教育の聖地「芝山巌学堂」
士林夜市で有名な士林地区の散策コースに教育の聖地と言われる「芝山巌学堂」が有ります。
この国語塾「芝山巌学堂」は1895年(明治28年)日清講和条約で台湾の割譲を受けた、そのわずか数か月後の7月に開校されています。
これには当時、文部省学務部長心得であった伊沢修二の、教育を最優先すべきとの具申を初代台湾総督樺山資紀が受け入れた事にある。
「芝山巌事件」
悲しい事にこの「芝山巌学堂」を舞台に1896年(明治29年元旦)に日本人教師6人と小使1人が土匪に惨殺される「芝山巌事件」が起きています。
日本統治に反対する叛乱勢力が元旦を期して台北を攻撃するという事は予測されておりました。
教育に命を懸けていた教師達は、地域住民の避難要請を聞き入れず「芝山巌学堂」から避難することをせず、土匪達に、ひるむことなく教育の重要さを必死に説いたという事です。
殉職者名簿
関口長太郎(38歳)
平井数馬(18歳)
楫取道明(39歳)
井原順之助(24歳)
桂金太郎(27歳)
中島長吉(27歳)
彼らの教育に対する情熱、精神は多くの人々に感銘を与え、その精神は芝山巌精神と称されました。
芝山巌学堂を“教育の聖地”と讃え1930年(昭和5年)この地に「芝山巌神社」が創建され六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じた人々が祀られた。当然、台湾人教育者も含まれています。
年始めには台湾全土の教職者が参拝に訪れました。
士林という地名
広辞苑を見ると「士」は学問、道徳などを身にそなえた尊敬に値する人物、「林」は樹木が沢山集まって生えているところ、とある。
地名由来と関係が有るのか無いのか学校が実に多く教職者の多い地域だ。
国語塾「芝山巌学堂」
国語塾「芝山巌学堂」は「芝山巖惠濟宮」の後殿を使って開設された。
芝山巖惠濟宮
戦後、惠濟宮の住職は国民党によって破壊されていた六氏先生之墓跡から遺骨を密かに移し、小さな石塔を建てて長い間守ってくれました。
學務官僚遭難之碑
故教育者姓名碑
周辺には破壊され復元せずわざと放置されている碑が数個あり、これも歴史を物語るものとして貴重な資料です。「故教育者姓名碑」には、台湾人教育者の名も刻まれています。
六氏先生之墓
戦後、惠濟宮の住職は国民党によって破壊されていた六氏先生之墓跡から遺骨を密かに移し、小さな石塔を建てて長い間守ってくれました。
その遺骨を開校百年目の1995年(平成7年)、後身の『士林國民小學』の卒業生有志によって「六氏先生之墓」は再建されました。
学業終了書
開校3か月後の1895’(明治28)10/19、第一期学生7名が卒業しています。
芝山巌神社
1930年、昭和5年に建立された芝山巌神社。
年始めには台湾全土の教職者が参拝に訪れました。
遺跡
本殿は国民党によって破壊され今ではこの参道と手水舎跡が残るのみです。
芝山巌学堂の学校史
1895年(明治28年)5月17日、下関条約(馬関条約)により台湾が日本に割譲され、日本による統治が始まると、同年7月に台北北部の芝山巌恵済宮の後殿に「芝山巌学堂」を設立した。
1896年(明治29年元旦)の「芝山巌事件」後の4月に「國語學校附屬芝山巖學堂」、更に6月に再び「國語學校第一附屬學校」と改称する。
1898年(明治31年)、10月1日から「八芝蘭公學校」と改称する。
1904(明治37年)新校舎が完成し現在地(士林國民小學)に移転する。
1921年(大正10年)の4月1日、学名が「「士林公學校」に変更される。
現在は中華民国の『士林國民小學』となっています。臺北市士林區中山北路六段392號
八芝蘭公學校」正門跡
八芝蘭公學校講堂
1916(大正5年)に建てられる。
現在は士林国民小学校の図書館となっています。
2017年に、講堂は市の史跡として登録される。
八芝蘭公學校校舎 ( 現・士林公会堂)
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