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Twitter感想ログ_2020/11

ファビアン・プリオヴィル・ダンス・カンパニー
『Rendez-Vous Otsuka South & North』

トランパル大塚版を見た。場のレイヤーを重ねる工夫が二重三重に仕掛けられていて、星野リゾート版よりも圧倒的に優れている。わたしたちの空間認識には(実は)レイヤー感覚が備わっており、この感覚を通じて場に上書きされた複数の時間の記憶を読み取ることができるのだということがよくわかる。

只石博紀 「cursed172212211 / too old to camp」

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2時間ほど。パフォーマンスパートで吉原公園に行き、最初はいくつか行為する只石さんに合わせていたピントがゆるみ、自分の身体が風景に開かれていく。見る見られる関係がほどける体感はまるで映画が終わった後の時間の映画に居合わせたようだった。映画を観終わった後の気怠い時間、だからそれは映画後=死後の世界でもあるわけだ。たしかにそんな感じの、とても不可思議な体感だったなぁ。

林千歩「BL(バードライフとボーイズラブ/崖の上のティボリ」

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とても良かった。鳥に扮した官能的な踊り、BL、人形の残酷劇で構成された映像作品。ヘテロな性器結合主義とも男性視線の性的魅力とも無縁のエロティシズムが実演されていた。高田冬彦さんの映像作品とのつながりも気になる。

関川航平『言葉はわかるが、話は通じない』

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新宿歌舞伎町デカメロンで開催中の関川航平『言葉はわかるが、話は通じない』(あの(独演))が素晴らしいのでおすすめです今週末まで。円盤に乗る派『ウォーターフォールを追いかけて』の孤独を煮詰めたような作品です。わたしたちを結びつける絆はないが分断のなかで話は通じなくても言葉はわかるのだ。記憶の酩酊と非人称の記憶。バラバラに裁断された知覚の影を追いかけて。

大石一貴「いくつもの水場:川底の石、川岸の石」

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水切り。大石さんの美しきフォーム。矢野くんとも会った。で、この後帰って13時間寝てしまった……。

山岡さ希子『Blessing Breathes』

息、ボールの弾み、紙の燃焼、タクト、自殺の模倣、など生命現象を複数の諸要素に翻訳・解体。人間から解き放たれた生命の連関を、環境との関わりの布置に差し戻して遊ばせる。三野新「『息』をし続けている」と合わせて見たい。

堀企画『水の駅』

「沈黙」を強いられる1980年代的想像力の背景にはアメリカを父=理想とした記号消費社会の進行で「日本」の深層に「戦後の焼野原」のトラウマが抑圧されるという図式があったはずだ。さらに、焼け野原は米ソ冷戦で未来に起こりうるかもしれない核戦争の廃墟と結びつく。未来と過去の円環は閉じられ、常にすでにゼロ=焼け野原の原風景へ回帰する想像力のもとで、喪われた日本人の(文化的)主体性を神話的/ナショナルな起源において生産=捏造する身振りがアングラ小劇場の基本的な戦略になる。

そこで初めて「西欧」の略奪で固有の政治的・文化的な言語を奪われた「民衆」=裸形の人間=日本人の「失語」に同時代的なリアリティが与えられたはずだ。だがいまだに「焼け野原」のナショナルアイデンティティ(の捏造)に切迫したリアリティを感じるものなどいるだろうか?

