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Twitter感想ログ_2020/10

2020/10

前田愛美「総合住宅まなみ」

「1さん、2さん、3さん」「カードゲーム」「作品さん.com」「ツール・ド・鬱」「ファイナンス」といった前田愛美の活動とも、作品とも、ある種の戯曲とも、生の日記とも言えるし言えない、不確かな〈私〉のあいまいなゆらぎがそのまま体感されるように設計されている。あるいはされてしまっている。

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「みんなでできるfemale artists meetingを考える」田中義樹「ジョナサンの目の色めっちゃ気になる」

上演されてた軽演劇を見た。梯子したからかセクシュアリティに関する対照的なアプローチを続け様に体験した感じ。言ってしまえば単純な話なのが…まだうまく咀嚼できない。

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エドワード・ボンド作、佐藤信演出『男たちの中で』

  軍需企業の買収をめぐり展開される男たちの喜劇。戯曲の「言葉」の力をひしひしと感じる。3時間あまり他者を説得する言葉が次々と繰り出される、この骨太の演劇はいまだからこそ見てほしい。言葉が社会を洞察する力が諦められていない。
  ハモンドという男は第三世界に兵器と食糧を与えて支配する欲望を抱くが彼自身も何に突き動かされているのかわからない資本主義的欲望の戯画、死の商人であるはずの兵器製造会社の社長が孤児の息子には愛を注ごうとする矛盾。贈与と共感が失われた社会で人間的であるとはいかなることなのかが問われる。
  3時間の言葉の演劇を見るという体験を人はした方がいいし、個人の直接的な日常や体感や当事者性をベースにした誠実さとともに、じかには体感されない世界の支配的な社会構造を洞察する劇を見た方がいい。やっぱり。ふつうに。

お布団『(あなた)の人生に(あなた)がいない』

永瀬安美さんの出演バージョン見た。言葉で絵を描く演劇。とてもシンプルに観客の想像に働きかけるのがすごく良かった。画家が手で世界を理解するようにわたしたちはそこにないものを想像で触れて理解する。見失われがちなこの単純な感覚を取り戻させてくれる。

とりまくメディア環境は目で見て消費することにどんどん最適化されていった。スマホを使ってる限り(笑)、情報を瞬時に処理して忘却する切り詰められた時間のサイクルに巻き込まれざるを得ない。耳で聞いて想像することは時間を止める営為に近い。ここに現在の有効な劇の戦略があるような気もする。絵:伊丹小夜、上演:得地弘基。東中野RAFT、25日まで。

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さんかく『ハローグッバイピリオド』

二人の男女が電話口の向こうに「もしもし」と日常の小さな発見や気づき、つまりどうでもいい話を喋り続けるのだけど、中盤「私」の所在をいきなり揺らがせる極小の仕掛けが見事にキマッてた。先日のかもめマシーン『もしもし、わたしじゃないし』を思い出す。

「なぜ人はふとなにかをはじめたくなるのか?」という問いをめぐる思考の軌跡、ってかほとんどそれをめぐる劇なんだけど、その点に一番強く惹かれる。ふと、つまり正常な人間でなくなる瞬間の希求。しかし喋る行為をやめない。人間であろうとする葛藤。

APAF
『フレ フレ Ostrich!! Hayupang Die-Bow-Ken!』

  トランスナショナルなオンラインシアター⁉︎ 胎動期のまだ何も整理ついてないクソ野蛮なエネルギー!とてつもなく妙なものを見たぞ!フィリピン、日本、インドネシアをオンラインでつないで虐殺と未来の選択の寓話がパフォームされていく…!
  この感じいましかない(いまこの時点における可能性に満ちた雑種的応答になっている)。地理的距離はもちろんバーチャルなネット空間と日常(部屋)と現実(いまここ)と政治文化的位置が寓話の複数的解釈のブレに呼応し観客にそのまま投げ出される。劇場が純粋な翻訳の場になってた。
  この野蛮さを牽引したのはもちろんaokidのぶっ飛んだ人を巻き込む力である。わけのわからないエネルギーがどこまで状況をかきまわすのか? つまりこのエネルギーは外から襲来する脱社会的な力なんでヤバい、こりゃすごいな笑

