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洗いたい靴下

 初めての夜、ゴムの緩んだ白い靴下が、鳴沢の高い甲に引っかかってなかなか抜けないのを、ちひろは足の親指と人差し指を使って、するりと床に落とした。「器用やなあ」と感心したように言われたので、照れ隠しに鼻で笑うと、野球の練習でざらついた指が、ちひろの鼻先ごとその空気を潰す。
 されるがままの足元を、確認しようとする鳴沢の息が顎の先に当たった。緊張しているのかいつもと違う臭いがして、ちひろはそれを誤魔化すように、今度は左足の靴下を強引に引っ張り部屋の隅へと追いやる。後になって、急いで探さなきゃならなくなったのは、帰りが遅くなると出かけた両親が、間もなく帰ってきそうだったから。
 幼い頃から思い描いていたセックスとは比べ物にならないほど呆気なく、ロマンチックでもなかったけれど、それでも十分に満足して鳴沢を玄関へと送り出した。鳴沢は結局見つからなかった靴下を諦め、片方を素足のままローファーに突っ込み、所々が錆びついた自転車に跨る。
「この靴買ったばっかやし、靴擦れするかもやわー」
 文句を垂れながらも唇の端に笑みを浮かべた横顔は、ちひろの頭をそっと撫でた後、サドルから少し腰を浮かせて夜の田舎道へと消えていった。頼りない街灯に照らされ、白いワイシャツが張り付いた背中に肩甲骨の影がくっきりと見えると、お腹の奥がキュッと鳴るのを感じた。それをする前とした後では、そういう細かい部分でさえ、やっぱり何か違ったと思う。
 ちひろは十八歳の夏、正確には夏の終わり、夏中散々持て余した欲の最期を看取るように、ちひろが五歳の時に両親が購入した家の自室で、周りの子達よりもいくらか遅く大人へと近付いた。
 黄ばんだ靴下が一枚、雑誌やCDの並ぶ棚の後ろから埃にまみれて見つかったのは、それから半年が経った頃。引越しのために棚を動かしたからだ。
 鳴沢はもう、その時にはちひろの傍にいなかった。それどころか、何処にも存在しなかった。鳴沢はあの夜、左足の靴下をなくしたまま、この世を去ったのだ。
 トラックに撥ねられ、道路脇の水路に転がり息を引き取るまで、鳴沢がどれほど心細かったかを想像すると、ちひろはどうしてあの時、左足の靴下を一緒に探してやらなかったのかと、後悔して止まない。
 右足の靴下は、ゆっくりと引き抜いた。鳴沢の何もかもが眩しく、くたびれた靴下さえ愛しかったからだ。なのに、その丁寧さを指摘された途端に、自分の好意さえ恥ずかしくなった。今度は大事な鳴沢の足先を乱暴に扱うことで、恋するカッコ悪さを隠そうとした。
 なぜ、両方とも丁寧に脱がしてやらなかったのか。あの曇った息を、正面から嗅がなかったのか。棚をどかして、その後ろを探してやらなかったのか。間もなく帰ってきたはずの両親を待って、車で送ってやらなかったのか。どうして一度も下の名前で、初めての恋人を呼ばなかったのか。
 葬式では、なぜだか涙が一滴も出なかった。ただ、もう二度と男と交わることがないであろう自分の未来を案じていた。涙の代わり、家を出る前に無理やり口の中へ押し込んだおにぎりが、今にも食道を逆流してきそうだった。母親が好んで作る昆布の塩味が、喉を焼くように広がる。風邪のひき始めを思い出すような不快感。胃液で刺激を受けた部分が、ジンジンと熱を持っていく。鼓膜が破れそうなほど内側から熱と圧を感じるのに、しっかりと校長の弔辞が聴こえているのが不思議だった。時々痰を絡ませながら話す校長の姿に、正直、馴染みなど一つもない。このおじいさんは、鳴沢の一体何を知っていたのか。何も、知らなかったんじゃないだろうか。
 葬儀が滞りなく進む中で、焼香の番が近付くと、ちひろは親友の彩花に肩を抱かれて席を立った。鳴沢との関係を知る者からの視線に殺されそうになりながら、一歩ずつ前へと進んでいく。あと数歩のところで堪えきれず、手元のハンカチへと少量のゲロを吐いた。床にはほんの数滴の水分が垂れたものの、遠目にはわからなかったはずだ。泣いていると思った人間もいたかもしれない。彩花が、ハンカチを押さえるちひろの手を、さらに自分のハンカチで覆い、反対の手で、爪が食い込むほど肩を強く抱く。彩花の腕と脇に挟まれたちひろの身体は、ほとんど宙に浮きながら残りの数十センチを進み、鳴沢の前に立った。
 笑顔の遺影はもちろん、祭壇の右手に並んで座る、鳴沢の家族を見ることさえ不可能だった。付き合い始めてから、おばさんとは二回ほど顔を合わせたことがあったが、事故の後、電話で話したきり会いに行くこともしておらず、後ろめたさで直視できなかった。
 背後に並んでいた男子が、床に散った米粒の欠片を踏み潰し、なかなか去ろうとしないちひろの首筋に生暖かい息をかける。
 覚えていたいのは、鳴沢の声や表情、腕を回した華奢な背中の温度だったはずなのに、後々思い出すのは、自分の体に起きた異変や、起きるはずが起きなかった異変、その後一年近くも来なかった生理のこと、彩花の力が想像以上に強かったこと、そんなことばかりだった。
 
 あの日、鳴沢が置いて帰った靴下を、ちひろは捨てることも、洗うこともできなかった。埃をはらい、黄ばんだままでジップロックに入れると、引き出しの一番上にしまった。