だから、焼け野原の具体性を削ぎ落として、『水の駅2』で指定されているような舞台装置を採用したのだろう。『水の駅』で描かれる「失語」の主題は、冷戦期の自閉的な円環の想像力とは異なる形で、現在進行形の新たな「失語」のあり方として挑発的・批評的な上演を企図することも可能かもしれない。

しかしでは、現在形のリアリティ/批評性とは何なのか。そこがよくわからない。普通に「弱い身体」で『水の駅』映像をそこそこトレースしているように見える。結局、『水の駅』の沈黙する身体のアウラ(要約不可能性)の美的強度の反復が目指されている。裸形=起源が抽象的に(ある意味では中途半端に)析出される。そこで「誰」が来るのかが問題視されているようには見えない。

だとすれば、それはアングラを神秘主義的ノスタルジーのもとで非歴史化する文化的収奪の身振り(商品化)と何が違うのか。そのアングラの神秘的「沈黙」の反復は、狂騒的な情報の氾濫と経済的・社会的ロールモデルの消滅により不安定に多重化した〈孤〉が直面する「郵便的不安」からの逃避に過ぎないのではないか(いまにはじまったことではない、とは言えるが)。

そもそも「沈黙」から「われわれ」人間の全体性=調和的な共同身体が回復されるとする幻想の惹起はさすがに厳しいと思える。普遍性を装い、沈黙(イメージ)のうちで民族が語る、そうした民族中心主義(この日本人中産階級の身体こそが本当の人間だ)に陥る危険が真剣に検討されているようには思えない。

また『水の駅』は転形劇場の持続的な集団創作の現場(劇団)を基盤に初めて身体の「強度」を獲得しただろう。実際「台本について」でも、資料から稽古場でエチュードして作ったようなことが書いてある。だとすれば劇団制度が(家父長制とともに)解体されつつある現在において、身体の強度の生産を目指すのではない、また別種の集団(というより集合?)創作から可能になる本質主義的ではない身体の使用が探られて良かったのではないか。それが『水の駅』への批評的応答になるのではないか。

と、私は思った。異論バリバリあると思いますが。細分化された趣味の乱立がフラットに可視化されるネット時代に、批判は「否定」にしか見えないし、意味がない。でも今回は諸事情で、こうして言ってみることにする。作品を非難したいわけでも、堀企画「アンチ」なわけでもない。

佐々木すーじんさんがブッこまれるところが好きでした。いずこからか電波のノイズが混ざってしまう。放って置かれる「沈黙」の空間は不可避的に崩される。あと(もしかしたら通念とは異なり)『水の駅』は悪夢。ホラー、エロス、バイオレンス。舞台を見て、了解されました。

人間劇場『行人日記』

原作は夏目漱石「行人」。原沢、智春、奈々江、康之がビデオレターの形式で己の内面を語っていく圧巻のモノローグ劇。「人間劇場」という「反時代的」なユニット名もさることながら、出演者のものすごい「圧」に恐れをなした。ただし、その「圧」はむろん滑稽である。

しかし滑稽であることこそが「人間」であるための最後の身振りなのではないか。そんなことを思わされる。三角関係にある相手の内面が見透かせないことの苦悩と疑心暗鬼にまみれた彼/女らは、文字通り七転八倒する。進化するテレ技術は、こうした不可視の〈他者〉(近代的自我)と出会わなことを可能にしてきた。電話、メール、掲示板、ソーシャルメディア、ZOOMと、メディアはさまざまな仕組みで〈他者〉の統一をバラバラにし、最適で心地よい便利な距離を提供してきた。その便利な距離を私たちは肯定する。それは出会いが過剰に可視化された都市の生存戦略に最も馴染むモードだからだ。

しかし、だからといって、身近な〈他者〉とのやむにやまれぬ衝突、複雑に絡み合った関係の糸で縛られる苦痛、内面の「奥行き」に迷い込む経験、そして他者に対する責任はまったく消滅するわけではない。それがあたかも「ない」かのように目を背けることはまた別種のイデオロギーである。

人間劇場は、これから20年、30年続けていく気概を持って始まったという。孤独な自我の不気味な深淵を覗かせる『行人日記』は、まさに「人間とはいかにありうるか」という切実な問いを投げかける。こうして彼/女らは、人間劇場の名に偽りのない記念すべき一歩を踏み出したのである。

