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Twitter感想ログ_2020/12

うしお鶏・米澤柊 2人展「AB」

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原形質性。輪郭の融解。ほんわり見える原形質性にフォーカスする傾向はどういうことなのだろうと、数年前から気になってる。アクセシビリティ(親密さのデザイン)の話とつながっている気がしてる。

じょいともさんのツイート見て、うしお鶏・米澤柊 2人展「AB」に行ってみた。ちょっと予想外で驚いた。(自己生成的)運動の享楽に観者を誘うのではなく、アニメの「肉」をコマ送りで検分するような提示の仕方。どう考えたらいいのかはまだよくわからないが面白かった。

オフィスマウンテン『アながあくほド』フルボディver.

山縣さんがカメラマンとなり俳優4人を撮影、それはオンライン配信されていたわけだけど、それゆえにライブの現場はむしろバーチャルな通信網から弾き出された身体の廃棄場のように思える。複数的な環境の諸力に貫かれることで、主体的な意志が奪われ微振動するモノと化した人間たち。わたしたちがなにを見ないことにしているのかを、オフィスマウンテンはあられもなく露呈してしまう。その先になにがあるのかはわからない。危機の時代のコメディア、と感じられる。

「PORT:Performance or Theory」

2日目前半。大谷さんがキレキレ。たくみちゃん不在なために、みなさんの発言から「たくみちゃんのパフォーマンス」が浮かび上がるようで面白かった。それとRisako Okuizumiさんの空間のデザインで時間を構造化する試みも私的に興味深かった。

オブジェクトの配置と変化で時間の構造化を実現できたとしても(観客らの)身体の方が情報密度が高いから、そっちを見ちゃうというのは、そもそも現実に空間の拘束はオブジェクトのみで決定されておらず、より複雑に生起しているという話だと理解。その錯綜する時間を構造化する上演は可能だろうか。

小林勇輝さんのターンは、DANCE BASE YOKOHAMAのソファのフィット感があまりにも素晴らしく、心地よい眠りの世界に旅立ってしまっていた。めちゃくちゃ気持ちよかった。

3日目。PORTのたくみちゃん、永遠と現在の一致を目指してたんじゃないのかな。「僕は20分間の映像です」はガチなんだと思う。武本さんのパフォーマンスに「責任」を言うのだとしたら、観客に威圧的になることではなく、ハーメルンの笛吹きになるかもしれないことにあると思う。武本の身体とともに私を消し去る(環境に慣れる)パフォーマンスだと思うし。

ハラサオリ。表面張力いっぱいに水を注いだコップが置かれた長板を2人で持ち上げて回転させるハラのパフォーマンスは、生成よりもそれが起こりうる環境/システムの点検といった含意があるように思われた。それは先日のうしお鶏、米澤柊「AB」展の関心と良く似ている。偶然、似ているだけなのか、それとも必然のようなものがあるのか。ハラとokuizumiのパフォーマンスをちょうど合わせるとAB展と同じ構図になる。妄想的だが。気にかかる。

芸劇dance 田中泯×松岡正剛「村のドンキホーテ」

滑稽な歴史の敗残者に贈られる二十世紀葬送詩のような舞台。踊っているとしか言えない踊りの時間が素晴らしかった。

20世期の葬送とは(言わずもがな)マルクス主義の葬送であり、その主題は革命の失敗ということになる。最終景で形象化される歴史の天使は、その失敗でボロクズになった民衆の肉体を見つめている。基本的な解釈の線は誰が見てもそうなるが、その意味はよくわからない。精密で解像度の高い批評が読みたい。

だから本当は素晴らしかったというより不気味であり、その敗北を(だからわたしたちの世界の勝利を)哀れんで心動かされる私とはなんなのかと思わされた。

青柳菜摘+佐藤朋子「TWO PRIVATE ROOMS – 往復朗読」

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まさに孵化を待つ時間の静謐なドキュメント。ステイホームは必ずしも動かないこと、停止を意味するのではない。毎日の朗読は収容生活の死んだ空間を呼吸させ、新たな生の潜勢力を蓄える。死なない=生き残るための技法が静かにそこに置かれていた。