 卒業までの期間、地元の狭い世界でちひろは常に好奇の目に晒された。親切から声をかけてくれる同級生にも、残念ながら理想的な返答は出来なかった。ちひろはそこまで大人ではなかったし、誰にもぶつけることのできないイライラをずっと抱えて生活した。胃から逆流する食事が、ちひろが生きることを拒否している証明だった。死にたいと思っていたわけではないが、身体がちひろを生きさせまいとした。何をどれだけ食べても完全に消化されることはなく、口から出てこようと食道を這い上がってくる。
 異物を飲み込んだ時に吐き出すという、動物の反射的な行動のせいならば、自分が食べている物は一体なんなのかと不思議に思ったことがあった。あり得ないことで母を責めた。弁当や夕飯に毒を入れているのではと疑ったのだ。食事中に軽く嘔吐したちひろはパニックになり、向かいに座る母に箸を投げつけ怒鳴った。母は立ち上がると、ちひろが吐いたおかずを布巾で集めながら一言も発さずに泣いた。女優のように静かに泣く母を見て、母には父がいることを疎ましく思った。
 私は好きな人を、亡くしたのだ。何をしたって許されるべきだという甘えが、ちひろの身を侵食していった。自分でも恐ろしいほど身勝手になった。家に引きこもるようになり、高校をギリギリの単位で卒業すると、東京に出ると両親に伝え、引っ越し費用をせびった。
 鳴沢の家を訪ねることは、とうとう最後までしなかった。両親は四十九日の法要に出向き、墓参りにもよく行っていたが、ちひろ自身は一度も行ったことがなかった。それはせめてもの、鳴沢が死んだという事実への反抗だったし、自分自身を労わる方法だった。
 両親は何も言わず、ちひろを外の世界へと放った。そんなつもりはなくとも、ホッとする気持ちがどこかにあったのは間違いない。とにかくふたりは、思いがけず厄介払いに成功した。
 東京は地元に比べると違う意味で広く、人間で溢れかえっていた。探し回れば、鳴沢を見つけられるような気さえしたものだ。
 一人暮らしは、家賃の安さで選んだ下町の狭いワンルームと、バイト先の往復で始まった。食べ物が受け付けない身体になっていたので、昼間はレンタルビデオ店で働き、それだけでは稼ぎが足りないと分かると、夜でも働ける割のいいバイトを探した。
 買い物の帰りに目に入ったのは、商店街を一本外れた路地に看板を出す、スナックの張り紙。窓がなく中は見えなかったが、茶色のドアに貼られたアルバイト募集の文字が、驚くほど達筆だった。面接に出向くと、オーナー兼ママがちひろを迎えた。暗い店で見る分には、三十代と言われても納得する風貌で、明るく染めた髪は金色に近い。店名の「ユウキ」は、ママの名前だった。店内は外観からは想像できないほど立派で、昭和モダンをイメージした重厚な内装に統一されていた。
 タイトなスーツを着たユウキママは、全てを長い指先だけで扱う人だった。お茶のグラスや名刺を差し出す時、ちひろの身分証明書を受け取る際も煙草を片手に持ったままで、灰が落ちそうで落ちない様子にヒヤヒヤした。
 ユウキママはちひろをその場で採用してくれたが、「ちょっと痩せすぎね」と、一度ソファの横に立たせて笑った。
「うちで稼いで、お客さんに美味しいもの食べさせてもらうといい」
 そう言われて仕方なく愛想笑いを見せると、ユウキママの赤い唇から呆れたように息が漏れた。全て見透かすような目が怖かった。ちひろは逃げるように、暗い店内からまだ日が沈む前の、慌ただしい街中へ飛び出した。
 西陽を左の頬に浴びながら、商店街を抜け、駅の反対側にある自分のアパートを目指した。暗くなる前にあの狭い部屋に帰りたかった。ちひろは夜が、どうしようもなく怖かった。

「ユウキ」には様々な人間が来た。それはレンタルビデオ店にしても変わらなかったが、やはりお酒を飲むと、性別も年齢も、社会的地位さえ関係なく面倒になるらしい。ちひろは未成年だったので、無理矢理飲まされることや、売上のために頑張る必要がなかった。そもそもユウキママはそんなことを強いるようなタイプのオーナーママではなかったが、元々働いている先輩たちは頑張り屋が多かったし、実際、「ユウキ」そのものも、とても繁盛していた。
 艶のある、長い黒髪が売りの紗理奈さんは浴びるようにお酒を飲むので、トイレで吐いているのをよく目にした。十九歳のちひろから見ても彼女はとても生き辛そうで、時々そばにいるのがしんどかった。美人なのに、それを感じさせない厄介さが滲み出ていた。そして実際に厄介だった。時給分だけを働き、無駄な時間を店で過ごしたくないと思っていたちひろにとって、紗理奈さんはいい女ではなかった。いい女と美人が、必ずしもイコールでないことを、初めて知った。
 しかし根本で、彼女を嫌いになれなかった。時々、いやしょっちゅう飲みすぎて粗相をし、ママを困らせ、後輩の自分が面倒を見なきゃならなくても、紗理奈さんをほっとく気にはならなかった。ちひろは自分よりダメな人を、支えていたかったのかもしれない。
「ちひろちゃん、悪いんだけど紗理奈送ってもらえる?今日はどうしてもお客様に付き合わなきゃいけなくて。タクシー代渡すから」
 ユウキママに言われて、酔っ払った紗理奈さんをタクシーで送り届けたことがある。
「ちーやんごめん、ごめんやでー」
 紗理奈さんは、ちひろから時々無意識に出る方言を気に入ったようで、酔うと真似をする癖があった。タクシーの中、右手を熱い左手で握られ、少しドキドキした。