円盤に乗る派『流刑地エウロパ』リーディング

なんとなく双子地球の思考実験を思い起こす。この有名な思考実験では宇宙のどこかに水の分子構成以外は地球とまったく同一の「双子地球」があるとされる。本作を見ていると実は私たちの地球は「双子地球」なのではないかという気がしてくる。

GAKU -MCの「25°に保たれた街」とか石田徹也の牛丼流し込まれてる絵みたいな強烈な偽物感、憂鬱感。お決まりの「終わりなき日常」ですかと言われそうだしそうだけど、サカキバラに象徴されていた浮遊する主体喪失はカゲヤマさんの戯曲の通奏低音になっているように感じられる。身近な実感としてはね。

シャルロット・デュマ、寺澤亜彩加×藤城光、オンライントーク

オンライントーク同時に聞いてる。動物との感情的なつながりや協働から、人間/自分自身の理解が促されるとするシャルロット・デュマと、土地の呼びかけに呼応・共鳴し、人間/自分自身を媒体にすることで土地のはたらきかけ(生命の喩性)を顕現させようとする寺澤亜彩加×藤城光。

演劇は人間のシステムだから限界を感じた、自然と人間のあいだを考えて庭師の修行を始めた(寺澤さん)。地震や台風の災禍があると、自然との関係を快復させるためにまず始めるのが泥かき。それは鍬で土を耕すことに似ている。土に語りかけ、語りかけられる(小松さん)。面白かった。

オル太『超衆芸術スタンドプレー 夜明けから夜明けまで』

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これ少しずつ考えたいが、村山知義をなぜ引っ張ってきたのかわからなくて、聞いてみたかった。どこかに書いてるかもしれないが。村山知義は尾形亀之助らと前衛芸術団体マヴォを結成して、みんな亀之助を金づるとして扱ったというので、どうもイメージ悪くなってるのもあるが。イメージだけど。

小田尚稔の演劇『罪と愛』

暴発寸前のワーキングプアの悲哀を描く私演劇。作家本人を思わせる「男」を複数人の俳優が演じるドキュメンタリー的な演出の戦略を用いる。興味深く感じるのは「男」を複数人が演じている、という形式の記述はおそらく不正確になるだろうということ。

ボロアパートで妄想に悩まされる劇作家、お台場の自由の女神を爆破しようとするテロリスト、借金まみれで家賃が払えず大家を殺害してしまうギャンブル狂など登場する男たちは、将来に希望の持てない「負け組」男子という点では共通しているが、職業、境遇、展開される行為は異なる。

だから男が生きたかもしれない複数のタイムライン(人生)をひとつの空間に重ねている。そう見える。「演劇」で観客は役と俳優を同時に見る。だから俳優が複数の役に見えることもあるし、逆に複数の俳優がひとつの役に見えることもある。ここで役は演技のパフォーマンスを引き出す媒体/素材なのだ。

しかしこれを、ごくごく似ているだけの別人だと見ることもでき、そしてこれが私の実感に近い。うまく説明できないが、私は本作からおそらくそう見えるだろう負け組のガス抜き演劇とも、自意識過剰な(小さい)内面の葛藤劇とも違う感触を得ていた。どのようにもありえたかもしれない生を、ただそのようにありえたものとして引き受ける身振りの演劇だ。小田の作品は確率的な生に対する不気味な肯定があるように思える。言い換えれば本作は自由の女神を爆破してもかまわないと言うのではなく、爆破したとしてもそれはそれで引き受ける(ざるをえない)という極めてドライな現実認識がある。

私演劇であるので当然その欠落した政治意識、(麻生太郎が述べていたが)政治を意識する必要がない自意識の肯定/否定にかかずらわっていられる呑気な凡庸さの発露=モノローグ(半径5メートルの演劇)と見る向きもあるかもしれない。しかし、ごくごく似ているだけの別人の確率的な生の描写と見るならば、それは似ているなどというカテゴライズを拒否する確率的な生のパフォーマンスである。私はそういう可能性をまず受け取ることなしに、観客性を特権化する身振りはダサいと感じる。

