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私は私を語る機械

 書店はよい。
 街区を切る通路を行き来していると、背表紙は語り始める。各々固有の厚みが内蔵する巨数の文字列よりも、その厚みのうえに印刷された書名は、私をよく語る。語る背表紙は縦へ横へ連続し、別の島の背表紙のことを回想する。頭には書名が螺旋を描いて渦動し、書名同士が私という触媒のうえで結合したりまた外れたりを繰り返している。書名はひとつの核をなす。私の恥ずかしい思念の明滅は周りをとび交う電子として、ふたつの、無数の書名を引き合せる。本を精確に理解するよりも、開かないほうがよかったと思える読書が、本にふれるまえにすでにされている。
 つまるところ本当に読みたいのは、私はどんな解釈を生きているかを説く本なのだ。そして、これを教えるのは厚みをなす内蔵した文字によってであるより、しばしばタイトル群を渉猟するときに得られる。タイトルは知覚外の波長域にある通底音を可聴域に落とし込んでくれるフェノールフタレインとして作用している。聴きたいのは電子のほうなのだ。
 書店はこれを実現し、生活のはしばしをも連動して私をいくつかの解釈の断片へと導き、言語によって固定化され胸中にしまわれる。断片は契機を仲立ちにどこかで結合し、またしばらく忘れられる。この繰り返しのなかで私=暗号を読み解いている。
 この操作は分野を横断する。民俗学、文化人類学、現象学、英経験主義、ドゥルーズ、シュルレアリスム、ダダ、モランデイの静物、絵画や文芸等の創作活動、舞踏、身体、現代詩、ホラー、フェミニズム……その他思い出せない大小さまざまの趣味の数々は私の一断片を満たしてくれるゆえに趣味足りえているが、その個別の学問や芸術等に私は集約されず、飽くまで一断片を語るによい道具あるいは武器または指標として用いられるのであって、それらに隷従するものではない。私が知りたいのは私であり、私が解釈する他者、現実、世界であり、その解釈の狭隘さであり、独善の解釈を超越して遭遇する世界である。個別学問に隷従しているとこの探求運動は失われる。分野とは共有するための道具なのだから、分野に拘泥すると私秘から遠ざかることになる。

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