演劇は〈ネット以後〉をいかに上演してきた/いくのか?――円盤に乗る派『ウォーターフォールを追いかけて』におけるドラマのアクセシビリティ/親密さについて
架空の存在であってはならない。大きな声を出してはならない。誰でもここで生きることはできる。静かで自由な場所に、円盤はやってくる。誰も興味はないかもしれないけれど、それに乗るということはよい物語だ。人間のかたちをして生きていくとき大事なのは、いつでも円盤に乗れるようにしておくことだ。そこでは見たことのない、知らないものがなぜか親しい。価値は過剰にはならない。然るべき未来について考える。時間は経っているが、周りに気づかれるほど長くはない。帰ってきたときも、誰にも興味はもたれない。
円盤に乗る派宣言(https://noruha.net/about)
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2018年に始動した「円盤に乗る派」は、sons woを前身とするカゲヤマ気象台・日和下駄・畠山峻・渋木すずのプロジェクトである。カゲヤマ気象台の戯曲を上演するだけではなく、冊子の発行・シンポジウム・ワークショップなどを通じて、作家・表現者がフラットにいられる時間と場所を作ることを目的としている。
円盤に乗る派WEBサイトのステイトメントでは、その活動のおおまかな方向性が語られている。大きな声ではなく小さな声、特権性ではなく無名性、演劇至上主義ではなく生活のなかの演劇、作品制作ではなく環境デザイン、といった転換のイメージである。
10月23日(金)~11月2日(月)のあいだ、全5回(10月23日、24日、30日、31日、11月2日[追加上演])にわたり『ウォーターフォールを追いかけて』がオンラインで上演された。円盤に乗る派としては3作目の最新作である。
なぜオンラインでの上演となったか。もちろん、COVID-19対策で接触と密集が(実質的に/自主的に)制限されている(た)からだ。これは演劇の危機だと言われている。演劇は劇場に集まって大勢で見るものだからだ。それはリアルな身体、ライヴ的な現前、フィジカルな対面性、舞台への没入といった諸特徴でイメージされる。
だからオンラインの上演は、コロナ渦における一種の応急処置(本物ではない演劇)のように思われている。しかし、『ウォーターフォールを追いかけて』の上演は、身体的共在の空間である劇場/シアターではなく、アーカイブの集積であるインターネット/シアターを媒介した、別種のリアリティをつくりだしている。したがって、それをたんなる応急処置として片づけることはできない。
それでは別種のリアリティとはなんなのか。私はそれを「アクセシビリティ(アクセスのしやすさ)」から生まれる「親密さ」であると主張してみたい。しかし、まずは作品の概要を追いかけていこう。
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