この展示、SNSパフォーマンスのドキュメンテーションで、日常と芸術とメディアと時間の関係を複数的な時間の凝集として空間化している気もして言えることがいろいろある気がする。

NRR Vol.1「ノアの方舟/Noah's Ark」

おもしろかった。今日までとのことですが、ひととおり見ることはすぐにできます。

CSLAB、水田紗弥子レクチャーWS《展覧会を考える:鍵のかかった部屋から林をつくる実践へ》全3回

祖父の遺品や生活用品を展示したハラルド・ゼーマン「祖父:われわれの先駆者」展(1974)をモデルに展示の企画を立ててみる。親密なものと開かれたものの関係をアレコレ考えることができ楽しかった。

「本のキリヌキ」展

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とても充実していた…! 会場は平家の瑞雲庵という場所でとても身体に馴染む。作品を見てまわるといった感じではなく、彫刻に身を寄せてみる感じ。身体に働きかける質との関係なしに彫刻の近代の再検証はできないんだろうなと感じる。

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前田春日美・吉野俊太郎の動く台座システムもすごく良かった。粘土を掻きむしる手が映るモニターは左右に動き常にその動作音が聞こえる。ベッドのような台座からはときおり「ゴホゴホ」と咳き込む声がする。なにかしらそこにはない死体の存在を想起させられる。台座を自律させて彫刻を幻視させる?

スペースノットブランク『光の中のアリス』

一度舞台を見るだけでもろもろを把握するのは私には難しいのだけれど(戯曲読みたい)、だから自信ないですが、鏡像関係で無限増幅する自己イメージに閉じ込められた人間たちの脱出劇、といった感触。でもそれだと夢の遊眠社?という気がするのだ。

具体的に言えば、野獣降臨、のような。しかもスペノにおける外部を内部に繰り込む制作の方法は、それこそ劇世界の表象を過剰に乱反射・増幅させることでーあの速度と記号の戯れー措定可能だった幻惑としての外部すら封じられている。という連関を思い起こしてしまう。という時代錯誤が印象に残る。

ヌトミック『Play from someone (nice sound!) ⅱ - SETAGAYA movement』

生活のなかのささやかな遊びを舞台にのせてシェアするイベントだと理解。音響環境がもう少し良かったら、違う聴取の経験が得られた気もするが、バラエティ豊かな参加者の試行錯誤を変な脚色なしに手渡していて素敵でした。

千葉大二郎個展「Hassuism」

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展覧会を作品発表のメディアではなく、撥水教の世界観を広める「コーティング」の場に転用。(たぶん)人類は皆誰もが水を弾いて「撥水」している、だから生とは撥水のことである。この教えを伝えることがコーティングと呼ばれる。今後の展開がマジで楽しみ。

OPEN SITE 5 大岩雄典 個展「バカンス」

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これ見た。観客を演じているのは誰か、という問いを投げかける展示のように思った。離人症的な声と主体の問題はベケットだが、どうしていまベケットなのだろう。

Avatar tours # 2: Tokyo Ueno

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新井麻弓さん、Nina Willimannさんのツアーパフォーマンス。ウェブサイトによれば「willlimannaraiという二人の共通のアバターを介したプロジェクト」とのこと。事前に、新井さん・Ninaさんで上野公園をリサーチ。ただし、Ninaさんは上野公園を訪れない。ホームのチューリッヒから、新井さんの案内だけを頼りに、上野公園のツアープランを策定。このさい、Ninaさんに伝えられるのは、新井さんの「言葉」だけで、ビデオカメラ等を用いた視覚情報は遮断される。

つまり、Ninaさんは新井さんを介して、上野公園の想像の地図を描く。そして、「想像の地図」を頼りに、参加者を案内する。各所モニュメントをめぐりながら、上野公園に書き込まれた日本の近代化にともなう植民地主義の歴史をひもといていく。

