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多言語話者の「頭の中の教科書」1

私はとにかく多言語話者の学びの型を言語化したい。その学びの型が英会話に苦戦する日本人を救うと思うからだ。

その型には「国」や「文化」などを感じない「共通の何か」があるのだ。それは彼らがそれぞれの国で受けた教育に根ざしているのだと推測しているが、イタリア人でもフランス人でも国は関係なく皆同じ「型」を見せる。日本人にも「型」はある。例えば、レッスンが始まる数秒前の振る舞い。筆記用具を持ち座るまでの所作まで皆似ている。恭しく何かを待っている感じなのだ。おそらく「教わるのを待ってる」のだと思う。彼らから言葉を発することはまずない。あるとすれば「よろしくお願いします」。気を悪くしないでほしい。悪口ではない。客観的な観察眼で見た事実だ。そしてこれは日本文化では当たり前のことなのだから、仕方がない。
でも、多言語話者は日本語レッスンの冒頭からまず「話そうとする」。
英語でではない。日本語でだ。

今年の冬から私は新しいレッスンを始めた。オーストリア人の女性で母国語はドイツ語。他には英語、フランス語に堪能。スペイン語も中国語も少しできるそうだ。
彼女は私にとって3人目のオーストリア人だ。ドイツ人ほどたくさんの経験値がない。オーストリアのことはまだ深くは知らない。でも、彼女の学び方はやっぱり全く同じなのだ。私が今までレッスンしてきた多言語話者の学びと。彼女の一挙手一投足に既視感があり、(そうそう、こう来るわよね)とある意味での阿吽の呼吸感さえある。彼らの学びを一言で言うと「常に話そうとする」のである。日本人でも一定数、そう言うことをやってみようとする、典型的な日本人の学びの型を脱皮して話すことに飛び込もうとする、そう言うことができる人もいる。しかし、その時点でもまず大きな違いがある。多言語話者の「話そうとする」は実はかなり戦略的で理に適っている。日本人は思い浮かぶことを整理せずに無計画に「話そうとしている」ように見える。

私がドイツ語初級後半から中級前半でスピーキングを鍛えようととにかく話そうとしていた時、まさにこう言う状態だった。だから伸び悩んだのだと今ならわかる。戦略性が足りなかった。「思いつくままに話そうとする」のは二重の意味でよくなかった。(二重の意味は、後日説明する)この戦略性を多言語話者の彼らはほぼ無意識でやっている。それだけ「学びの型」が成熟しているからだろうと思う。最初はこう言うものだという暗黙の了解レベルの「何か」がある。。

英語を学ぶ日本人と日本語を学ぶ多言語話者の大きな違いはまず、
「質問の戦略性」だ。日本人は「知らないことをなんでも質問する」印象だ。
これに対して多言語話者は「質問を取捨選択する」のだ。知らないことを聞くのが質問だろう、何が悪い?と思うかもしれない。でも、考えてみてほしい。知らないことを聞くのは「知る」ためではないか。多言語話者がそれをしないのは「話す」ために学んでいるからだ。だから優先順位が明確なのだ。まずは基本的な語彙、内容をできるだけ簡潔に言うことを目指す。10語を学んだら、10語を話す感じだ。先生の言ったことをrepeat after me ではない。自分の頭の中にある「なにか」と日本語を頭と体を使って「言えるようになるまで言う」のだ。

言えるようになるまで言う、その途中は不格好だ。日本人はこの工程を恥ずかしいと思うだろう。あるいは失敗、努力が足りないと思うだろうか。最初はうまく言えないのは当たり前。多言語話者のそこへの集中力は綺麗な音で楽器を奏でるようになるまで、スポーツである特定の動きがスムーズにできるようになるまで繰り返し練習する工程に似ている。そこにつなげているのは教科書の例文ではない。自分の頭の中にある、「自分のいいたいこと」だ。


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