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ヤドリギは幼い頃に

第一回目の投稿、思ったよりも反響が大きくてとても驚いた。
懐かしい人や、すごい近かった人からも連絡をいただいたりで、
インターネットの力をとても感じた。

こんな「せっかくだから」という言葉の力に後押しされて、
正直社会人とは思えないほど支離滅裂感は否めない文章であったのに、
書き始めてみて本当によかったと思った。

改めまして、これからもよろしくお願いします。

◾️結婚式はすばらしい

昨日は大学時代の友人の結婚式だった。

みんなから愛される彼らしい、とてもあたたかい式で、
よくある余興タイム等があったわけでなく、
その集まった人との時間を楽しむ、
両親・そして集まった友人たちへの感謝に溢れた、とてもいい時間だった。
特に列席したみんなの署名を持って結婚が成立する、
世界にひとつだけの結婚証明書は、むちゃくちゃ素敵だった。
あれ、僕も将来やりたい。
同卓に呼ばれていた同期たちは皆結婚していて、
祝福と焦りとか、なかなかに入り混じる環境であった。

結婚式にはお約束のご紹介ムービーが流れる中で、
ほんとうに素敵な人生をお互い歩んできていて出会って、
なんて最高のふたりなんだ、、と涙脆くなると同時に、
つい自分の幼少期を思い返してしまう。

いろんな結婚式におよびいただいて、さまざまな人の人生の過去を、
結婚式の紹介ムービーの形でのぞかせていただいてきた中で思うのは、
その人の人格・個性とかというのは、
思い出のヤドリギのように、
10代まで(特に幼少期)の、その人自身の経験に深く宿っている気がする。

僕は思い返すと、コンプレックス(劣等感)だらけのこれまでだった。
一体僕の紹介ムービーはどんなになってしまうのだろう、と、
若干の不安と、振り返りの自戒を込めて今日今の自分を形成しているだろう要素を書きたいと思う。

◾️何かのスペシャリストになれない

僕は幸い幼少期から両親がやりたいと言ったことに対して、
なんでもチャレンジさせてくれる環境にいて、
そのおかげでさまざまな習い事を経験させてもらっていた。

大抵は映画やドラマ、流行りものを見て、
「これやってみたい!」から始めてみるものの、
ちょっと覚えたらもうそれで満足してしまって、次に興味が移ってしまう、そんなタイプの子どもだった。

(ミーハーな性格はここに根ざしているのかもしれない)

【10代の習い事例】
・スイミング
-健康のために通っていた祖父の影響で通うも、体が弱くて全然水中がなじず無念の退会。

・剣道
-スターウォーズを見て、ぼくもジェダイになるんだと思い開始、
しかし、爆走兄弟レッツアンドゴーの影響でミニ四駆の方が楽しくなってやめてしまう。

・ピアノ
-スターウォーズを見て、ジョンウィリアムスのような音楽家を志すも、
ピアノの先生との方向性の違いにより挫折

・絵画教室
-比較的長く通い、ちっちゃい頃には受賞経験もあったが、その後伸び悩み気づけば受験競争が始まり退会へ。

・テニス
-テニスの王子様の影響で僕も燕返しが打ちたかった。テニススクールに通うもすぐに、周りは野球ブームで少年野球の方を選んでしまう。

・ギター
-バックトゥザフーチャーPart1のマーティのようなギタリストになりたいと思い、ギターを始めるも、なかなかうまくなれず挫折。
形から入るタイプでかなり良いギターを購入してもらった記憶。

・囲碁
-これはヒカルの碁ブームの影響と思いきや、自発的に通い始めた珍しい習い事であった。囲碁好きの祖父を喜ばせたい思いで、仲のよかった友達を誘い囲碁教室へ。その後有名なヒカルの碁ブームがきたことで、先に始めていた自分は少しだけ優位な存在に。しかしこちらも受験のせいでやめてしまう。

・英会話教室
-友達の影響で通うも、先生との方向性の違いに即退会。

等等のように、さまざまなことにチャレンジはさせてもらってきた。
**どれも一緒に始めた友人たちは、ちゃんとその道でなにかしらうまくなっているような気がする。それって、本当にすごいと思う。 **

