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信心深さは浅い

こんな話をすると引かれるだろうか。
身を案じられるかもしれない。


最初に言いますが、
元気です。
これらが私の思考の傾向ですが、
別に自分を軽んじているわけではありませんので、
変なやつだな~😅くらいの感覚で読んでもらえるといいかなって思ってます。


一つ前の記事で、
ちび蔵さん(chibi0324さん)に、
あなたの存在は自分にとっては薄くないですよ、
と言って頂いた。
とってもありがたく嬉しい言葉です。

そこでふと思う。


なんで真っ直ぐ言葉を受け取れるんだろう?



私はnoteで本音を出す。
紛れもなく、
ここにいるのは私なのだ。
私を見るな。
注目されたくない。
影薄くいたいんだ。
とか言いながら、
私をさらけ出す。
矛盾だらけに思える。
面と向かってでももちろん嬉しい言葉は嬉しい。
うぅむ。
私はまだ私自身をわかっていないようだ。


今言えることは、
この場に残す私の文章は、
私の一部だということ。
ここにないものは、
私の個体だ。
匿名性というのだろうか。
このnoteの世界に存在する私は、
街中を歩いても見つからない。
例えフォロワーさんの一人が隣人であったとしても、
お互いに同一人物だと認識していなければ、
まったくの別人なのだ。
この場所にいる個体も私だけれど、
noteの中の言葉もまた私。
でも一致することはない。
仮に個体がなくても、
個体がないことに気付かれることなく、
私が残っている場所がある。


うん、
丁度よい。


もう一つ言えること。


目に見えないものへの信心深さは非常に浅い。


決して信じない訳では無い。
神社で神様に手を合わせるし、
ぶっちゃけ宗教2世育ちだし。
そういった信仰心のあふれた世界で生きてきた。
信じないのではなく、
その想いに強さがなかった。
神様がいないとは思ってないし、
なんならトイレにもいると思っている。


でも。


空気の存在を疑うこともないし、
オバケなんていないとも言わない。
見たことがないから、
いても、
いなくても、
私にとっては何てことはない。
宇宙人も、
ツチノコも、
ビッグフットも。


それらと同じ感覚というと、
ちょっと語弊があるだろうけれど。


例えば今、
10年以上疎遠の家族の身になにかあったとして。
例えば今、
目の前の見知らぬ人の身になにかあったとする。

どちらが私の心身に影響があるかというと、
後者であることは想像に難くない。

私にとって、
遠くなってしまった存在はその程度か。
自分は時々非情なニンゲンだと思っている。


ただ我が子に関しては別であろう。
子は私の一部なので。


でも、
我が子含む、
私を知る人たちに、
私が居なくなったあと、
あれ?
どんな顔してたっけ?
くらいの存在でいたい。
忘れていていい。
写真にも写っていない。
いや、
別にホラーな話ではないのだけど。


我が子にも、
時々、
私が死んでもお墓にはいないからね~、
なんて有名な歌詞をパクッて聞かせるような親なのです。


最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

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