自己選択感

ひとに自由意志のありやなきやは必ずしも重要な問題ではなく、私がこれを選んだのだと信じれることが生存をつよくする。

ちかごろ、戦後開拓のことを折りにふれ調べるが、彼らはまったく時代の動乱に振り回された人々という気がする。満州開拓に始まり、なかには籤引で抽選された人々が入植したという。日本の躍進、西洋列強からの脅威への対抗として奮起したのもつかの間、終戦を迎えてある者は抑留され、ある者は路頭に迷いまた野垂れ死に、ある者は日本に帰国していった。

戦後の食糧難克服と、引き揚げ者に職を提供するため、国は国内の余剰の土地を買い上げ、これを農地開拓にあてて入植者を募集する。

それはこれまで開拓されなかった土地であり、農地としての資質を必ずしも有している土地とはいえず、むしろ困難ある土地ではあった。

それでも、引き揚げてきた者としては帰ってはみたが土地もなく、金もなく、よしんば金はあってもそれが食にかわるわけでもなかったし、なにより自分の農地がほしかった。条件の悪い土地だとしても、それでもやはりほしかったのだ。

私がしらべたのは私の住む地域にある開拓地であって、ここの事情がほかにも当たるかといわれれば分からないのだが、ある一端であるくらいのことはいえる。

もともとは山仕事につかわれていた土地ではあったらしいが、住むというにはまともに道もないような土地だったというから、一から自分たちで作っていった地区だった。最初の入植者などは放棄された炭窯に潜って雨露を凌いだともいう。満州帰りの男たちはそれでも逞しいもので、ここに家を建てようあそこを開いて果樹を植えようと、目の前の原野に野心を具体化していった。

そんな土地だったから、もちろん水道もなく、電気など通っているはずもない。水は谷川から調達し、灯りは灯油ランプによった。山から見下ろせば昔からの集落に、水道も電灯もあるような状況である。羨ましくもありまたみじめでもあったろうが、それでも開拓地を手放さなかったのは、手放せない事情があったとしても、一縷には時代によって流動的な生活を余儀なくされた人々の開拓を成功させようというやはり野心もあったのかもしれない。

入植者も年を経るごとに増えてきた。自分たちの手で家が建ち、畑が開墾されて漸次景観がひとの姿をし始め、やがて地区として成立し始めていくさまは彼らにとって心強いものであったろう。

やがてまともな道路ができ簡易水道が敷設され、電気も通るようになる。ある者は家にラジオを設置して、スピーカから歌謡曲が流れてきたとき、文化に触れて途端に地区全体が明るくなったようだと記している。

彼らはたしかに時代の流れに呑まれながらどうにかこうにか生きてきたということもできるだろう。「苦労して」と形容したくもなる。が、それは彼らの本質かというとそうではないように思う。

彼らは流動的な生活のなかで、基盤となる土地を意志し、自分で選択して将来を切り拓いた。彼らは土地ばかりでなく彼ら自身の未来を開拓し、そして実現したのである。

そこに選択の自由は多くなかったに違いない。しかし、彼らにはその境遇を引き受けることで自己決定感を獲得していたように思う。これが他人にこうしろああしろと指図されてのことならこの開拓は成功しなかっただろうとも思う。

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