感と興奮状態によるポジティブな感情の蔓延が、ラテラーノのサンクタに現状のラテラーノへの疑念を抱かせない要因になっているように思える。
以上見てきたようにラテラーノは「楽園」として存在しているが、それはあくまでサンクタにとっての楽園であり、他の種族に対する排他的差別的思想、法により強制される共感機能による同族意識や同族を害さないための戒律の遵守、ある種の愚民政策によりサンクタに根付く選民思想への疑いを持たせない思考の限定によって支えられているとの実態は、「楽園」という言葉の印象とは大きく異なり、他種族への救いをもたらさない虚飾というべきものと考える。
法の価値
最後に法の価値について少しだけ述べようと思う。『空想の花庭』でクレマン・デュポワは次のように述べた。
法ですか……私がここで暮らし始めて何年も経ちました。その間、司教の導きに耳を傾け、あなたたちの法に従ってきました。
普段ならば、法が拘束力を持つことは理解できます……ですがそれは混乱の最中、我々にとって一番必要な時に、姿を消してしまうものです。
いつからか、私の耳に聴こえるものはアルトリアさんのチェロの音色だけになりました。
フェデリコさん、私を救おうとするのはラテラーノの法でしょうか……それともあなた自身でしょうか?
クレマンの言葉を受けてか、イグゼキュターの法に対する意識にはアンブロシウス修道院での事件を経て変化が生じている。
目の前に過ちが存在するのなら、私はそれを正すことができます。任務の対象が罪人であるなら、私はその人物を確保するための多くの手段を知っています。
ですが今回の任務では、明確に執行がすべき水準に至っている過ちを見出すことができませんでした。
間違いがないのであれば、なぜ最善の結末に至れないのでしょう?
我らの法はいかなる状況にも適用し得るものではないのですか? そうでないとしたら、今後何を基準に行動すれば良いのでしょう?
法の価値を考えるとき、そこにはどうしても超えられない障害が存在する。それは法それ自体に人を救う力はないということだ。
例えば何かしらの事故あるいは殺人事件で人が亡くなったとしよう。法はその救済手段として不法行為を理由とした損害賠償を認めている。だがいくら損害賠償をし、金銭でもって損害を埋めたとて、亡くなった人が帰ってくるわけではない。犯人に殺人罪が成立し実刑が下されたとて、亡くなった人の家族や友人の心が晴れるわけではない。
また法の役割を秩序の形成に求めるとき、社会が災厄に見舞われ混乱状態となれば、法が守ろうとする秩序は多くの人間の思考から消えることもまた事実であろう。
法に緊急時に救いをもたらすものとしての価値を求めるとすれば、法は無価値と言わざるを得ないだろう。その意味でクレマンの「私を救おうとするものは法か人か」という問いに対する答えは人でしかありえない。法それ自体に人を救う力はないのは事実であり、イグゼキュターの次の言葉もその意味で肯定することができる。
法そのものには力はありません。それゆえに、執行する者が必要なのです。
しかし法の価値に目を向けるとき、我々は法が規範であることを忘れてはならない。
我々が「法」という文字を見て思い浮かべるのは多くの場合条文の形で表された「実定法」をイメージするだろう。しかし実際に私たちが「法」としてイメージするものは必ずしも実定法ではなく、むしろ例えば慣習であったり条理であったり、生活の中でのルールとして溶け込んでいるものをイメージする方が多い。
実定法が先か、それとも慣習や社会の実情が先かは個々の事情によるが、法として定められたものが社会のルールとなり、そのルールが個々人の内心における規範となる。
フェデリコに芽生えた法が機能しなくとも人を救おうとする意思を、ステファノが修道院の人間を「海の怪物」にすることを思いとどまった決断を、ジェラルドが同胞を守るために自己の命を捨てた覚悟を、恐れ多くも「良心」と呼ぶことが許されるならば、「法」の価値は個人の良心を育てる土壌となることにあるのではないだろうか。
結び
以上『空想の花庭』と『吾れ先導者たらん』というラテラーノに関する2つのイベントに焦点を当てて、ラテラーノという楽園とその虚飾、またラテラーノを支える「法」という概念の価値について考察してきた。
ラテラーノがサンクタ以外への差別意識やサンクタの選民思想を育み、他種族への救いの手を伸べないことに、「サンクタ」という種族の成り立ちの特殊性や種族特有の性質が絡むことは仕方がないにせよ、ラテラーノは「楽園」と呼ばれるに値しないと私は考えざるを得ない。
しかし、現在フェデリコはラテラーノ出身のオペレーターをロドスへと招待し、ラテラーノ内外におけるサンクタの暮らしを把握しようとしている。フェデリコのみならずロドスに入職したサンクタが他種族と自分たちがそう大きく変わらないことを意識し、ラテラーノの選民意識が払われ、いつの日か誰隔てなく救いの手を差し伸べる。そんな「楽園」となる日がくることを願うばかりである。
以上
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