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Twitter感想ログ_2020/05-09

2020/05

隔離式濃厚接触室(布施琳太郎)、河原ジャイアンリサイタル(小野峰靖)、パ/フ/ォ/ー/マ/ン/ス/ナ/イ/ト(CSLAB)

これら集まりの形式を操作する一群の作品をむしろ〈演劇〉と名指してみることはできるだろうか? 〈オンライン演劇〉の問題(成立の条件)が、観客の位置をバーチャルに措定するところにあるならば、こうしたコンセプチュアルな作品群は、いまこの場に現前していない観客を、ある意味での幽霊的な存在として場に招き入れることに成功しているように見える。

うさぎの喘ギ『Hand and Stuffed』

うちの熊と参加。スマホなどのデバイスを登場人物の「身体」に見立てて状況を構築するアイデアが面白い。要は、鑑賞者が自分の家のテーブルに人形とデバイスを演技者とした舞台を手作りさせる形式。小さなシアターの仮設。べつの言い方をすれば「手作りシアターキット」なわけで、これは昨今の「オンライン演劇」の流行とは関係なく展開できるアイデアではないか。

2020/06

チェルフィッチュ『未練の幽霊と怪物』

「テーブルシアター」と言えばいいのか。不格好な言い方だが衝立に投影された「映像人形」を用いて白紙撤回されたザハ案の新国立競技場と、高速増殖炉もんじゅの廃炉をめぐり、忘却により問題を(解決ではなく)解消してしまう社会のあり方を再想起させ、問題化する。

チェルフィッチュは演劇のフィクションを現実と断絶した虚構のドラマとしてではなく、現実に起こりうる働きの現れとして、日常生活の側に引き寄せてきた。それは内外を分割する境界線を不明瞭なものにし、虚構、舞台、劇場といったフィクションの力を内に閉じこめる形式に対する批判精神に貫かれていたと理解するならば、本作はテーブル、衝立の映像、テーブルの置かれた部屋、そしてモニターを見る観客/鑑賞者の空間といった、さまざまに異なった空間/状況の「スケール」の重ね合わせ「が」、観客/鑑賞者の意識にバーチャルな上演の時空間ーフィクションーを生み出し、上演そのものが現実になる。

2020/08

関真奈美《乗り物 #位置について

武本拓也、山本聡志出演。操作コマンドで武本を操縦し、いずれかの座標に位置付ける物理空間、それとはほぼ無関係に操作される3DCG空間、そして武本胸元のカメラで撮影された主観的空間がズレつつ重なりあいながら、非常に不可思議な浮遊感を体験させる。

最初は映像と主観カメラの時間がズレていることが気になり、このパフォーマンスのルールを探り出していく緊張感を頼りに見ていくのだけれど、「記憶の中の探し物を探すのが課題である」と合成音声で読み上げられてから複数の時空間が僕の脳内で処理され多重化する感覚があって痺れた。

2020/09

烏丸ストロークロック『六川の兄妹』

いまだに鮮明に覚えている。生涯、忘れない気がする。なぜ忘れられないのかというと、ある場面でのyammyの声が呼び声ではなく、むしろそうした人間的な声を解体する動物の鳴き声であったからだと思う。それは自分の生と社会を意味づけるすべてを無みしようとする衝動であり、いわゆる(かつての)地点語の内奥に隠されたエロティシズムと同根の何かであった。

初期地点が父権的なもの(言語)の父権的な力(演出権力)による解体を目論んでいたとみなせるのは、私的に興味深いことである。崩落の予感と、その悦楽に向けられた衝動は、より良い社会の建設に役立つことはありえない。だから記憶されない。しかし、そうした仄暗い欲動にこそ私は惹かれてきた。

田上碧『触角が無限に伸びる虫』

音楽のことは何もわからないが超好き。誰か何か書いてくれないか。においに充満する生のうごめきから伸びていく感覚が、しかし意味の世界の向こう側にまで伸びていくとき、自分であることを前向きに意味づけている諸価値が崩落して溶け落ちていく。無へ。土地と個人の記憶が混じり合う渾沌へ。だから生きる気力が失われる方へと精神に変調をきたすという意味では危険な曲であるように感じるし、その逆に、そこから世界そのものの奇跡性を言祝ぐという意味で美しいと感じる。