単純に感動した、共感したなどという感想はもちろん自閉的なセラピーであるが。そうではないと言っている。

岩渕貞太 身体地図『Gold Experience』

大雑把だが象形文字的身振りの根源的情動=表現主義の再訪? ジョジョ的には過剰な生命力の暴走で、触覚的受容の先鋭化? とか考える。停止しているように見えながら時間の負荷を帯びた水で遊ぶニンフ=情念定型的なイメージに生を与えるといったような。政治的な生のパフォーマンスである、と言っても良い。

米澤一平 × 武本拓也「In The Zone vol.81」『野晒』

めっちゃかっこいい。音がうねり、身体が軋み、闇と影と轟音が混じり合う。ふたりに対話的な関係がないのが良かった。犬と人間は空間を共有してるが生きてる世界は違う。そんな感じ。

改めて思うが武本の身体は民族的・神話的な起源としての深層をイメージさせない。ただ曝されている。だから米澤のタップと共振(してるように見え)はしても意味にならない。読んでも良いがあくまでそれは解釈を誘惑しない非記号的な表面であり、趣味判断を欠いた分析的/知的な読解しか受け付けない。

座・高円寺舞台芸術公開講座「パフォーマンスの未来ー2020からの思考ー」第一回「波動を通して演劇を考える」(鴻英良)

行ってきた。ここから今日含めて鴻さんが三回、内野さんが三回、佐々木さん、高橋さんと続いてく。最後は4人の座談会になるみたい。実はけっこうすごい講座。

今日の講義ではコロナ禍に対するアガンベンの応答は「ボケ老人の戯言なのか」が問われる。そこで「監獄から収容所へ」のテーゼを振り返りつつカントールがベケット『ゴドー』をレジスタンスの精神として読んだことから20世紀の芸術は近代の権力システムに対する抵抗とその方法の探求としてあったと指摘。

そして、アガンベンが死者の埋葬をめぐる『アンティゴネ』に言及していることに着目。ギリシャ悲劇は「ビオス・ポリティコス」、ポリス的な良き生の探求と検証の場だった。だから埋葬の合法/違法をめぐる政治的な問いを投げかける『アンティゴネ』は重要だった。

にもかかわらず、3000年後のいま、死者の弔いが何の議論もなく禁止されるコロナ禍の現状をアガンベンは嘆く。それは良き生の形成に参与する「演劇」の死も意味している。

だからニューノーマルの歓迎は「収容所」へのレジスタンスを骨抜きにした「収容所の愉楽」の完成形態であり、3000年の歴史を持つ人間と演劇の終焉である。これがアガンベンの診断/問いだと鴻さん。

また演劇がビオス・ポリティコスについて考えることを可能にしたのは「大勢で集まって見る」というスペクタクルの構造があったから。その「集まり」の構造から生まれる思考で現在の世界像はつくられている。だから、集まらな(れ)ないことは世界像そのものを変える。

最後に「演劇が消えたら世界が消えますよ、保証します」笑で締め括り! 私は収容所の愉楽を享受する生はいわゆる「動物化」ということですか? と質問したりした。「波動」は次回以降かな…。ともかくこの講座どう見てもヤバいので、「演劇」業界内外関係なくぜひ参加してみてほしいです!

地主麻衣子「ブレイン・シンフォニー」

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マジ半端ないっす。脳、石、ニューロン、絡み合う植物、砂丘、風車、風、電気信号、劣化したVHS…の喩性が張り巡らされた時空間に配置された私の身体は、それらとの模倣的な触発作用において喩的なモノのひとつに組み込まれる。

だから3階が…ヤバイんだよ…。ドアを開けると、ほとんど枯れた植物らが私を出迎える。そして、壁と床の三方向に備え付けられたスピーカーからは男女の声がする。さて、ここで私は誰であり、なぜここに立っているのか? あるいは風で吹き飛ばされる彼女の記憶の一部なのではないか。そんなSF的な疑問が頭をよぎってしまう。