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円盤に乗る派『ウォーターフォールを追いかけて』

何かを見てる感覚に近いなと思ってたがわかった。あれだ。アイドルのイメージビデオだ。音楽かな。音楽があれなんだよ、あの虚無なんだよ。

モモンガ・コンプレックス
『わたしたちは、そろっている。』

  めちゃ感動しちゃったよ!自粛生活ミュージカル!笑 劇場内に作られた部屋で隔てられたパフォーマーは孤独に歌い踊り喋りながら、その歌い踊り喋る力で共振する。観客は全体を見渡せないから個々の瞬間に気散じ的に反応しながら回遊してく。
  狭い壁に囲まれたダンサーは窮屈そうだが、そのなかであっても自粛で溜まったエネルギーを解放させる清々しさある。誰だったかコンセプトアルバム制作するように劇の時間を構成したいって言った人いたがまさにそんな感じ。いくつか用意した曲(演目)をリミックスして上演に仮のまとまりを与える。
  個人的に気になったのは「卑猥なのはお前の目だ」問題。部屋はパフォーマーの隔たりを表現するが、観客の近接を可能にする。その「観賞」形態は窃視の欲望とじかに結びつくとも言える(お前の目が卑猥だから)。元々そうだがシアターが部屋として複数化されて「演劇だから」の言い訳がきかなくなる。
  「シアターが部屋として〜」は、見る対象が相対化されて観客が受動的に見せられるのではなくて能動的に選び取るかたちになるということです。観客の視線の倫理が問われるとも言える(と言うこと自体が問いを作ってるんだけども)。この能動ー受動モデルも起こっていることの実態に反して単純すぎるけど。

気散じがなされる場としての「遊動空間」と中村秀之さんの著者で書かれてたが、コロナ以後の舞台芸術のみせる様相はますますその傾向を強めているのではないか。

ipamia event 10『見えない経験、組織されない身体』

  小野田藍さん、髙橋莉子さん、山岡さ希子さんのパフォーマンス、瀬藤朋さんによるインドのパフォーマンスアートに関するレクチャー。充実の4時間半!めちゃ面白かった!
  Kolkata International Performance Art Festival(KIPAF)が生まれるまでの話が刺激的で、90年代には公認されていなかったパフォーマンスアートが、ヒンドゥー教至上主義(コミュナリズム)に対し、インドの文化的多様性を示す政治的な対抗実践として組織されていく時代的背景がよくわかった。
  2016年には不可触民の女性が自殺したことを受けて、KIPAFでもそれを主題としたパフォーマンスが散見されたが、一方で共闘しうるはずの社会運動のメンバーから「なぜ路上でそんなことしてるんだ」と抗議され衝突が起こった。社会運動とアートパフォーマンスが社会と関わる方法は相入れないのか?
  シャンカル・ヴェンカテーシュワランとの関係はあるんだろうか? コルカタとケーララは東と西で離れてるみたいだけど…。「犯罪部族法」などに見られるようにヒンドゥー教のカースト制度、不可触民の社会的偏見や差別への異議申し立てというイシューは共有されているように見えるが。

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カニエ・ナハ×北條知子パフォーマンス「岬にて」

なんだかわからないがすごい。あの空っぽだった空間が汽笛のような音に満たされていく。会場の展示も良かった。インサイドなのか、アウトサイドなのかっていまパフォーマンスで言ってるけど、そんな感じの感触。

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田上碧ライブ

素晴らしかった…パーっと視界が開けたかと思えば、息苦しい水底に沈んでいく。またあるときは静かに騒がしい夜の気配に空気が満ちる。田上さんの歌はいまいる場所の景色をどんどん塗り替えていく。きわめて触感的な想像の風景を立ち上げるというか、からだがイメージに侵される。

荒木知佳、岸井大輔、たくみちゃん、
西尾佳織、眞島竜男「右上にある」

  鑑賞、観劇あるいは参加していた。11時〜21時の長丁場でありほぼ何も起こらなかったり、上記メンバーがほぼ退出したりしながら今日の生活のかたわらにずっといる不思議な親密さがあった。
  基本はzoomで鑑賞。ときおりメンバーによる人形劇や絵本の朗読がさしこまれる。観劇費は「お金以外」。メンバーは指定の時間にだけ都内各所に現れるので、それを頼りに現地に向かうと、彼/女らに対面することができる。私はダブってた書籍と19歳時に書いたメモ帳「思いついたことメモ②」を支払った。
  リアル対面とバーチャル対面、オンラインの経済効率性に優れた出会いと、非常に面倒で非効率的なオフラインの出会い、どちらが良いということではなく、こういうズレが常に意識されざるを得ない〈いまここ〉に私の身体はあるんだと強く感じる。あと、眞島さんの「私」人形劇がグゥ良かった…最高だ……。

演劇を見るというと、(まぁ大勢は変わらないだろうけど)、劇場で〇〇〇〇円のチケット代を支払い客席に座って1時間〜3時間くらいのドラマないしシアターパフォーマンスを見るといったイメージはオンライン配信・上演の普及によって、ある程度ひとつの選択肢に過ぎないと意識されるようになる…のか? 演劇はどちらかというと一つの場に集まり(収容され)、身体を拘束される苦痛を我慢しながら集中力を発揮してみるものだとされがちだと思われるが、今日の上演は明らかに「ながら見」が想定されていた。それは(個々の趣味において)見る必要のないスルーの対象(演劇ではない)になるのかどうか。

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「右上にある」第二部

ステルス演劇の金字塔! 例のアレの第二部に参加! 蟻上樹をつくってみんなで持ち寄る! 絶妙なお味でした!

