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玉村豊男「料理の四面体」

▲Parc Monceau モンソー公園(8区)

「フランス料理の学び方」に続き、読書記録の第二弾です。

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今回は玉村豊男氏の「料理の四面体」です。
簡単に言えば、あらゆる料理に共通する原理を示した本です。
レシピ本から帰納的に料理を覚えることの限界を問題意識とし、以下のようにまえがきに記述しています。

イッパツで料理の一般原理を発見し、それを知ったらあとは糸を紡ぐように引けば引くだけ次から次へと料理のレパートリーが無限に出てくる……というような方法がないものだろうか。

この問題意識は大学生当時の私が抱いていたレシピに関する疑問にピタリと一致し、引き込まれるように読みました。読了後、感化された私は長野県東御市で著者が営むワイナリーを訪れたほどです。

私は小学生ごろから菓子を作ることに興味があって、レシピ本にお小遣いをつぎ込んだ時期がありました。しかししばらくして気がついたことには、どれだけ本があっても自分の中で体系化できなければ、本に書かれていること以上のことはできない、ということでした。
それどころか著者によって言うことは異なり、なぜその材料が必要なのか、なぜその分量なのか、なぜその手順になるのか、といった疑問はますます増え、混乱し、そのことが作ることを窮屈に感じさせてしまうことすらありました。

Alain Chapel氏の"LA CUISINE, c’est beaucoup plus que des recettes"という本では、レシピの問題点を次のように指摘しています。

Pourquoi avoir voulu un livre de cuisine qui ne soit pas seulement un catalogue de recettes ? D'abord, sans doute, parce que la recette, dans l'exactitude des grammages et des tours de main qu'elle postule, semble donner un avis définitif, clore de manière péremptoire toute discussion en matière de cuisine. Elle fait un peu la fière puisqu'elle demande qu'on la recopie telle quelle, sans tenir compte des improvisations de l'humeur ou du produit.

レシピを提示することは、それ自体が絶対だという印象を与え、議論を終わらせてしまうものであるといった内容です。即興性に加え、土地柄や季節性を考慮しなくなる点についても後述しています。

一方でレシピ本の中には分量や手順の解釈に幅を持たせたものもありますが、判断基準を見失うことに不安を感じる読者がいるのも自然な反応かもしれません。

何か考え方ひとつで料理することを純粋に楽しめるようになる方法はないだろうか。水を与えるのではなく、井戸の掘り方を教えてくれるような方法は...。同書はそんな悩みにヒントを与えてくれます。

では要約です。

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I 料理のレパートリー
ソースは語源である塩に始まり、もろもろの材料を得てレパートリーが増えた。煮込み料理も煮詰めたものをかければソースの料理となる。ブフ・ブルギニョンは(1)マリネ(2)リソレ(3)長時間煮て途中で野菜を加えるのプロセスで簡略化できる。同じ方法論は日本の“すっぽん煮”に体裁をととのえることができ、薩摩のとんこつ然りである。細部を改良すれば、豚の生姜焼きになる。共通点をたどれば各種の料理は、実はひとつの同じ料理である。
II ローストビーフの原理
ローストとグリルとは直火にかざす点で一致し、違いは火からの距離の差である。途中に水や油を介在させない直火による調理法には必然的に空気が働きかける。その度合いにより、直火にいちばん近いグリル、火から遠ざかったロースト、火から遠く離れたくんせいと来て、果ては太陽を熱源とする干物に到達する。
III てんぷらの分類学
“揚げる”という基本的調理法はどれも同じで、下ごしらえの材料によって料理の名称が変化する。英語の”フライ”には、火の熱を油脂に伝え、その油脂の熱で材料を調理する点で、“炒める”も含む。中国人は油と水の分量を按配し、鍋ひとつで様々な調理法を操る。一滴の油が鍋いっぱいの海になるまでの過程で、さまざまの材料がさまざまに異なるかたちに変化していくさまを連続的に眺めることができる。
IV 刺身という名のサラダ
料理を意味するフランス語の“キュジンヌCUISINE”や英語の“クッキングCOOKING”は、加熱を語源とする。その点で火を通さないものは“料理以前”のものである。サラダは材料を調味料で和えたものであり、刺身は素材を別々に盛り付けたサラダである。そのまま食卓に出すこともできれば、そこから加熱して新たに料理を始める“下ごしらえ”にもなる。
Vスープとおかゆの関係
食べかたのスタイルの違いはあれど、ポトフーもポタージュも、あるいは茹で肉もスープも、出生は同じである。“煮る(茹でる)”ことで火の熱を水に伝え、その水の中で材料を変化させる点でシチューも“炊く”も同じ姿を呈する。水や介在度を少なくすると“煎る”、“焦げる”と変化する。“蒸す”は煮るに近しいが、空気が介在する。
IV 料理の構造―または料理の四面体について
料理の基本要素は(1)火(2)空気(3)水(4)油である。火との間に介在する空気が少なければグリル、多ければローストになる。介在する水分の程度により蒸し焼き、蒸し煮、煮ものが得られる。水を油に置き換えると煎りもの、炒めもの、揚げものになる。火の営みから離れると、ナマものの世界がある。火を頂点として、空気、水、油を稜線とする四面体が形成される。ひとつの材料を四面体のどこかの一点に置くと、ひとつの料理ができる。料理を新たに底面に置けば、新たな料理が生まれるきっかけとなる。四面体の原理を応用すると、無数の料理のレパートリーを引き出すことができる。
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結論としては火を頂点とし、空気、水、油の各辺を斜辺とする四面体上の点で料理が示せるというもので、各章は、II:空気のライン、III:油のライン、IV:ナマもの(底面)、V:水のラインに対応しています。

こうして見ると、料理はいくつかのチューナーを上げ下げした結果として現れるものと捉えることができ、考えられる料理のレパートリーは無数に存在します。むしろ名前が付いてる料理はごくわずかにすぎないのではないかと考えさせられます。

前回の要約で、歴史上の料理は枝葉はあれど根幹は同じといった解釈をし、根幹を見失わない重要性を強調しました。一方で枝葉でのマイナーチェンジが未来につながる道筋とも言えます。今は名もなき料理が将来、選択の結果として導かれることもあるかもしれません。そのとき、異端として退けるのか、採否を議論する態度をとるのかは各人の判断に委ねられます。

私はいま、作り手としての立場にあります。
時代に即して料理をアップデートすることは、この先考えなければならないことの一つです。
明日何を作るのか、どこで誰と料理を作るのか、何をどれだけ買うのか。
普段何気なく取り仕切られているからこそ、歪みや既存の選択を再考し、問題を提起することに意味があると思います。

先に引用したAlain Chapel氏の記述には、料理人が何を思っているのか述べている本がほとんどない、という指摘があります。

On a publié bien des ouvrages sur la cuisine mais peu qui disent vraiment ce que les cuisiniers ont dans le cœur et parfois sur le cœur.

問題提起が議論を生み、次の時代のより良い料理につながれば、それ以上のことはありません。
変化が起きた結果としての料理がなんであれ、四面体のどこかにあると考えるとわくわくしてきます。

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