新聞家の〈源-風景〉/新聞家『砂漠』について

 私が「観客に意味を完璧に伝えようと思ってるんですか?」と聞くと、村社は「そうだ」と答えた。私にとってこれは、意外な答えだった――。
 ダンス批評家の木村覚が「演劇というジャンルをここまでドライにモダニズム芸術へと仕立てたその試みには、目を見張るものがある」といち早く評価したように、新聞家の村社祐太朗は、近年最も注目される演劇作家のひとりである。
 木村の評からも知られるように、かれはすでに「新聞家スタイル」と呼ばれておかしくないフォルムを確立している。その大きな特徴は、テクストの文語的文体と、その意味を噛みしめるように発話される独特のデクラメーションにある。SCOOLで開催された展覧会「ものかたりのまえとあと」の関連イベントとして上演された『砂漠』にも同様の傾向は見て取れる。しかしなぜ新聞家はそのようなスタイルをとるのか。上演後の「意見会」で覚えた違和感を出発点に考えてみたい。
 「意見会」は、作品に対する疑問や意見に対して村社が応答する場。そこで村社の演出方法に話が及んだとき、かれは俳優がテクストの意味を正確に取ることができるように、稽古のなかで綿密にすり合わせていくのだと説明した。しかし私はその答えに違和感を覚え、冒頭の問いを投げかけたのだった。というのも、『砂漠』はもとより、新聞家の上演に接した観客は、テクストの意味を取ることの困難さに直面するように思えるからだ。たとえば、『砂漠』は次のように書き出される。

シーズーなんか連れてくるんじゃなかったと、天に向けて川の字をつくる親子連れから声がした。シーズーが砂まみれになっているかどうかはここから分からない。代わり、同じパッケージの飯を食う他の種の犬の気配がした。銀の傘がしなって、ママの手提げからモバイルバッテリーが逃げ出た。悲鳴が砂丘に響いた。

 実際の上演では、この風景をいちいち想起するように俳優は身体を緊張させ、分節で言葉を区切りながら、ゆっくりと発話する。そのスローペースのナラティブに耳をすませていると、15分にも満たないはずの上演時間が引き伸ばされて、クッションに座る俳優(吉田舞雪)が、蜃気楼に揺らぐ砂漠の風景へと迷い込んでいくようにも見えてくる。
 こうした私の抱いた印象が、テクストの「多視点」的な構造によって引き起こされていることに注目したい。本文をよく読むと「シーズーを連れてきた」ことを後悔する人物の視点、その声を聞いた人物の視点、銀の傘のしなりを見ている視点といった具合に、独白に内包された多数の視点がめまぐるしく入れ替わっていることに気づくはずだ。
 つまり、観客は発語の瞬間瞬間まで、語られる内容が〈誰〉にフォーカスされた経験であるのかわからない。言葉を変えれば、俳優が語る砂漠の風景は、固定された視点からの描写によって再現されているというより、バラバラに遍在する多視点からのナラティブによって、そのつどごとに現象させられている。その集積が一種の蜃気楼のように砂漠のイメージを産出する。だから、観客が言葉の正確な意味を取る=「発話者が意図した風景を思い浮かべる」ことは難しい。むしろテクストは、一義的な正確さを持たない多元的な風景の〈群れ〉を生み出す〈源-風景〉として機能している。一見して際立つシンプルなフォルムとは裏腹に、ざわめく風景の〈群れ〉がそこに立ち現れるのだ。
 とはいえ、この分析は村社が言う「正確さ」とは相反する見解であり、そのために私はいささか混乱したのだった。ところが、新聞家のHPで見つけたある一文を参照すると、〈源-風景〉の「多元性」と「正確さ」が実のところ相反しないことが伺える。明石家さんまが「女の理不尽さ」を理解できないと主張したことに対して。

さんまが被っていると思った「理不尽」というのは実際には物事の「複雑さ」のことで、それを見逃すことになったさんまの態度にこそ「単純化」としか言い表せない問題が覆い被さっている……
(2016.5.6 『帰る』に寄せて2「単純化」)

 この視座は、村社のテクストに対する態度をよく示している。つまり新聞家の上演スタイルは、物事の単純化に抗い、めまぐるしく継起する多元的風景の複雑さを複雑なままの〈理不尽さ=正確さ〉で想起するための態度なのだ。
 では、なぜ村社は、私が〈源-風景〉と呼ぶ多元的な複雑さへと向かうのか。私はそれを「過去の重み」がゆえに、と考えてみたい。ときに人は「過去の重み」と口にする。だがそう言うことで、逆に「過去の重み」を忘れもするのだ。しかし重みを持つ過去は、想い出し切れない複雑な記憶の細部を含み持つからこそ重い。現在を根拠付ける神話的起原となる「原風景」とは違い、〈源-風景〉は想い出すべきことを増殖させ、それゆえ〈過去〉に無限の重みを付与していく。
 新聞家の実践は、この計測不能な〈過去〉の重みを、しかし正確に計測することへ向けた飽くなき試行である。すなわち、想起された過去と直に触れることのできる時間の創出。新聞家の注目すベきは、潜在する過去の「実在」に触れようとするこの態度に胚胎している。

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