吉田萌、宮城茉帆
『壁あるいは石、平たいメディウム』

  とても良かった!目の前の身体をただ60分間見るだけのシンプルな構成なのに、140字では到底書き切れないほど恐ろしく複雑な出来事が〈平たいメディウム〉としての身体をめぐり現象していく。「演劇」作品の演出は初めてとのことだが信じられない!
  観客は配られた手元のデバイスに流れるマッサージその他の映像と寝転がる女性が舞台空間をゆっくりと無機質に動いていく時間を交互に見やる。イヤホンからはトレーニー、美術モデル、ダンサーの〈身体〉感覚にまつまるいくつかのインタビューが流れ、塞がれた耳に微かに外部環境の騒音が侵入してくる。
  5席だけの客席は低い椅子や脚立など高低差がつけられ、アトリエの外に置かれた席からは窓枠越しに中をのぞく格好になる。こうして複層的に重ねられた環境のレイヤーがー吉田さんの言葉ではー〈アバター身体〉に複雑な意味と感覚と陰影を現象させ、その身体は複数の異なるものに〈なってしまう〉のだ。
  その身体の現れと対応して観者の五感をバラバラに寸断して再接続・再編成する体験のプロセスが、そのまま上演の時間になっていく。触れる感覚は映像のマッサージに同期し、イヤホンは外界の感覚を遮断する。しかしそれゆえに蠢く身体は白昼夢のように感じられ、超現実的な視覚の効果が立ち現れる。
  そうした諸知覚の再編成は、自動機械になるまで訓練するダンスが失神に似ていること、身体から乖離する幽霊的感覚、筋肉を鍛えて男性のマウントを恐れなくなったこと、モデルをしているときに凪が訪れる内的感覚といった複数の語りと交錯することで上演体験をより複雑なものに編み上げていくのである。
  終盤、外のゴミ収集車から聞こえてくる「乙女の祈り」が感動的だった笑。そしてこれもまた上演から開かれる意味の位相をよりいっそう豊かにしているのは全く疑い得ないだろう。きわめてよく練り込まれたパフォーマンス/演劇だったと思う。

演劇の意味は明らかに変化している。身体がメディア化されているというより、その諸感覚がナチュラルに寸断されてて、その全体性を回復するなんてありえないとわかり切ってるから、ライブ的な〈いま・ここ〉が諸感覚の再編成の場として使えると再認識されているのだろうな。ふつうに

かもめマシーン「もしもし、わたしじゃないし」

  衝撃…! 指定の時間に非通知で掛かってきた電話をとると「もしもし」と始まり凄まじい勢いで「あの子」について捲し立てられる。耳元で!この電話ひとつで現実はフィクションに侵され、私が誰でどこにいるのかの現実感が奪われていく。呪われたかと思った。
  一対一の電話演劇を体験したのは初めてだった。これ全部実際にライブでやっているので俳優の清水さんの労力は相当のもの。でもそれだから「もしもし」と言われると「もしもし」と答えたくなってしまう。字義通りに双方向的な感覚が強く喚起される。で、戯曲の「聞き手」の立場に観者は巻き込まれていく。
  さらに耳に押し当てて聞いてるので電話の声が聴者の「頭蓋骨に響くブーンとした音」かのような錯覚が生じる。なので「あの子」の位置が、どこかの他人、電話主、聴者のあいだを目まぐるしく移動するものだから、だんだん〈私〉の人称的な安定性が揺るがされていく。いや、本当に。船酔いしてるみたい。
  集団性と視覚性を削ぎ落としても世界との喩的な関わりを発生させる言葉とその〈声〉の効果で劇は成立する。人にはもともと何かが見えているし、どこかの場所で何某かの環境に属している。その世界と関わり合う身体的体制の向きを変えれば、つまり異なる世界の見方へと誘惑する装置があれば劇になるのね。

市原佐都子(Q)
『バッコスの信女ーホルスタインの雌』

初見。認知がひっくり返ってるかもしれないが、大人計画の『ふくすけ』によく似ていると感じられる。露悪的ではない大人計画というのは外れているだろうか? もしそうなら何故?

直感的ですが「クイア」はそのむかしエログロナンセンスと呼ばれていたものと何が違うんでしょう? というか「クイア」が私の観測する範囲ですが、このように安心安全に理論的にも正当化されて中産階級の(普通の)観客たちに肯定的に受容されるのはなぜなのかという違和感があります。

また別の視点になるのですが女/男、夫/妻、人間/動物、親/子の対立項と多種多様なテーマ系が、最後は「母」への胎内回帰と生まれ直しの主題に収斂していくじゃないですか。それが観客の安心を生む安全弁になっている気がします。母性による救済こそ拒否すべきだったのでは。

劇団飛び道具の『ロキシにささぐ』

海外青年協力隊に参加した大内さんが、ある島の村落が海外資本の流入で近代化/植民地化されていく様を描く名作だった。非常に良くできた四幕構成の近代劇で、ルポルタージュリアリズムの手法を確立した画期的作品。ただ伝統的な歴史文化が観光地となり市場経済の合理化によってすべてのものが等価に商品化され解体していくポストコロニアルな状況を、近代劇の合理的視点で表象することそのものに、劇中で描かれるものと同じ合理化の暴力が働いている、われわれ表象する主体の地位は揺るがないと煩悶していた。

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