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浮遊する霊園、縁取られる出会い―硬軟企画「超絶縁体ⅱ」について

 霊園に足を踏み入れたことなど久しくなかった。墓参りをした記憶は遥か遠く、親類縁者とは子供の頃に会ったきりで、血縁の墓があるかどうかもわたしは知らない。わたしにとって霊園は実質的なつながりをもたない浮いた場所だった。しかしそれゆえに縁取られる霊園がありうることを体験させてくれたのが、アーティストの硬軟が企画する「超絶縁体ⅱ」である。

 7月25日(土)に開催された「超絶縁体ⅱ」は、昨年4月に続いて、2度目の開催となる。参加「出園者」はアグネス吉井、うらあやか、硬軟、関優花、武本拓也、田上碧、たくみちゃん、トモトシ、村上慧。開催場所は、とある霊園であるが、一般には告知されず、空メールを送信するか、ネットプリントで印刷することで初めてわかる仕掛けになっている。硬軟いわく、参加するためにはひと手間かけなければいけないというかたちにしたかったとのこと。
 早速、空メールを送ると案内状の返信があり、次のように本企画について説明されていた。

「超絶縁体」はいわゆるパフォーマンスイベントではない。超絶縁体はいわゆる展覧会ではない。出園者たちは〈ただそこにいるだけ〉〈移動するだけ〉を許されている。超絶縁体は縁を形成する技法・縁を切断する技法をその身体でもって実践する場である。

 「縁」の形成と切断が起こりうる場を設えること。「縁」は、あらかじめ決められた関係において結ばれる(パフォーマンスイベント)わけでもなければ、あらかじめ人と切断されて安定したモノとのあいだで結ばれる(展覧会)わけでもない。
 とりあえずは縁が切れた状態に置かれる出園者、来園者、墓参りに来た人たち、あるいは墓石や木々や仏花や飛び回る虫たちとの出会いが起こる/起こらないのあいだにたゆたう「縁」のかたちを「身体」の介在において浮き上がらせること/経験させること、それが本企画で目論まれていた「縁」の技法であったように思う。
 実際、ⅰに比べれば出園者が〈いる〉〈移動する〉敷地は狭まっているとはいえ、そこそこに広く、木々や墓石が視界をさえぎる霊園内では、出園者を見つけ出すのも一苦労なのだ。もちろん、出園者を探して「歩く」という行為は、「縁の形成」にとって、欠かすことのできない構成要素になっている。
 それぞれの来園者が歩き、環境の中から拾い上げたさまざまな情報によって、霊園に潜在している「縁」のかたちはおのずと変化していく。確かに来園者はこの霊園に集まっているが、そこで結ばれる体験の実質はまったくバラバラなのであり、その意味では集った人々の誰もがすれ違っているのであるし、ひとつの縁で結ばれ損ねているのである。
 しかし、それはまったく当たり前のことだと言われるかもしれない。一つの場所が与えられたからと言って、個々人がまったく同じ体験を共有するわけではないでしょうと。だが、それが「当たり前」だからこそ、われわれはライブに「当たり前」ではない感動や教養や歴史や言語の共有による一体感を要求するのではないか(必ずしも祝祭性を要求するのではない)。当たり前にバラバラであることは、言うほど簡単なことではない。そこにこそ、集まりの技術―縁の技法―が要請されるのだ。

 というわけで、わたしが体験した範囲に限られるが、どういった順序で何が拾われていったのか、そこで働いた連想も含めて、つらつらと記述していってみたい。

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