物理的・身体的移動が制限されるなかにあって、「旅」はいかにして可能なのか。注目すべきは、この問いを通じて、「旅」がつねに移動をともなう差異の生成であること、その差異化の運動そのものが「旅」と名指しうる何かなのかもしれないと考えさせられることだ。

新井さんは、ヘッドホンから聞こえるNinaさんの言葉を日本語に翻訳する役割に徹している。そこでは新井さんの身体が「Ninaさん」に「見える」ような身体を媒介した「演技」の効果が立ち現れるように思えるかもしれない。しかし、実際には、Ninaさんだけが空間を共有していないことによる「ズレ」のほうに参加者の注意は向けられていた。

たとえば、小高い丘では何人ものアイドルを男性たちが撮影するイベントが開催中であった。視覚情報を遮断されているNinaさんはそれを目にすることができない。だから、いたるところで男たちがキメ顔の女性を囲んでいる異様な状況であっても、ツアーは台本通りに進行する。

そうしたチグハグのおもしろさはある。しかし、より興味深いのは、そのチグハグは、物理的に隔てられた状況のズレだけに起因しているわけではないことだ。こちらからNinaさんに「アイドルの撮影会をしているんですよ」と伝えても「アイドル? ポップスターのことですか?」と聞き返される。いまここで生起するチグハグな状況には、当然ながら文化的な差異も織り込まれている。

また、そこでは日本語話者であり、東洋人の外見を持つ新井さんの身体と、チューリッヒ在住で英語あるいはドイツ語話者であるNinaさんの身体の差異も立ち現れる。いわば西欧の文化圏に属する人が、日本の植民地主義についてレクチャーする状況は「お前が言うなよ」的な、歴史を語る正当性の問題を引き寄せるが、アバターである新井さんの身体を介することで、ある意味では、その政治性が中和され、日本とドイツの政治性を孕んだポジショナリティが、相互に歴史を理解するプロセスのなかに開かれていくようにも思えるのだ。

「Avatar Tours」の第一回は、チューリッヒで開催された。そこでは立場が逆転し、Ninaさんの案内で新井さんがその場所について想像し、ツアープランを立てた。こうした交流は、相互の信頼がなければ成立しないだろう。実際、Ninaさんに「なにもわからない状況でツアーをするのは怖くないですか?」と尋ねたところ、「まゆみが、教えてくれるから大丈夫」と答えていた。だから「旅」とは相互の信頼を紡いでいく時間でもある。歓待されねば旅はないのだ。

座・高円寺講座「パフォーマンスの未来2020」(内野儀)

日本におけるインターカルチュラリズムの歴史的変遷を辿る。解体者+NYIDの(衝突と)ワークインプログレス公演紹介が、(確か)『記憶の物語』と比べて美的な強度や形式が近しく感じてしまうことも含めて(普通に?)いろいろ思う。いずれにせよもろもろテンション上がってきたw 「以後」に到達するのか、しないのか…。次回も楽しみ。

江口智之『スピーカー』

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演技の空間を宙吊りにするインスタレーション。言葉やモノがもつ記号的な指示連関の網の目を張り巡らせることから最終的な意味の審級をどこまでも遅延させ、観客/鑑賞者の決定=選択を宙吊りにする。というのはもとより、その空虚の「温度」を探ろうとする手つきが気になる。

入口すぐのスクリーンでは、カフェ、ラブホテル、飛行機内らしき空間での会話が字幕で表示されている。本来的には映像の付随物に過ぎない「字幕」を自律させることで、映像のない映像としてのスクリーン=映像を設計し、言語的記号(字幕)の引用性を外部に開いているのは良いとして、それでもイメージは、あいまいな輪郭を成して立ち上がる。その不定形の「温度」に作動するフィクションの生起が探られているような気がして、そちらに私の関心は惹き寄せられる。どうにも。

『Fate/zero』(12月25日)

神がかってるやんけ。知らんが、セカイ系も含めて、犠牲と選択の物語を延々と描いてたんじゃないの? すべては救えない。だから誰を見捨てて誰を救うか、を選択せねばならない。それがギャルゲーのフォーマットとたまたま合致した。ループと選択。平和の欺瞞から残酷な競争へ、その癒し(緩衝材)としての00年代オタク文化…か。