 マンションの部屋に着くなり、紗理奈さんは靴も脱がずにキッチンへと直行した。鞄を預かっていたちひろはその後ろを追いかけ、途中で脱ぎ散らかされたハイヒールを回収する。なんとなく、その場で部屋全体を見渡した。ワンルームの自分の部屋とは比べものにならない広さだが、家具やカーテン、置いてある物の統一感のなさが気になった。
 冷蔵庫を開き、ちひろに背を向けた紗理奈さんが唐突に切り出す。
「あたし浅田さんが好きなんだけど、ちーやんどう思う?」
「浅田さん?ですか?」
 紗理奈さんの言う客の顔はすぐに思い出せた。最近通い出した客で、いつも高そうなスーツを着ている。酒癖も悪くなく、容姿がいいので女の子やママからも人気があった。
「イケメンですもんね」
「でしょ?かっこいいし紳士だし、言うことない」
 2リットルのペットボトルの水を、喉を鳴らしながら飲む紗理奈さんの頬はまだ赤かった。それは飲むと言うより、食道に直接流し込むと言った方が正しく、ペットボトルの側面がベコベコと大きな音を立てて凹んでいく。遮光カーテンの隙間から差し込む朝陽が、波打つ水の影を、床に落とした。
「ふたりきりでアフター誘ってもらった」
 そう言うと、再び水を飲み始める。「いいですね」と返したちひろの声は、その音にかき消された。
 紗理奈さんが、浅田とアフターに行った日から二、三ヶ月程度、彼女の機嫌はとても良かった。浅田と話している様子から、ふたりが関係を隠すつもりがないことも伝わった。ママの目を盗み、いちゃつくことも屡々だった。しかししばらくすると、紗理奈さんはぱったり出勤しなくなり、ユウキママは「調子悪いみたいね、ちょっと」と、言葉を濁した。
 二度目に訪れた時、紗理奈さんの部屋はさらに散らかり、猥雑さに拍車をかけていた。ちひろは、キッチンの引出しから見つけ出した45リットルのビニール袋に、ゴミらしきものを全て詰め込んで回り、最終的にはソファに寝転ぶ紗理奈さんの手から、ぐしゃぐしゃに丸まり湿ったティッシュの塊を奪った。
「ちーやん」
 紗理奈さんが半べそをかきながら、ちひろを呼ぶ。
「紗理奈さん」
 呼び返すと、また新しいティッシュを手に取り、盛大に泣き出す。
 浅田は、妻子がいることを隠していた。指輪はしていなかったし、家族の話も出たことがなかった。落ち着いてはいるが、独身でも違和感のない年齢に見え、モテるが故に身の振り方を決めかねている雰囲気さえあった。浅田はあろうことか初めから紗理奈さんと避妊をせず性交し、彼女を妊娠させた。「産みたい」と言ったところ、何も言わず笑い出したそうだ。
「死にたい」と紗理奈さんは言った。ついこの間まで、好きな男の子どもを産みたいと考えていた女が、今度は死にたがっている。
「紗理奈さんが死んだらお腹の子も死にますよ。産んでから死ぬつもりですか」
「ちーやんひどい…」
 実際は産むかどうかも決心がついていないようで、引きこもって現実逃避をしているらしい。
 紗里奈さんには悪いが、あの時避妊しなければ、ちひろも妊娠していたかもしれないと考えると、後悔する項目がまたひとつ増える。この世に、鳴沢と血を分け合った子どもが誕生し、生き続けるのだ。こんなに素晴らしいことは他にないように思えた。
 十八歳の高校生でも理解できる分別や、倫理的な行動を、妻や子どもがいる中年の男が分からないのはこの世の謎だ。薄いコンドーム一枚隔てずセックスする意味を、浅田はどう考えているのだろう。何故ここまで、射精一つの行為に個体差が生じるのだろうか。
「いっそのこと、あの人が死んでくれたらいいのに…」
 紗理奈さんの定まらない思考は、今度は好きな男をこの世から捨て去る方向へとシフトした。自分がお腹の子と一緒に死ぬよりは、そちらの方が痛くなくていいかもしれない。
 コンビニで買い込んだ差し入れを冷蔵庫にしまい、敷地内のゴミ捨て場に何袋かを出してから、ちひろは紗理奈さんのマンションを後にした。
 その日の夜ユウキに出勤すると、開店とほぼ同時に浅田が飲みにきた。目にかかるほど伸びた前髪から覗く、ぎらぎらと気色悪い瞳がちひろを追いかけていることに気付く。
「ちひろちゃんは飲まないの?」と白々しい質問を背中で受けた。「未成年なんで、まだ」と答えると、「真面目なんだね」なんて言うもんだから、思わず笑ってしまった。
「飲んだら真面目じゃないんですか?」
 ウィスキーロックを、浅田の山崎のボトルで作って出すと、サラダ油の中に浮いているように光る黒目が、少し泳ぐ。しっかり動揺するのがおかしかった。赤ちゃんを身ごもり、部屋に引きこもったまま出てこない紗理奈さんを思えば、目の前の男はその辺に転がる犬の糞となんら変わりはない。お客とはいえ会話を続ける気にもならず、放置するつもりで再び背中を向けた。
「紗理奈には言わないで」
 カウンター後ろの棚を整理し始めたちひろに、浅田は身勝手なセリフを投げた。恐らく、飲みに来たことを口止めしたいのだろう。開店すぐのこの時間は、ママも先輩たちも大抵出勤していない。鍵を渡されているちひろが留守番を任されることがほとんどだ。多分浅田はそれを知っていて、今日ここにやって来たに違いない。
「言わないですよ。めんどくさい」
 早く帰ってくれないだろうかと、今度は正面に立ち、ギラついた目を真っ直ぐに見た。空になりかけたロックグラスにウィスキーを注ごうと手を伸ばすと、その上に、黒く陽に焼けた手が重なる。
「ちひろちゃん、もしかして処女?」
「違いますよ」と、言いかけた。どんな気持ち悪い質問にも、客相手だと答えようとしてしまっていけない。いっそ全部を話し、浅田を気持ち悪がらせようかとも思った。「私とした男の子、死んじゃったんですよ」とか。
