小説 マイナス
引かれた。
私は、そしてマイナスになった。何もないのに、さらにすべて失った。
右手を、空にかざす。何も手に入らないと知っている。時間だけが失われていく。
炭酸のように、弾けた。夏の、夜。
寂しさに濡れた。
涙のせいだ。夜に私は静かに隠れる。
あなたを、足していけばきっといいのだ。でも、もうそれが不可能であることを知っている。
独り言を重ねる夜。朝になると、砂の山のように言葉が積まれている。
記憶を、捨て去って、私は家を出るのだ。継続種に困る。どこにもいけないような気がする。
刺激なんていらないのだ。堅調な指先でいたい。曖昧な言葉ばかりをもてあそんで、あなたは水平線の果てに消えた。
命を失った、そんな言葉で片付けられるほど、私は簡単ではない。
曖昧な輪郭が鏡に映った。
私の肌にはしわがない。もう、負の数の肉体となったからだ。
指紋もない。じきに、人間ですらなくなるだろう。
それが私が選んだ道なのだ。
溶け出していく。私の中から、私を私にするものが。私を私たらしめる何かが。
「泣きそうな顔をしているね」
黙れ。
私は、心の中でつぶやく。
でも、なぜだろう。そう言われた時に、不思議と涙が止まらなくなるのは。
「また、満月の日に来るよ」
「雨が降ったら?」
「きっと晴れるさ」
「きっとね」
彼は、満月の日に来なかった。
それ以降、姿を見せなかった。世界から、溶け出して水になった。
この星に、いないのかもしれない。
彼は、マイナスの存在になった。だから、私もマイナスになった。私はこの星にいるのに、私はまだ肉体を持っているのに。
お経が聞こえる。線香の香りだ。
時間の縁から、落ちていった。命が抜け落ちた。私は私から逸れていく。
秋になった。
私は、ベランダで炭酸飲料を口にする。弾ける、世界。
「このまま、泡になったらいいのに」
小さくつぶやく。そのとき、部屋の扉が開いた。
彼がやってきた。
それは、きっと、まぼろしだ。
「ただいま」
彼は、まぼろしは、そう言った。
私は夢を見るのだ。実体にたどり着かない、永遠のマイナス。
それでいいから、今はその腕の中で眠らせてほしい。
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