経歴1 幼少から中学まで

 私という精神が、どのように形成されたのか、整理したくてここにエピソードと、それのもつ意味とについて書いてみたい。


幼年期〜殻を形成する〜

まね

 大人のまねをする子供だった。幼い頃の断片的な記憶はいくつかある。
 どこかからの帰り道、母の手を握って歩いていた。そのとき「自分は長男だから、家(土地)を継ぐ」のようなことを言ったエピソードである。当時の私に継ぐという感覚があったのではない。そういう知識だけがあっただけで、大人が言うようにそう言ったまでで、それが意味するところは分かっていなかった。⸺のちに母から聞いた話だと、両親が離婚したらどうする? という問いがその手前にあったらしい。だから先の理由ののちに「父についていく」と返答したらしい。
 ただの大人のまねをしただけのことだったが、このエピソードはその後の私の来歴に、ひとつの象徴的エピソードとして意味をもつ。

その他のエピソード

 幼少期の記憶は断片的だ。思い出せるのは保育園で、高竹馬にのるための台から飛び降りて、脚を骨折したときのことくらいか。たしか運動会かなにかだった気がする。障害物競争でその台から飛び降りたのだったが、そのときの記憶はない。病院へ運ぶ車のなかで、助手席に座り、折れた脚が車の振動のたびに痛むのを眺めていた記憶。
 また、母がつぎの子をお腹に抱えたとき、保育園を出る道を歩きながら私が「名前はあすかがいい」と提案している記憶だ。「あすかはもう〇〇さんちにいるでしょ」と言われたあたりまで記憶している。
 また、そのときの妹が生まれてのち、母乳が多かった母が家の裏で乳を搾って捨てている光景と(記憶では母乳をざるに受けながらだったが、なぜその作業があるのかはわからない)、余った乳を姉と私ふたりでコップに受け飲んでみている記憶。味は覚えてないがおいしいとは思わなかったことだけ記憶している。

ひな人形

 もうひとつ保育園での記憶がある。園児でひな人形をつくった記憶である。それはジュースの瓶に折り紙の着物を巻いて折り紙か紙粘土あたりで顔を作るというものだった。製作中のことは覚えていないが、出来上がったみんなのひな人形を前に、迎えに来た母へ保育士のかたが私の作品を褒めている光景だけ覚えている。そのシーンは保育士の言葉まで覚えていて、「ご両親をよく観察しているんですね。みんな同じ瓶でおひなさまとお内裏さまを作っているのに、彼は大きいローヤルトップの瓶をお内裏さまに、細くて小さいオロナミンCの瓶でおひなさまを作ったんですよ」と言っているのだった。この記憶が私に重要な意味をもって現れるのは、それは両親の外観を観察したものではないということだった。大きさに変化をもたせたのは、家族のヒエラルキーの頂点に父がいるという観念からだった。たしかローヤルトップのほうが背がオロナミンCより高いのだが、両親のどちらが背が高かったかは判然としない。
 あとは、みな教えられたとおりに折り紙の角を裾にしてきれいに瓶に巻いていたが、私はそれがうまく理解できずに四角の1辺が裾に来るように作ってしまい、そのため裾が余り床に届いてしまうので、クシャクシャと皺をつけて間に合わせたのだったが、保育士には妙に感心することだったらしく「たしかに長い着物の裾はこうなりますよね。彼はなかなか芸術的かもしれない」みたいなことを言っていた記憶がある。ただ、これは自分が意図しないことで褒められており、そこに言及されたのが恥ずかしかったという記憶だった。と同時に、その保育士が懐いた私への芸術性の印象を守らなければいけないという妙な恐怖心もまた芽生えてくるのだった。

パトカー

 これは些細なエピソードだ。保育園の送り迎えは母が原付に私とのちに妹とを乗せた。私は母の脚に挟まれて蹲り、妹はたぶん母に背負われていた。間近に見えるアスファルトの動きが楽しかった記憶がある。
 あるときの帰り、保育園の駐車場でいつものように母の脚のあいだに乗り込むときだった。道の向こうから一台のパトカーの影が見えた。私は原付を咄嗟に降りていた。パトカーが通り過ぎると母は「何してるの、大丈夫よ」と笑った。