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F/T「その旅の旅の旅」のデモ版

セノ派による移動祝祭商店街のプログラムのひとつ。杉山至さんが企画。パンフやWEBサイトの地図を頼りにまちなかに設けられた〈景〉をめぐる。自分で〈景〉を投稿することもできる。とくさしけんごさんの「街の調性」は現場に立って聴くとマジでゾワゾワする。

とくさしけんご「街の調性 6 椎名町 すずらん通り」

  とファビアン・プリオヴィルのVRダンス作品を見た。とくさし氏はバイノーラル録音の音響作品で、音像によって風景の幻を「見せる」ことに成功している。驚いた。聴くことが「観る」ことを喚起するのだ。私が幽霊になったのか、風景が幽霊化したのか。
  ファビアン氏は星野リゾートのロビーを使った5分程度の作品。VRゴーグルを装着するとまさに自分がいる部屋の360°映像が流れ、4人のダンサーが踊り始める。頭では別撮りの映像であるとわかりながら、しかし感覚の水準で「そこ」に人がいるのだと騙されてしまう。
  これら視聴覚者の知覚に直接働きかける装置は作品というより、現実を半透明にするトリガーになっている。フィクションを完結した時空間として立ち上げるのではない。現実の時空間にフィクションを差し込み、現実認識を「まだら」にする。演劇の受容環境にいまかなり変なことが起こっていると思う。変なことっていうか、いや、やっぱり変な感じではあるな。もちろんコロナ以後に人と人の接触が制限された環境下では空間や時間、観客の身体のあり方を再考せざるを得ない。そうした状況を規定する大きな文脈があるわけなのだが。

井上道義×野田秀樹「フィガロの結婚」

  すげー面白いんだけど…と思ってたら、最後はハッピーエンド大団円にならんで夫人の逆襲、あるいは暴発で終わった。ふつうに読めばこれまで領主の権力を盾に性的関係を強要してきた(性暴力加害者の)アルマヴィーヴァ伯爵にたいする告発である。しかも夫人の方が犯罪者として捕まったことをにおわせる描写で幕切れ。
  舞台は長崎で、「伯爵と伯爵夫人を乗せた黒船がやってまいります」と冒頭説明されるから、大雑把だけど黒船=オペラで日本の文化的支配を達成した領主=西洋にひざまづき略奪される日本人(フィガ郎、スザ女など)という隠喩的図式が下地にあり、だから領主を撃つ=西洋への不服従の表明とも受け取れる。
  しかし地下で「トランスフィールドfromアジア」の展示上演がなされているなか、最上階では「西洋人になりたい日本人」の歪んだコンプレックスの裏返しである西洋への反逆が「フィガロの結婚」の野田的解釈として上演されているのは、なんというか違和感バリバリあるね。
  でもやっぱ最後の異化効果は舞台表象の水準でうまく決まってたな。最初は何が起こってるのかわからんかった。気づかない観客もいたんじゃないか。全体的に時代考証もなにもむちゃくちゃでまんがのような、だからあれだ『銀魂』みたいな感じだった(動ポモですね)。でした。

関川航平「今日」

関川さんのパフォーマンスをみるのは初めて。とてつもなくすごい。夢遊病者のようにといってしまえば簡単だがそういうことではない。ある種の反射神経で複数の可能世界をスイッチしていくと言いたいがこれでは伝わらないだろう。ともかくすごいので未見の方は必見です。

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村川拓也『ムーンライト』

村川の質問に応じる形で御年78歳の中島昭夫さんが自らの人生をふりかえり、随所で彼の思い出の楽曲が各年代の女性によってピアノ演奏される。ラストの在と不在、そのどちらでもない記録映像でのみ生き続ける幽霊的な在を浮かび上がらせる仕掛けが見事だった。

村川さんの作品をみるのは久しぶりだったが、観者のまなざしのうちで不在の人物が(その身体において)あらわれるという演劇の原理的性質を通じて、そこに誰かが「在る」とはどういうことか?を村川さんは問い続けているのだと思う。これは委任されたパフォーマンスの文脈とどれほど重なりあうのだろう。


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