 だが一瞬迷って、すぐに言葉を飲んだ。昼間、「死んでくれたらいいのに…」と、紗理奈さんが言っていたのを思い出したのだ。
 この男が、もし死ぬなら。
「浅田さん、私としたいですか?」
 一度起きたことがもう一度起こるなら。もう何の価値を見出すこともない、二度と望むことはないと思っていたセックスという行為を、試してみたい。
「ちひろちゃん、俺としたいの?」
「したいですよ」

 ちょうど鳴沢と寝た日から、一年三ヶ月と十七日。一日たりとも数え忘れたことはないその日数の、あまりにも短く頼りのない期間を思いながら、ちひろは浅田の前で服を脱いだ。軽蔑の眼差しを向けながら、あっさりと自分に折れたちひろを、浅田は詰るような、嘲笑うような、気色の悪い目線で品評した。それまでにも幾度と、店の客に容姿を品定めされる瞬間には出会したが、こんなにも強烈に嫌悪を感じる目は初めてで、勝手に身体が震えた。身震いというのは、腹の底から湧き上がる嗚咽だ。思わず声が出そうになるのを必死に堪えた。
 鳴沢はあの時、どんな風にちひろに触れたのだったか。ちひろはどれくらい湿った手であの皮膚を掴み、どれだけ汗をかいたのか。あの乾燥した指と、自分の指を何分間絡ませたのだったか。
 盛り上がった浅田の背筋を触っても、鳴沢の、指が滑り落ちるような生やかな肌を蘇らせることは最後までできなかった。
 ああ、私は鳴沢が好きだった。鳴沢を、好きだった。
 ずっとそのことだけを考えて浅田の色んな部位に触れた。触れる必要などないのに、あの時と同じようにと努める自分がいた。もしちひろに特殊な力があって、それを強く発揮することが出来るならと、口の中に含むことも厭わなかった。鳴沢のものには、まるでおもちゃに触るように、ふざけながら手のひらで握ってみただけだったのに。
 浅田の身体は無臭で味がせず、ゴム人形を舐めているような感触がした。ちひろの想像では、生きている人間はもっとしょっぱいもののはずだった。
「俺、痩せてる子好きなんだよね」
 浅田はそう言って、ホテル備え付けのコンドームを、滑稽に天井を見上げる性器に装着した。こんな人間にも、学習能力があることに、心底驚く。
 身体は不思議なことに、すんなりと浅田を受け入れた。それなりの痛みを覚悟していたのに、ほとんど感じることがなく、その様子に浅田は更に興奮し、より強く腰を打ちつけた。自然と鳴沢のぎこちなさが思い出された。ちひろは、内臓が静かに痙攣するのを感じ、さっきよりも強く身震いを起こした。
 暗い天井を見上げながら、狭いアパートの、小さな引き出しにしまいこんだ靴下を思った。砂っぽい臭いは既に不快さも薄れているが、再び綺麗に洗われたとして、もう二度と持ち主に履かれることはない。それでも、道路脇に転がったあの日の鳴沢に駆け寄ることができるなら、左足にも靴下を履かせてやりたい。その時は、鳴沢の皮脂や匂いが流れることを恐れず、あの靴下を丁寧に、真っ白に洗ってやることができる。
 発見時、衝撃でローファーが脱げたせいか、鳴沢は左足だけが裸足だった。きっと靴擦れを気にして踵まで履いてなかったのだろう。しっかり履いていなかったから、運転が鈍ってよろけ、後方から来たトラックに巻き込まれたのではないだろうか。
 夏の終わり、田舎道の外気にさらされて冷えていく足先の感覚を、ちひろは何度も想像した。想像するべきだった。私は鳴沢の痛みを、全身で感じるべき人間だ。あの時。鳴沢が事故にあったあの日。あの足から靴下を脱がしたのは、他でもないこの私なのだ。

 紗理奈さんが仕事に復帰した時、ユウキママは「おかえり」としか言わなかったので、周りの人間もそれに従うまでだった。見た目に大きな変化はなかったが、紗理奈さんは晴れ晴れとした表情を隠さなかった。
 ちひろは自分の負の力を信じた。彼女を前向きに突き動かす何かが、きっと浅田の身に起きたはずだ。それは紗理奈さんの一言で確信に変わった。
「ちーやん、今日うちおいでよ」
 ママに口止めされていたのかもしれない。ちひろが更衣室横の物置に引っ込んだのを見計らい、静かに声をかけてきた。ちひろは声を出さず、首を振って返事をした。
 紗理奈さんの部屋は以前よりも片付き、物が少なくなっていた。彼女が嬉々として話し出した内容に、ちひろは純粋に驚いた。
 浅田は以前にも、勤める会社で部下を妊娠させ、中絶を強要し問題となっていた。相手の女性が今になって浅田を訴えたので、就いていた役職を下され地方へと左遷されることになったと言う。本妻とは現在、離婚調停中だそうだ。女性の心身を傷つけ、妻子への裏切り行為が明るみになっていながら、左遷で済むのがなんとも日本の企業らしい。
「浅田さん、東北について来ないかってあたしに言ってきたんだよ?」
 紗理奈さんは、最後に自分に縋ってきた浅田を見て、目を覚ましたと言った。同時に優越感も感じたようだ。
「なんか情けなくってさあ、何がそんなに良かったのか分かんなくなったんだよね。でもさ、妙に勝った気がして嬉しかった。」
 満足げに話しながら、お腹にそっと手を当てる。そういえば、店でもお酒を飲んでいなかったっけ。
「産むんですか?」
「うん。浅田さんを好きじゃなくっても、産みたいは変わらなかったんだよね」
「そういうもん、ですか?」
「そういうもんなのかもね」
 少し働いたら、紗理奈さんは埼玉の実家に戻るつもりだと言う。ユウキママが盛大に卒業パーティーを開くと提案してくれたようで、とても嬉しそうだった。