少年期〜煩悶〜

小学の記憶

 小学校の記憶はびっくりするほど今ではなくなっていて、ただ、5学年頃に「なんだか、学年ごとに1年の長さが違う」と友人に話している記憶だけある。
 記憶はないと言ったが、書いていると思いだしてくるいくつかのことがないでもない。
 それも小学5、6年だったか、地区をバイパスする道路が山手のほうにでき始めていた。集落を代表する川の流れるその頭上に大きな橋が掛けられようとしていて、友人の父と友人もいっしょにその建設途中の橋を眺めに行った。
 そこは私の家からは近く、友達とよく遊んだ場所でもあった。あるときかくれんぼをして私が鬼になったとき、十数えて「もういいかい」と投げかけるけど、返事は一向になかった。目を閉じたまま何度か声を発したものの、やはり返す声は聞かれなかった。堪らなくなって目を開けると、だだっ広いなかに私ひとりがいて、友だちを探したが友人はひとりも見つからず、心細くなって「もう帰るよ」と数回叫んで、それでも声が返ってこないため、泣きながら帰った。

現実違和

 そういえば、体育の授業だとか、朝礼のラジオ体操だとかしているときに奇妙な感覚に襲われることがあった。
 校庭いっぱいに距離をとって体操をしていると、今見えている先生や生徒が、また聴こえているラジオ体操の音声が、ほんとは私ひとりの幻覚で、ほんとうの彼らは教室にいて、ひとり妙なことをしている自分を指差して笑っているのではないか、という感覚だった。そのとき私はその場から逃げたいような羞恥心を覚えていたが、同時に幻覚かもしれない彼らは本当は本当にいるのかもしれないとも思っていて、逃げさることこそが羞恥的行為であるために、そこを逃げることもできずに体操し続けざるを得なかった。のちに現実とは何かと考えるようになるのだが、このエピソードはその最初期の感覚だったのかも知れない。

タナトフォビア

 現実の不確かさというテーマがはっきりと意識されるには、高校時代まで待つことになるが、すでに私は現実へのアクセスに悩みはじめていた。それはタナトフォビアという形で現れてくる。
 死に対する恐怖。この不安に襲われたのは私自身の記憶では小学校低学年ごろだが、時期は不確かなものだ。人は死ぬとこの意識はどこへ行くのか、と考えたとき、天国とか地獄とかいったものを想定してみるのだが、とても生きている者の願望以上には感じられなかった。第一、天国と地獄に行き先が違うのなら、私が友人や家族として親しみを覚える彼らと別離することになるのだから、天国もまた寂しいところに違いなかった。あるいは、個別に用意された寸分違わぬ友人の似姿がそこに待っていて、私を迎えてくれるのかも知れない。それはそれで恐ろしかった。私は再会に喜び、いつまでもそれを似姿とは気づかず天国に飼われるということだと思った。今いる親しい人たちといっしょに行くのでない天国の何が天国だろう。私はこの死後の生という考えを捨てるしかなかった。
 では、無があるのだろうかと、無を想像してみた。そこは何もない宇宙空間のようなものだと初めは考えた。この星はおろかガスもない空間に孤独のまま投げ出されてみた。私は救いを求め、その中を藻掻いてみるのだが、藻掻くうちに藻掻ける体のあることに気が付かずにはいられなかった。体は死とともに失われたはずのものだった。この不備を改定して、体をもたない意識体を次に想定するのだったが、そこに意識を想定している自分に気づくのに時間はかからなかった。意識も消す。無に入るのではない、無なのだ。まだ空間がある、宇宙空間を例にとったための不備だ、これも消す。ただ時間にだけは気づかなったらしい。私は体を失い欲望する意識を失い、恐怖に陥ったり救いを求めることすら失って、ただ永遠の無とひとつになった。その感覚を一瞬だけ観想できたがすぐに引き戻された。完全な無を想定することは難しく、思念する現実の私によって引き戻されてしまうのだった。しかし、一瞬垣間見たその無は、欲望すら失ったために脱出を試みない、試みる主体がない。それは底抜けの恐怖を生きる私に与えた。だれもがあれになるのだ、と思い、夜な夜な与えられた子供部屋でひとり泣くしかなかった。
 死後の生を含む「そのように捉えている」世界の不確実性について考え始めるもっとも強い不確実が死後への不安だったように思う。タナトフォビアはその後も私の問題系の大きな課題のひとつとなっていく。

型、殻の存在

 型は安心を与えてくれる。ひとは不安に耐えられない。私はすでに他人によって「君はこういう人だ」と規定されていた⸺それは言いすぎかも知れない、私は自分がそう見られていると感じていた、というのが正確か。他人が私に期待するものが見え、私はそれを踏み外さないよう、注意深く振る舞うのだった。
 のちに芥川龍之介の作品に嵌まる。なかでも私を代弁してくれたのは『或阿呆の一生』に描かれた「結婚」という項目だ。

彼は結婚した翌日に「来匆々無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詑わびを言つてゐた。彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……