『Social Works』読書会

プロローグ。実験的なアートパフォーマンスにおける視覚芸術/ポストオプティカルと上演芸術/ポストドラマの交錯状況を指摘しつつ、フラヌールの「タートル・ウォーク(亀の散歩)」が、ただゆっくり歩くだけであるのに、環境を異質化し、わたしたちの規範的な身体/知覚を支えている社会システムの偶発性を暴き出す。

それは環境と同調/一体化した身体には意識されないーたとえばー「自動車の運転」をサポートする工場労働、標識や信号、道路を舗装した行政などの複雑に絡み合った相互依存的なシステムを明るみに出す。だからジャクソンは美学的挑発と社会的挑発の一致に関心を向けるのだという。

ベケットの『ロッカバイ』を演劇としてみると遅すぎて帰りたくなったけど、20年後に色々学んだのちに彫刻としてみると速すぎるように感じた、という話はおもしろかったな。

二転三転『peel an Apple』

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二転三転はいわゆる俳優を中心としたアーティストコレクティブ。「集まり方の練習」が目的だと説明される。今回は展示形式で映像やテープを用いた体感型インタレーションや来場者と雑談するパフォーマンスが展開された。

指定の時間に瀧腰、外、花井がパフォーマンス作品を発表。瀧腰は「阿蘇山」をおわん、ねんどで造形したのち自らの身体で阿蘇山を形象化。外は花井のテクストをもとに、その朗読を音響で流しながら身振り的な(?)ダンスを踊る。瀧腰のもうひとつと花井の作品は見れなかった。

総じて俳優/ダンサーの個人的な経験を背景にした諸実践が、網状に編み込まれていく関係のプロセスに観客が参与可能な場が設計されていた、というかそういう志向性があるように思った。

ハラサオリのトライアウト『絶景』

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アフォーダンスで振付する/環境に振付られるダンス作品の形態を目指しているとのことで、パフォーマンスでは確かにダンサーが環境との関係を身振りと運動に変換するさまが見て取れた(一番わかりやすいのがミラーリング)。

ただ岸裕真と共同制作した映像作品を見ると、そのねらいの本丸は原形質性の現勢化にあるのでないか。AIが生成したハラサオリのダンスは音楽刺激に反応し、自由に形状変化する流動体のようシミュレートされる。その表象はアニメ的であり、流転する形象の力としての原形質性を抽出する試みに思えた。

重視されるマイクロスリップはフォーサイス的なオフバランスを認知科学的な語彙に置き換えてる感じがする。だから身体を取り巻く環境を可視化することや環境に振付られる身体の運動を見せることよりも、相互作用的なシステムのなかで制御不能な運動の自己生成が生じることに関心の所在がある気がした。

米澤一平 × 田上碧 「Yotsuya Kissa Sakaiki Last SESSIONs vol.8」

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まじで最高でした!本当に素晴らしいです泣。この時間が永遠に続くこと祈りました。市松さんと出くわして「それは田上さんのファンということですね」「本当それ」ってな心温まる交流をしました。

一平さんが武本さんとの共演とはまったく違う場の立ち方/居方をしていた。話を聞いたら、このシリーズ(4年続いてる!)はショーにしない時間のなかで、異種のパフォーマーが「共にいられる」ことを目指しているとのこと。たしかに一平さんは場の空気を柔らかく生起させる。空間を呼吸させるように。

つまり意識的には捉えきれない場を流動するさまざま雑多な情報(音、光、観客、物etc)に微細に反応して、時間と空間にベクトルを与えている、といったような。イメージですが、タップは音とリズムを刻み場に生命を与えて生きた空間にする。それをいわゆるタップだけでなく、音照の操作、物の配置、観客とのやり取り、共演者に応接した即興を通じて、非常に細かくパフォームしている。言い方を変えれば、それらは全てタップである、というふうにも言えるかもしれない。


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