切嗣はセカイ系。その意味で、セカイ系は自殺願望だね。社会から孤立して居場所なく、そこは泣き叫んでも許されず慈悲を乞うことしかできない不安と絶望に満ちた「世界」として我が身を取り巻いている。その最も純化された形態としての失恋。だから恋愛と世界の滅亡が結びつく。辛いのに死ねないから世界の終わりを願う。

ウェイバー&イスカンダルの具体的な絆の結びつきにやっぱり希望を感じる。イスカンダル、最初から聖杯の力を当てにしてないし。友情だよ。大切なのは。やっぱ。

『吉開菜央特集 Dancing Films』A・B

『Grand Bouquet』があまりに衝撃的。法外な悪夢。(A・Bともにあったので)2回目を見るときは、ある種の拷問を受けている気分に。図式的な読み解きは可能だが、それを明らかに逸脱している(読むことで作品が意味を失うと感じさせる)。吐瀉物の花が咲くとき、逆再生するような音が当てられる。その音は悲鳴のようにも聞こえる。花は「女性」の肉体から外に吐き出されることでたんに生命を芽吹かせるのではなく、そのうちにあった「悲鳴」の力を取り戻す。それをなんの力と聞くのか。など。

「Public Device 彫刻の象徴性と恒久性」

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スプートニク2号で打ち上げられたソ連の宇宙犬ライカにも見える林千歩さんの作品に惹かれる。私はハルストレム監督の「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」が大好きだからもあるけれど…。意味不な言い方だが、あの独特の不安がひしゃげられている感触。

象徴化を拒む公共彫刻とも言える気がする。誰もライカ(彼女)がどのように死んだのかを知らない。だから、ライカのイメージをつくることはできない。それゆえ台座をライカの棺として提示することで、イメージの空洞を感じさせる。しかしまた一方で、ライカのようにみえる犬は、そんな人間の特殊な風俗(イメージの文化)なんて知らないよといった顔で尿をひっかけている。

伊東宣明「されど、死ぬのはいつも他人ばかり」

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玄関口にあったこの映像作品がすごく良かった。1〜99の数字を書いた張り紙を野外の様々な場所に張り付け、ズームアウトさせる。99までいくとまた1に戻る。ループしているようにみえるが、実は違う。張り紙の場所が少しずつ違うのだ。展覧会タイトルと合わせて、抽象的な数字と具体的な場所との衝突が、カウントの暴力を炙り出すとともに、このようにしてしか悼むことのできない見知らぬ他人の存在にも注意が促される。

タニノクロウ秘密倶楽部「MARZO VR」

コメント難しい作品。しなくていいんだけど、内容関係ないけど、メガネにVR けっこうきつい。毎度ながら。リアルを忘れられないw

松田修展「こんなはずじゃない」。

ヤバイ。音の設計が凄かった。特定の場所にいないと(!)聞こえない映像音声とどこにいても聞こえる「上下左右」の怨念めいた声のコントラストにクラクラする。この対比がそのまま「中流」階級な鑑賞者の位置を明示し、その無意識を撃つ。呪いの構造だと思った。

重要なのは呪いの構造は分断の面を鏡合わせに無限増幅する仕組みを持つこと、しかしそれをアイロニカルな笑いに変えて生き抜く術も示されていることだと思われる。勝手に生きてしまっているのだ。死ぬまで。

濱田明李『Madamaniau performance @PUBG』

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12月26日。「PUBGMobile」というサバゲ―内でおこなわれた濱田さんのパフォーマンス。これに参加するために、PUBGをダウンロードして基本的な操作を覚えた(笑)。濱田さんのチームでマップに入って、そのあとは自由行動。プレイ中は、濱田さんが芥川龍之介『杜子春』を朗読する(もうひとつあったが忘れてしまった…)。

なるべく他プレイヤーに殺されないように武器弾薬など収集しながらプレイしていると、濱田さんの朗読になかなか集中できないという(笑)。ともかく、これで2020年のパフォーマンスは見納めとなりました。

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