見出し画像

はんこ

 はんこを、買った。可愛いキャラクターのやつ。スタンプといった方が正確だろうか。
 それをインクにつけて、紙に押す。赤インクの隙間からキャラクターがあざやかに顔を覗かせる。押韻の中に、世界ができあがる。僕は、いくつものはんこを紙に押した。その度にキャラクターが増えて、世界が複製されていく。気付けば、机の上にあった、小さな紙片はキャラクターで一杯になった。単体では愛らしいキャラクターも、これだけ林立すると奇妙だ。かわいいが渋滞している。何事もある量を超えると、とたんに奇異な印象を抱くものだ。
 はんこは、ゴムを切り抜いて作られるのが一般的だろうか。その創作過程には決して明るくはないが、イラストをあげ、それをもとに型を作り、大量に生産していくのだろう。そこには色々なキャラクターがあり、そのキャラクターにも色々な表情がある。
 部屋に置かれたいくつかのはんこを見ると、なんだか切ない気持ちになってくる。自分もまたこのはんこ達と同じだ。自分の固定化された価値を、世界に向けて流布していく。毎日、自分を複製していくのだ。夕方には、インクならぬ手垢にまみれた自己を部屋に持ち帰る。あとは、泥のように眠るだけ。また数時間後には、太陽とともに家を出ていく。
 複製されていく自分はきっと脆弱な存在だ。はんこの連続性の中に、つまらぬ生活のそぎ落とすことができない寂寥感を感じざるを得ない。
 しかし、悲観してばかりでもない。はんこは、「証」としての大義がある。昨今の情勢の中で、押印の意味は実質的に揺らいだ。しかし、その本質的な意味が完全に消失したわけではない。それはまだ自己を完全なる実態だと証明する効果がある。あいまいな自己を、押印が支える。行為そのものが廃止されたとしても、その象徴としての意味は残っているだろう。
 ものの「機能」について色々と考えてしまう。何事にもおそらく複数の機能があるのだと思う。その機能そのものを超えて、その行為が、文化駅な力を持つこともある。
 ものと人のつながりは実に多様だ。手元にあったはんこから色々考えてみた。雑想の中から、自分の思考を研ぎ澄ましていきたい。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?