僕は今まで何をやっても中途半端で胸を張ってこれが得意だ!と言えるものが、正直あまりないのが本当にずっとコンプレックスだった。

大抵は部活や習い事を一生懸命やっていれば、
それをやらせたら上手だったりするし、
何かしらみんなよりひとつ頭の抜けるものはあると思う。
でも自分自身はどうか?
その自分への問いかけがいつも一人になると襲ってくる。

少し前回のnoteにも通じるが、
上記のような幼少期からの経験・劣等感があり、
だからこそ社会人になってからは、
何かのスペシャリストになりたいと思って、
オレの企画でCMを作るんだ、オレのコピーで世の中を動かすんだ、という気持ちになっていたんだと思う。

でも自分の過去は否定はするわけでなく、
こうやって興味を持ったことに対してとびついて、
すぐにやめてしまったとしても、ちゃんと自分で経験する、
そういうサイクルを繰り返していたおかげで、
今の僕の性格の素地が固まっている気がしている。

そしてだからこそ、いま長く続けることのできていることに対しては、
ちゃんと成し遂げたい、続けたいという気持ちでいっぱいである。

◼️ひとりっこであること

いまはもう受け入れてはいるものの、
もう一つの昔から抱えていた大きなコンプレックスは、

「兄弟がいないこと」だった。

▼愛犬龍馬と

改めて昨日の結婚式でも。
兄弟・姉妹のすばらしさというのを目にして思ったことである。

ひとりっこで愛情は一身に受けてきていて、とてもしあわせなことだと思うのだが、周りの兄弟姉妹いるみんながとてもうらやましかった。

話し相手、遊び相手が近くにいる、
そして悲しみも喜びも分けあえる存在が身近にいる。
情報交換をしあえる。同じDNAの存在がどこかにいてくれている。

それってむちゃくちゃうらやましかった。

結婚式のときのあのよろこびのわかちあい、本当に素敵な姿だなぁっていつも見ていた。

逆もしかりで、例えば親の葬式の時、兄弟姉妹でかなしみをわかちあって、一緒に手を取り合って会を進行しているのをなんども見てきたし、自分の大好きな祖父母の葬式の時両親のそのような姿を見てきて、「果たして自分は悲しみを乗り越えられるのだろうか」と、いつも不安な気持ちになってしまっている。(乗り越えるパートナーを見つければいいものですかね)

逆にひとりっこだからこそ、幼少期から好き勝手やらせてもらっていて、
いまの自分があるんだと思うようにしてはいる。

「人の悪口を言う」「人の嫌がること」以外は、何をやっても怒られなかったし、大好きだった祖父母もいつも「大丈夫、大丈夫」と、何をしても辞めても応援してくれていた。

そんなしあわせな過去を持ちつつも、やっぱり兄弟・姉妹っていいよなぁと、思ってしまうことは多い。

この思いとは、これからも長く付き合っていくことにはなりそうだ。

◼️僕の幼少期にかかせないもの

何かのスペシャリストになれないこと(長続きしないこと)、ひとりっこであること(さみしい)をあげさせてもらったが、あともうひとつ今の自分を構成するものがある。

それは、「祖父母」である。※今回は母方の祖父母をさします

今はもう、すでにふたりとも亡くなってしまってはいるが、
今でも(ほぼ)毎日思い出すくらい、大好きだった存在だった。

ふたりとは二世帯住宅で一緒に住んでいて、ふたりとも本当にやさしくて、世の中にこんなに優しい人はいないんじゃないかなってくらい、最高の祖父母だった。

僕は幼少期(小学校低学年)、体が弱くて学校にあまりいけていなかった時期があった。(※いわゆる不登校的なものの一歩手前)

そんな時毎日家で、僕が作ったカードゲーム(オリジナルの世界観の中で力のバランスを考えたりキャラクターの名前を考えたりしていた)や、
マンガ(当時流行っていたコロコロコミックのパロディのマロマロコミックというのを書いていた)を、いつも楽しんでくれて、
いつもにこにことそばにいてくれた。

