激動の半生part2

ドイツ滞在(続き)

ドイツ滞在中は日本人1人だけで早く日本に帰りたいとばかり思っていた。でも、DLRで面倒を見てくれたEgry先生から自転車を買ってもらい、休日は近くをサイクリングしてみたり、朝食は近くのパン屋で焼きたてのパンを買ったりして今思うといい思い出だった。日本に帰るとき、Egry先生から宇宙の本を1冊お土産にもらった。ドイツ語で書かれているが、アメリカ人宇宙飛行士の言葉は英語、ロシア人宇宙飛行士の言葉はロシア語で書かれている。せっかくだから1年くらいいれば良かったなあと思った。

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博士号取得、そして就職

ドイツから帰ってきた2001年4月、あと1年で博士課程修了なので博士論文作成と就職活動をしなければいけない。博士論文の方は余裕があったが、就職先をどうするか迷った。マランゴニ対流の研究はあまり好きではなかった、というのは、シリコン結晶成長ではマランゴニ対流が出てくる場面などほとんどなくて、研究する意味があるのかと疑問に思っていたからだ。教授に言われたことは疑問を持たず淡々と実行する人ならいいけど、私はこういうのは疑問に思ってしまうので、研究を続けようとは思わなかった。それでも日比谷先生から勧められたNASDA(現JAXA)でマランゴニ対流の研究についてのポスドクを受けてみた。その頃のNASDAと言えば、ロケットの打ち上げは失敗続きで、日本の宇宙開発は完全に冷え切っていた頃だった。もう一つはマランゴニ対流とは別のシリコン結晶成長をやってみようと思い、東芝セラミックスという会社も受けてみた。先に返事が来たのは東芝セラミックスで、不思議なことに内定を取れた。一方、NASDAは8月になって面接があり、不採用だったということを教授から知らされた。サラリーマンなど向いていないだろうと自他共に認めていたけど、他に選択肢がないからとりあえず東芝セラミックスに行くことになった。なお、ちょうどその頃H2Aロケットが打ち上げに成功し、NASDAはようやく威信を取り戻した時期だった。

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同時多発テロ、そしてエンロンショック

2001年9月11日、あの有名な同時多発テロが起きた。それを機に世界経済は落ち込んでいく。2001年12月にエンロンショックが起き、前年に買ったMMFはエンロンの社債を組み込んでいたため、安全と言われていたMMFが元本割れするという事態になってしまった。今度はもう少し投資の勉強して、次はドルを買ってみようと思い、2002年2月に野村證券の口座を開設しドル建てMMFを買ってみた。当時1ドル133円くらいだったが、ドルはそこから急落し1年後には1ドル100円近くまで下落してしまった。その頃は勉強不足、経験不足もあり投資はさっぱりだった。

サラリーマン生活

一方、博士号は無事取得し、2002年4月から東芝セラミックスで働き始めた。しかし、会社の仕事が合わない!半年で自分はサラリーマンにはやっぱり向いていなかったと自覚し、何か別のことをやらなければと思い立った。そのとき、本屋でSOHO(Small Office Home Office)の本を読み、こういう組織に束縛されない仕事をしてみたいと思った。その中で弁理士という仕事があるのを知った。大学院の研究室の先輩に誘われて以前菅直人事務所のボランティアをしていたこともあったので、菅直人も弁理士だということは知っていた。弁理士を目指そうと思ったのは2002年11月。SOHOならある程度時間を自由に使えるから、将来は開業弁理士をやりながら宇宙開発をやってみたいと考えていた。

特許事務所へ転職

東芝セラミックスの仕事は合わず、それでも我慢して続けていたが、もう我慢の限界だった。そのとき、自分の机に特許庁任期付き審査官募集の用紙が置いてあった。私が弁理士を目指していることは周りの人も知っていたから誰かが置いたのだろう。2004年5月から採用される任期付き審査官に応募し、それに合格したら東芝セラミックスは辞めようと思っていた。しかし結果は不採用。我慢の限界だった会社はその通知の前に辞め、無職の身になった。ストレスに耐え続けていたことで体は限界。持病のアトピー製皮膚炎などさまざまな病気を併発し、しばらく休養しようと思った。それと同時に特許事務所の就職活動もしていたが、あっという間に有楽町の特許事務所に就職が決まってしまった。特許事務所に勤務しながら、弁理士試験と特許庁任期付き審査官の2つを両方とも挑戦することにした。

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