 紗理奈さんは、お母さんになるのだ。美しい黒髪を持つ、明るく屈託のないお母さんは、きっと産まれてくる子どもにとっても自慢に違いない。お腹に希望を宿した紗理奈さんは、今までよりずっといい女に見えたし、少々無責任に感じる決断にも、ちひろは満足した。あんなに簡単に断たれてしまう命を知っているからこそ、紗理奈さんの持つ軽率さがこの世界には必要だと感じた。いちいち深く考えていたら、子どもを産むことなど不可能だ。セックスに対する衝動が、憎しみ起因となりそうな今じゃ、そんな幸せを望むことも、ちひろには難しい。
 偶然に違いなくとも、浅田が地位と家族を同時に失い、地の底に沈んだことはちひろの生きる糧になった。もちろん誰にも言わなかったが、本当は不気味がられたって話したかった。また誰かを失う怖さに怯えるくらいなら、その恐怖を有効的に使おうと思った。
 きっと鳴沢が、それを望んでいるのだ。ちひろがひとり幸せに生きることを、彼は許せないのかもしれない。それでよかった。ちひろ自身、そんな幸せを自分に許すつもりもなかった。
 二十年そこらの人生では、愛などと言う見えないものを理解するのは難しい。鳴沢と付き合った期間は四ヶ月と少し、一緒に過ごした時間は全部でどれほどだったろう。正直言うと、愛情なんてものからは程遠かったに違いない。承認欲求や性欲、異性への興味、勉強からの逃避、同じコミュティに属する結束感、そういうものが掛け合わさった「好き」だった。だから鳴沢を思う時、その「好き」の身勝手さに押しつぶされた。鳴沢を思って苦しむ権利が、果たして自分にあるのか分からなかった。だがそれに反し、苦しまなければならない義務も感じていた。
 浅田に触れた時、鳴沢への好きが猛烈に溢れ出てくるのを感じた。何の迷いもなく、何の疑念もなく、鳴沢を好きだった自分を思い出した。それは今のちひろにとって、喜びに違いなかった。あまりに好きじゃない男に抱かれると、所在が不明になりそうだった「好き」が、これでもかと輝きを持つことを知ったのだ。ちひろは恐ろしいほどに、そのことに魅了された。
 浅田に抱かれた日、ちひろはアパートに帰り、腹がはち切れそうになるまで、コンビニで片っ端から買い込んだ食べ物を口にした。吐くことなく満腹感を味わったのは、鳴沢の事故の後、初めてだった。

 ちひろは誘ってくる男と見境なく寝るようになった。二十歳になりアルコールを飲めるようになると、さらにタガが外れ、性行為そのものに依存した。できるだけ、寝る男に嫌悪を持つよう心がけた。相手を嫌いであればあるほど、セックスは気持ちよかったし、鳴沢への意識が鮮明になった。まるで己の身体を悪魔に捧げるような行いによって、罪滅ぼしをしているのだと思うと、俯瞰で見る自分の姿に恍惚とした。
 妊娠だけはしないよう気をつけた。ちひろは誰のことも、この世に誕生させたくなどなかった。相手はもっぱら「ユウキ」に来る客だったが、特定の男と何度も会うことは避けた。
 金を渡そうとする男もいたが、ちひろは頑なに受け取らなかった。彼らとのセックスによってちひろに利益が生じる時、それは本来の目的を失うことになる。生活は決して豊かではなかったが、不便もしていなかったのは幸いだった。ちひろは淡々と、鳴沢への思いを確認する作業に没頭し続けた。気付くと体重が、5キロも増えていた。
 どこから漏れたのか、先輩たちの目が冷ややかになり始めた頃、ユウキママに話があると呼び出された。駅前の煙草が吸える喫茶店で、ママはまだ眠そうなノーメイクの目を色っぽくこちらに向けながら、ちひろの返答を待った。
「ちひろちゃん、最近太ったんじゃない?」
「はい、そうかもです」
 容姿のことで、摂生しろと注意を受けるのかと思ったが、ちひろは元々太るように言われていたし、不健康な痩せ方を脱せたことに自分でも満足していた。
「恋人でもできた?幸せ太りかしら?」
「いえ、特にそういうんじゃ」
 そこまで返して、ユウキママの言いたいことが分かった気がした。ちひろの男関係を探りたいのだ。
「好きでもない男と寝過ぎると、女は老けるわよ」
 ママらしい忠告の仕方だった。ユウキの客と寝ることは自重しなければならないと考えながら、ちひろは頷いた。
「はい」
「恋愛はいっぱいした方がいいけどね、無駄なセックスはお勧めしないわ」
「無駄なセックス…」
 ちひろにとってはどれも必要なセックスのはずだったが、女性としても人としても尊敬するユウキママにそう言われると、胸に来るものがあった。
 私は無駄なことをしているのだろうか。では、鳴沢としたことは無駄ではなかったのだろうか。あの日鳴沢がちひろの家に来なければ、彼が死ぬことはなかった。それが明確なだけに、ちひろはむしろ、無駄と思えることの方が正しいと感じるようになっていた。好きな人と繋がるという誰もが望むような当たり前のことを、私はもう一生望むことはできない。たかがセックスに意味などもたらせば最後、命取りになる。

 ママと話をした日から数日後、久しぶりに出勤したレンタルビデオ店で、笠井忍に出会った。しばらくシフトを入れていなかった間に入ったアルバイトで、年齢はちひろの一つ上、二十一歳の美大生だった。
「穂波さんも関西なん?」