芥川龍之介『或阿呆の一生』より

 私が恐れているのはこの居た堪れない黄水仙に外ならなかった。それは小学時にはあったのだ。私は他人に着せられた私というキャラクタを破壊したとき、人々の目がどんな怪訝なものに変わってしまうのか、それにどう振る舞えばいいのか、打つ手はなかった。
 私は型に自ら嵌まるようにうごいた。小学生のときはまだよかった。が、中学に上がると内面からくる欲動と仮面とのあいだに均衡を保つことは難しくなり始めていた。しだいに息苦しさを感じるようになるのだった。
 ただ、そのなかで私を助けたのは盆踊りや獅子舞といった地域行事への参加だった。そこにも型があったが、型は解釈によって少しずつ変形することができたし、最低限の型さえ守られていれば、だれもそれを止めはしなかった。型を突破しないまま自由であれる場が私の祭の意味だった。解釈によって変容する私の踊りは衆目に晒され、にも拘わらず人々は私を賞賛してくれる。

赤面症

 私が在学したころ小学校は60余名だった。私らが卒業した次年度から複式学級制となる。私含め同級が8名、どの学年もそのくらいだった。中学では120名に同学年は膨れ上がることになる。
 先述した通り、型を必要とする人間だったので、これまでの交友関係も変質していった。毎日のように遊んだ友人もそのときから遠くなる。それぞれがそれぞれの新しい友人関係を構築していったが、なんとなく変わってしまう関係というのが、これまで経験がなく、奇妙に感じられた。大勢のまえで小学を同じくする者と話すことに、なぜか気恥ずかしさもあった。
 このときから、視線というものに意識的になったのだろう。小学時、私たちを見るものは教師やそれぞれの親といった大人以外なかった。中学にあがると同じ歳の多数の目によって、これまでの交流を難しくするらしかった。他者の目によって、私の意識に他者のいやらしい笑みが向けられている感覚をもつようになった。いつか私は注目される場が怖くなっていくのだった。
 また、性に目覚めてくるこの時期、性的情動を開示するのが難しく、これも内に閉じられた。性について話す機会はこれまでになく、よって開示は私のキャラを変質してしまう感覚があった。鬱屈した性は出口を求めて私の内面で流動し、性的と結びつく事象を外界から見つけようとしていた。この性的イメージをもつとき、バレてはいけないという感じがしていた。するとこのバレてはいけないイメージが他者に覗かれているような感覚を伴いはじめた。統合失調症の症状にある思考伝播と似ている。
 こうした内的現象によって、教室の無関係な笑いも、自分が笑われているように感じられるようになった。そのため、たびたび赤面し、赤面は注目を集めるに違いなく、それは解釈されて笑いの対象となるだろう。性的な、あるいは恋愛的な話題が授業中に発生すると、たちまち顔が熱くなるので、私は性的な話題を避けるようになった。しかし、そのしぐさは性的な自分を閉じ込めることにもなるのだった。
 内的世界と外界とのあいだに接点をもたない状態が生じてくる。と、私はなにか異様な存在であるように思われてくるのだった。
 家では、母は私の判断を待つより安全で手堅い(と母は思っている)判断を先回りして私に施す状況があった。私の判断が介在しない母の指示するまま行動することは、中学時になると苦しみを覚えるものに変わっていった。
 家族で外食するのが怖かった。他人の中で家族といることが恥ずかしかったのと、家族という幻想が簡単に壊れてしまうのではないかという妄想によって、なにか私たちが異様な、憐れな、見すぼらしく醜い、とても弱いもののように思えてくるのだった。とても小さな家族という幻想をもつたかだか5、6人からなる少数である、という意識があった。
 この奇妙な怯えは、家族にばかり覚えるとは限らなかった。道端でアイスを売っている高齢のおばちゃんと、それを買い求めているおじいちゃんと孫のある光景は、あまりに無防備に外気に晒されていながら安心していた。そこにオートバイが突っ込んでいくイメージが何度も私を襲って、肩を強張らせた。
 世界は不条理に事件を生じ、ルールとか秩序といった幻想のなかで生きる私たちの、そのルールを秩序を破壊してしまう。当時の私はルールを守ろうとしたいたので、これが脆く軽く破壊できる可能性に怯えていたのだ。
 私ひとりいるのはよかった。自己を認識せず他者の視点が消失するので、そういう恐怖は起きにくいのだが、私であったり誰かにとって意味をもつ、例えば家族なんかが他者と接触し得る環境に置かれるとき、その見えている家族が無惨に破壊される様を想像させた。母の先回りも、おそらくこうした外界の襲撃に対する自己の延長、役割期待を投影する対象の保護であったのだろうと思う。
 襲撃的イメージは、私自身の破壊衝動を外界に転嫁したものでもあったろう。私はその瞬間が顕現することを恐れたが、同時に本当の世界を見せてくれるのかもしれないという希望もまた懐いていたように思う。それが私自身によってでなく、外界によって齎されることは意味のある防衛機制だ。

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