だから僕が中学・高校と野球部に入って少し体が強くなって学校に毎日いけるようになってからは、ただその事実だけでよろこんでくれた。

学校の成績が悪かろうと、部活で補欠だろうと、少し思春期特有の反抗期がこようと、いつも笑顔で「大丈夫、大丈夫」とそばにいてくれた。

この「大丈夫、大丈夫」というのは、なんの根拠もない言葉かもしれないけど、不思議とその言葉を言われることで自然と大丈夫な気持ちにさせてくれる、言霊の力を兼ね備えたものだった。(きっとそれは「大丈夫」と思わせてくれる人が言うからなのだろう)

だから僕も自然と「大丈夫」という言葉はいまだに大事にしていて、
積極的に人にも使うようにしているし、「大丈夫」という言葉が少しでも重みを持てるように日々を生きるようにしている。

そんな祖父母にもやはり別れは訪れる。
祖父に関してはまた別の機会に、祖母の話を今回は少しだけ話したい。

今でも忘れない、最後に会ったのは高校3年の1月1日だった。
その頃、1年くらい前から病気で祖母は入院していた。
※これはあまり言っていない話だったが、この時僕は祖母が入院してから当時野球部だったのだが内野から投手へコンバート(転向)を決めた。なぜなら野球の試合で一番画面に映るのは投手で、投手になれば病室にいる祖母にも自分の野球のしているところを長く見せてあげることができると思ったからだった。結果万年補欠ではあったのだが....

僕は受験直前で元旦も予備校に向かった。
その時祖母は一時退院(症状がよくなったときいていた)していて、
朝もふつうに「いってきます!」「がんばってね」のやりとりをしていた。

しかしそれが最後のやりとりになってしまった。
(実はとても症状が重くて身辺整理でたまたま帰ってきていただけらしく、
本人もそれが最後だとわかっていたが、受験生だった僕のメンタルを気遣って、最後まで気丈な振る舞いをしてくれていた。)

その後入院したのは聞いていたが、
危篤状態になるまで、祖母から両親へ口止めしていたらしく、
一切ぼくのところに危ない状態であるという話は入ってこないでいた。
祖母としては受験が終わるまでそのまま僕が気にせず打ち込める環境を作りたかったのだと言う。

1月31日、いよいよ本当にやばいと言う時、
予備校にいる時母から携帯が鳴った。

御茶ノ水からその瞬間から駆け出した。

総武線が本当に長く感じた。世界が真っ白なくらいに感じていた

頭の中でいろんな思い出とともに、なんで病が重いのをずっと隠していたのか、その優しさがあまりにも僕のためで祖母らしすぎて涙が止まらなかった。

最期、会話がとてもできる状態ではないが、
”生きている”状態で待っていてくれて、目の前で看取ることができた。

その時、初めて「僕の受験に支障がないように病を隠していたこと」を知り、死に際まで優しさを持ち続けられる祖母の亡骸の前で泣き崩れた。

受験頑張って大学に入って、社会に出て立派な大人になるんだと、
どんなときでも大事な人のことを考えられる優しさを持つ大人になろうと、この時、強く心に誓った。

今それがどこまでできているかはわからないけども、
毎年京都の東山清水寺の麓の墓に行ってはちゃんと近況報告をするようにしている。

と、、長くなってしまったが、
今の僕は上述のような10代の頃の思い出のヤドリギによって、
出来上がっている事は間違いない。

これからも自分の過去とは向き合いつつ、
少しでもいい「企て」ができるようにがんばっていきたい。

そして改めて自分のこういう部分をみんなに知ってもらって、
いろいろとご意見・アドバイスをいただきたい。

ちなみにヤドリギの花言葉は、
「困難に打ち克つ」「克服」「忍耐」
というものがあるそうな。

まさに自分の場合はそれ。
これらと向き合って乗り越えて生きていきたい。

あともう1個、ヤドリギには花言葉があった。

「キスしてください。」

まさにこれ、こんな僕にキスしてください。

これからも何卒よろしくお願いいたします。

丸橋 俊介

▼餃子が食べたい






さぁみんな「この指とまれ!」