 笠井は初めから馴れ馴れしく話しかけてくる男だった。同じ関西の出身だったが、ちひろは田舎の生まれだし、大阪の中心地で育ったという笠井の関西弁は、自分のとは少し違うように思えた。認めてしまうと、久しぶりに聞く地元の言葉が懐かしく、心が動いたのも嘘ではない。初めの数回は偶然シフトが被り、その後しばらくは顔を合わさなかった。
 ママがうまく話をしてくれたのか、店での振る舞いを慎んだせいか、先輩たちの目も穏やかになっていたし、ちひろは時々お腹の大きな紗理奈さんに会いに埼玉まで通った。何もない、平凡な日々が続いた。
 笠井がバイトのグループチャットから個人的に連絡をとってきたのは、出会ってから一ヶ月ほど過ぎた頃で、最初は何でもない、シフトを代わって欲しいという内容だった。それがだんだんと個人的な質問に発展し、最終的にはデートに誘われた。
 同年代の男子にそんな風に絡まれるのは久しぶりだった。ちひろは浮き足立つ自分の気持ちに気付いていながら、知らないふりをした。それが笠井への特別な好意からなのか、単なる異性交流への興味なのか判別できなかったからだ。笠井と連絡をとっている時、バイト先での数分の会話の間にも、ちひろは鳴沢のことを心に留め続けた。なんてことはない、鳴沢が私をコントロールし続けるのならば、それに従うまでだったからだ。
 初めてふたりで出かけた日は日曜だった。ユウキは定休日だったし、明るく陽の光が入る小洒落たカフェで改めて笠井と向き合うと、これまで寝てきた男たちとは何もかも違うことに圧倒された。中年の男たちが、二十歳の自分と寝たがるのを理解できた瞬間だった。
 時折、鳴沢のことが頭から抜け落ち、忘れ物が無いかを常に確認しているような焦りを覚えた。慌てて、綺麗に刈られた坊主頭を思い出す。目の前の笠井は、バイト先では無造作に縛っている長い髪を肩に垂らしており、日に焼けて真っ黒だった鳴沢とは違い、女のように色が白かった。それでいて、メニューやカフェラテのグラスを持つ指先は、茶色や黒の絵の具がこびりついたまま乾燥しており、ちひろをドキッとさせた。どんな絵を描くのだろうと興味が湧いたが、笠井を形作っている細かい部分が、ちひろの中にある鳴沢の記憶を塗りつぶすようで怖くなった。
「カッコつけてこんな店選んだけど、俺初めてやねんな。緊張してまうわ」
 指先の絵の具を爪で擦りながら、周りを見渡してそんなことを言うので、「そうなの?」と、思ったより大きな声が出た。当たり前のように、何度も女の子と来ている店に連れてこられたと、思い込んでいたからだ。
「そうやで。そんなびっくりせんでも」
 笠井は上の歯茎まで、しっかり見える笑い方をする男だった。ちひろはそこを舐めたらどんな味がするだろうかと考えて、また怖くなり、慌ててアイスティーのストローを口に咥えた。飲み込む際にクッと音が鳴るほど、喉が乾燥していた。
 笠井はとにかく馴れ馴れしさと不器用さを交互に差し出してくるタイプで、ちひろはどちらを受け取るべきか迷って頭がこんがらがった。話し足りずカフェの後に入ったファミレスで、「穂波さんは猫みたいやんな」と言いながら、その場にあったナプキンに、お客様アンケート用のペンを使って、かわいい猫のイラストを描いた。少しそっぽを向き、生意気そうな感じのする猫が、白いナプキンの端で寝転がっている。
 付き合ってすぐの頃、鳴沢が犬のキーホルダーをくれたことがある。「このくりくりした目がちひろみたいなんよー」と、照れ臭そうに話していた。
 ちひろは笠井が描いてくれた猫を眺めながら、しばらく黙った。あの日を境に、私は犬から猫になってしまったらしいと思うと、とてつもなく寂しかった。何もかもが変わってしまった。何もかもが。
「ごめん、ネコ嫌いやった?」
「ううん」
 必死で涙を堪えて首を横に振った。
「かわいいよ」と言うと、笠井はまた歯茎をたくさん見せて笑った。
 笠井とは、その後も二度ほど連れ立って出かけた。大学の先輩が催している個展を観に行ったり、彼の通う大学の食堂でランチを食べたりした。とてつもなく大きな絵を描いている先輩は、笠井のことを「ぶっちゃん」と呼び、彼を見つけるなり大きな手を差し出して握手をした。当然隣にいるちひろの手も同じように握ったが、あまりに先輩の力が強く、ちひろは身体ごと上下にシェイクされた。
 食堂で顔を合わせた学生たちも、笠井のことを「ぶっちゃん」と呼んだ。「しのぶが何でぶっちゃんになんねやろなあ」と、笠井は首を傾げながらも嬉しそうだった。
 笠井忍は、ちひろが知らず知らず避けてきた世界の住人だった。笠井が恐ろしいほどその場に馴染んでいるのを見て、また、自分があまりにも浮いているのを感じて、ちひろは久しぶりに吐き気を催した。逃げなければならないと気付いた途端、自分が笠井に惚れているのだと知った。仲間に「ぶっちゃん」と呼ばれる笠井が眩しくて、彼らを見ている間、息を吐き出すのを忘れていたほどだ。
「帰るね」と立ち上がったちひろを、笠井は止めなかった。食堂の出口まで見送りながら、「ごめんな。嫌やった?こんな学生臭いところ来たなかったよな?」と、情けない声を出した。ちひろは、「そうじゃない」と叫び出したい気持ちを抑えて、言った。
「ぶっちゃんって、何かダサい」
 それはあだ名に対する文句だったのか、笠井自身に対する批判だったのか、ちひろもよく分からなかった。口からついて出た精一杯の嫌味は、憎たらしいほどかっこ悪かったに違いない。つまり、ダサいことをする以外に、笠井から離れる方法が思いつかなかったのだ。
