2018年に脱したこと

どうも、明けましておめでとうございます。

昨晩は、大好きなお寺で座禅会に参加しながら年を越しました。

その時しみじみ思ったこと。

こんな2018→2019なんて、一年前には1ミリも想像していなかったなぁ。ということ。

私にとって、2018年の一番大きな出来事は、エホバの証人を辞めたことでした。

とはいえ、数年前から幽霊状態だったのですが。
私側の気持ちとして、きちんと辞めたのが昨年。

私の母はエホバの証人で、私はその信仰の中で育てられました。

ご存知の方も多いと思いますが、エホバの証人は
お正月七夕バレンタインお誕生日クリスマス、どれもしません。
学級委員の選挙もしないし、部活もしないし、多くの場合は進学もしないし就職もしない。

それでも私は、「それが正しい」と思って生きてきました。そのときは辛くなかった。

というか、今になって分かるのですが、自分の感情さえも「神に喜ばれる仕方」に変形していたんですね。

例えば・・・
エホバの証人の子どもは、魔法使いが出てくる娯楽作品を見ません。神が禁じているからです。
仮に子どもの私が、ハリー・ポッターを読みたかったとしましょう。
でも、「ハリー・ポッターを読むことはエホバ神を悲しませること」です。
なのでエホバの証人の親は子どもに問いかけます。
「エホバの悲しむことをしたい?」
私たち子どもは当然、Noと答えます。なぜなら、エホバが悲しむことは、「悪いこと」だから。
(万引きが悪いこと、と言われるのと同じくらい、エホバの証人の子どもにとって「エホバが悲しむことは悪いこと」なのは、当然のことなのです)
・・・とはいえ、多分本当の本当は、「エホバの悲しむことをすると、お母さんが悲しむから」が事実なのだと思いますが、子ども心にはそれは理解できていません。
こうして、子どもの私は、
ハリー・ポッターを読みたい!と思う自分は、悪い子だ、と思うことになります。
それで、「ハリー・ポッターを読みたくない」が「正しく」て、それが「嬉しい」私になろうとします。

・・・分かりますでしょうか?このカオスが。
正直な気持ち:ハリー・ポッターを読みたい。読んではいけないのは悲しい。
修正された気持ち:ハリー・ポッターなんか読みたくない。読まないことで神が喜ぶことが嬉しい。

こういう形で、一事が万事、感情を修正されていくのです。

修正された感情が、本当に喜びで、フィットした子どもたちは、成長して立派なエホバの証人になります。
だけど私は、自分ではエホバの証人の生活が幸せで満足なはずなのに、もうずっと、物心ついたときから「死にたいなぁ」と思ってた。
なんでこんなに満足なのに、死にたいのかずっとずっと分からなかった。

エホバの証人の教義では、この世はもうすぐ終わり、そのあとエホバの証人だけが生き残って、楽園で永遠の命を得ます。
子ども心に、永遠に生きてもつまらないし辛いだけなのになぁ、と漠然と思ってた。
でも、エホバの証人は言うのです。
「今の世は辛いことばかりだから、永遠になんて生きたくないかもしれない、だけど、神の統治する世界になれば、喜びに溢れて生きられるようになる」と。
子ども心に、私には分からないだけでそんなものかな、きっと楽園になればわかるんだろう、と思っていました。

ずっとずっと、感情を修正し過ぎて、
私は本当は何が好きで
私は何をすると嬉しくて
私は何をすると悲しくなるのか
分からなくなっていることにすら気づいていなかった。

大人になり、エホバの証人を排斥されて、それでも許してもらおうと頑張っていたときに、
ふっと思ったんです。(排斥システムの説明は、また機会があれば)

こんな惨めな扱いを受けてまで、戻りたいの?
なんのために?

今までニコニコ柔和だったエホバの証人の人たちに無視されて
母には一緒に外出しないし家の外では口もきかないと言われて

それも私が悪いからだという態度をとる母を見て

小学生のイジメかよ
と思ったときに、
気づいてしまったんです。

そうだよ、小学生のイジメレベルじゃん。
こんな人たちに何を許してもらおうとしているの?っていうか、私は何か本当に悪いことをしたのか?それは悪いことだったのか?

法律に違反したわけでもないのに
なんでこんなに極悪人扱いをされなきゃいけないの?

・・・ああ、そうか。
気づいた瞬間のことを覚えています。

彼らは、彼らの村の中のルールを、社会のルールより優先するんだ。
それが行きすぎると、社会で悪と言われていることも、自分たちルールで善であればやってしまう。
こうして、狂信的カルトができるんだ、と。

例えば、社会が悪であれば、この中で法律違反をしながら抵抗する人は「善い人」でしょう?
ナチス国家の中で、ユダヤ人の人権を尊重するのは「社会的にアウト」で「法律違反」で「悪いこと」でしょう?

エホバの証人は、そういう気持ち(ナチス国家のなかでユダヤ人の人権を尊重しているつもり)で、自分たちこそが正しい、と、社会に反することをやってしまえる人たちです。
些細なことでいえば、
クラスでクリスマス会をするという仕組みのなかで「クリスマスは悪いことだ!」と主張するのもその一環。
それは、本当に正しいのだろうか?
ナチスに抵抗するユダヤ人のつもりが、本当は自分たちこそがナチスだったのでは?

国家。善。社会。
信じられる軸は、自分の中にしかない、と、私は気づきました。
そうしたら、自分の感情の軸も自分にあると気づきました。

私は、自由です。
何を喜び、何を悲しみ、何に怒り、何に笑うか、それは私の中から沸き起こるもので、誰かに決められるものではありません。

ようやく気づき、私は、
二度と集会(エホバの証人の集まり)には行かないと母に告げました。

母が私と縁を切ったとしても、私は母を母として尊重する、とも決めました。
子どもの私に、食事を与え住むところや着るものを与え、養育してくれたのは母ですから。

こうして、自由になった私は、
生まれてはじめて、生きることが苦痛ではなくなりました。
ずっと感じていた厭世感は、感情を否定されることから生じていたのだと、ようやく気づきました。

そんなわけで新年。
生まれてはじめて言います。
明けましておめでとうございます。
今年から、私は
読みたいものを読み、知りたいことを知り
やりたいことをして
自由に生きていきます。
もう、死にたくはならないでしょう。

お読みいただきありがとうございました。

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