同じ頃、卒業後も地元に残った親友の彩花が、ちひろを探していることを知った。母からそのことを知らせる短い留守電が残っていた。東京に出てくる費用を出してもらった以上、アパートの住所を両親に隠せるわけもなく、彩花が訪ねてくるのも時間の問題だった。もちろん親友には感謝していたが、できるならば鳴沢に近しい人間からは遠ざかっていたかった。ちひろは、鳴沢に纏わる全ての事柄を、前に進ませたくなかった。
 どちらのバイトも休みをもらい、ちひろは埼玉の紗理奈さんの実家にお世話になった。数週間もすれば、彩花も諦めて地元に帰るに違いない。引っ越しも視野に入れようと考え始めていた。
 途中一度だけ、荷物を取りにアパートへ帰った。そのついでにユウキへ寄り、開店準備をするママからお給料を受け取った。軽く雑談をした後、紗理奈さんへの差し入れを預かり上機嫌で店の外へ出た。その時、不意に目をやった商店街の角を、勢いよく曲がってくる彩花が見えた。もう二年近く顔を合わせていなかったが、凛々しく整った顔立ちはそのままで、一瞬で葬式の日の力強い腕の感触を思い出していた。ちひろは思わず反対方向へ走り出した。手に持った紙袋を抱え、姿を隠せる次の路地を目掛けて突っ走った。が、背中でしっかりと、「ちひろ!」という力強い声を受けた。
 
 久しぶりの出勤日、珍しく店の鍵がかかっておらず、ドアを開きながら「ママー?」と呼びかけると、面接に来た日を再現するように、ユウキママが真ん中のテーブル席に腰掛けていた。
「あれ、誰か面接に来るんですか?」と問うと、「ちひろちゃん、座りなさい」と低い声が響く。扉を閉め、息を止めながら恐る恐るエンジ色のソファに腰を下ろした。思ったよりも深く沈み込み、止めていた息が漏れる。
「もうすぐ三浦彩花さんが来るわ」
「えっ」
「逃げてもだめだからね」
 まさかママの口から彩花の名前が出るとは思ってもみなかったが、一週間ほど前の、ちひろを呼ぶ声が思い出された。あの時、ちひろがこの店から出てきたと分かったのだろう。今度は逃げられない。諦めと同時に、味わったことのない緊張で手足が痺れた。
 彩花はここに来て何を話すのだろう。ちひろが地元に帰らないこと、鳴沢の家を尋ねないこと、まるで何もかもなかったように生きていることを、責めるのだろうか。
 数分後に店のドアが開き、まだ明るい外の世界から、彩花がそっと店内に入ってきた。立ち上がったちひろに、彩花が「元気?」と声をかける。かろうじて頷くと、「よかった」と手に下げていた紙袋を差し出す。
「ちひろ、好きやったやろ?」
 学生時代、何処でも買えるその地元の名産品で、ちひろはよく小腹を満たした。餡子がたっぷり詰まっているのがお気に入りだったが、彩花や鳴沢は、おばあちゃんみたいだと笑ってバカにした。
「うん、ありがとう」
 彩花はちひろの向かい側に座った。なかなか親友の顔を見ることができず、思わず隣のママに目をやる。アイラインは濃く、眉毛のアーチがくっきりと描かれている。ふたりが並ぶと、化粧っ気のない彩花がまるで子どものように見えた。ちひろが縋るように見ていたせいか、ママはすぐに立ち上がり、「買い出ししてくるね」と店を出て行く。突然ふたりきりにされ、ちひろは何と切り出せばいいかわからず、「よく分かったね」と言うと、彩花は「うん結構大変やった」と言って笑った。
 ちひろに会いに来た理由を、彩花がなかなか告げないので、焦ったさでじっとしているのが辛かった。胃の中の物が食道を上がってくる感覚に襲われる。
「判決が出た」
 居た堪れなさに立ちあがろうとした時、彩花がそれだけを言葉にした。鈍器で殴られたように後頭部が痙攣する。四方を壁に囲まれ、逃げ道を封じられた思考の行き先を見つけられず、何故か頭皮から汗が吹き出してくる。
 鳴沢は、自転車にライトをつけていなかった。彼をトラックで轢き逃げし放置した犯人は、一度帰宅した後自ら警察に名乗り出た。しかし鳴沢のライト無点灯を切り札に減刑を要求し、ずっと裁判がこじれていたのだ。その判決がやっと出たと、彩花は言っている。
「そっか、」
 かろうじて出た言葉はそれだけだった。知りたい気持ちと、何も知りたくない気持ちが交互にちひろの体力をかっさらっていった。何がどうなろうと、鳴沢は死んだのだ。
「ちひろ、知りたないん?」
「知りたくない」
 間髪を入れず答える。座っていられずソファから立ち上がった。彩花が視界に入るのが嫌だった。
「何も知りたないから、ここにおるんよ」
 久しぶりに思い出した地元のイントネーション。まだ自分の中に残っていることに驚いた。鳴沢を思い出すから使わないようにしていた。笠井に出会った時、懐かしさと同時に、ほんの少しの違いに安堵した。
「ちひろは苦しそうや」
 彩花の呆れた声が、情けないちひろの背中に投げかけられる。顔を見なくても分かる。彩花の凛々しく真っ直ぐな目が、ちひろを責めている。
「ママさんが言ってた。ちひろはずっと、自分を恨んでるって」
 何が分かると言うのだ。何も知らないだろうと、単純に腹が立った。ずいぶんお世話になってきたが、それとこれとは違った。しかし悔しいことに、ママの言うことが的を射ているのも確かだ。
「だったら誰を恨むん?私が自分を責めんかったら、誰が責めてくれるん?」
 決めたのだ。あの日の深夜、鳴沢の訃報を聞いてから、私は自分を一生責め続けようと決めた。
「あいつやろ!鳴沢を轢いて放置したあの男やん!決まってるやろ!」
 彩花が当たり前のことを言うので、ちひろは振り返って彼女を睨んだ。そんなことで自分を許せるのなら、とっくのとうにそうしている。
「いや違う。あのトラックの運転手を恨んだところで、私は自分を許せへん。自分が悪いって分かってるのに他人に押し付けても、何も解決しんもん!」
「ちひろは悪ないやろ…」
 彩花が立ち上がり、いつかのようにちひろの腕を強く掴んでくる。
「鳴沢は、靴をちゃんと履いてへんかった。私が靴下を片方どっかやってしまって。裸足やから靴擦れ気にして、ローファーをちゃんと履いてなかったんよ。彩花知らんやろ?」
 ちひろが言うと、彩花の顔が歪むのが分かった。正面から見ずとも斜め後ろで筋肉の動く気配がしたのだ。
「鳴沢は私とヤって、それで死んだ」
 彩花がふっと息を吐き、掴んでいたちひろの腕を離す。ジンジンと指の跡が痛んだ。
「どうせフラフラ運転しとったんやろ?靴も中途半端にしか履いてへんかったから、トラック来た時によろけたんちゃうの」
 自分でも薄情だと思うほど冷たい声が出ていた。言い終わったと同時に、彩花の強い手のひらで肩を押された。思わず彼女を見ると、すごい剣幕で腕を振り上げ、ちひろが両手で止めてもなお、ちひろの身体を殴り続けた。
「ちひろは、ほんまっ!ほんまに!」
 拳になっていないような手が、ぶつけられる度にちひろの着ている服を引っ張っていく。その度にふたりの距離は縮むが、あまりの気迫にちひろは後ずさった。
「何よ!?痛い!なに?!」
 彩花は今にも溢れそうな涙を堪え、ちひろを睨んでいる。
「鳴沢は、歩いてたって。走ってなかったって!自転車降りて押してたんよ。なのに、トラックの奴はそれを見とって鳴沢に突っ込んだ。ライトついてなかったとか何だとか言ってたけど、後からそれが分かったから…」
 喋りながらちひろの身体は、なお彩花の強い手でぐぐぐっと押され続けた。初めて聞いた話だった。詳しい事情を知っている両親からもその話は出なかった。ちひろが地元を離れた後に明らかになったことかもしれない。
 ちひろは喉で突っかかり掠れる声を、なんとか絞り出した。
「…わかったから?」
「あいつは一年八ヶ月刑務所に入る」
 おばさんたちが鳴沢のために勝ち取った刑期は、あまりにも短かった。

 久しぶりに降り立った地元は、あの日と同じ季節を迎えていた。間もなく二年が経とうとしている。遮るものがなく、少し歩くだけでジリジリと肌が焼ける感覚は久しぶりだった。だが秋が近付いていて、朝晩はしっかり冷える。
 両親は突然帰ってきたちひろを見て、驚いた顔もせず「おかえり」と言った。娘が帰ってくる日を想定して、前から決めていたような反応だった。
 笠井から何度か着信があった。出なかったけれど、ここに帰ってくる気にさせたのは彩花の説得だけではなく、笠井の存在も影響していた。ちひろは笠井が好きだった。何も考えず、恐れずに笠井に触れたいと望んでいる自分に気付いていた。
 一年半ぶりに横になった小さなベッドで、ひとしきり泣いた。黄ばんだ靴下をジップロックごと握りながら、鳴沢の坊主の感触を何度も何度も思い返した。鳴沢は学校の人気者だったけれど、彼がいなくなっても時は同じように流れた。だんだんと記憶が不鮮明になっていくことを恐れ、ちひろは何もしなくなった。学校生活を放棄し、このベッドの上でひたすら鳴沢のことだけを考えた。事故のこと、運転手のことはどうでも良かった。ちひろには、鳴沢がいたことだけが全てだった。
 実家に帰ってきてからも、鳴沢の家を訪ねるまでにニ週間を要した。一日中眠っていると、時々母親がベッドに入ってきて横で眠ることがあった。ふと目を覚ますと、自分によく似た中年のおばさんが隣で寝息を立てていて、驚くと同時にとてつもなくホッとした。母親が眠りながら泣いていることがあって、そんな時は鳴沢のお母さんのことを考えた。鳴沢はお母さんによく似ていた。今でも毎晩泣くのだろうか。息子を轢き逃げた男と闘いながら、毎日泣いて眠るのだろうか。想像すると、自分のあまりにも身勝手な悲しみ方に叫びたくなる。
 鳴沢の家を訪ねる前に、母が電話をかけた。短いやり取りだったが、固い繋がりを感じさせる雰囲気は、ちひろ無しで築いた関係性を物語っている。

 ジップロックから出した靴下を片手に握りながら、チャイムを押す指は震えた。震えながら、使命感に燃えていた。鳴沢が、どうして自転車を降りて押していたのか。今ならおばさんに説明してあげられる気がした。ちひろがあの日の夜に感じた高揚感を、彼も共有していたなら。いや、きっとそうだったと信じたい。
 扉が開き、影から覗いたおばさんの顔を見て、安堵する自分がいた。自分勝手だと分かっていながら、ちひろはその気持ちを隠さなかった。わずかばかりの筋肉を使って笑うと、おばさんも同じように笑ってくれた。
 二年は長いようで、懐かしさを感じるにはまだ足りなく、ただ何かが大きく変わるには十分すぎる時間だった。
「ちひろちゃん、久しぶりやねえ」
 優しい声にまた泣いた。この二週間、絞るように泣いていたのに、まだ出るかと自分の身体を恨んだ。涙が流れる度、脈打つように鈍い痛みが後頭部に走る。
「遅くなってすみません」
 何とか絞り出した声を、確かに届けようともう一度出した。
「遅くなって、ほんっまにごめんなさい」
 おばさんはちひろの肩を細い腕で抱いた。鳴沢が抱かれた腕に顔を埋め、ちひろは声が枯れるまで、謝り続けた。

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