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想像力の〈脱‐法行為〉――4ヶ月後に「どうぶつえん」を思い出す

 とっても遅くなってしまったけど、ぼくは7月26日に開催されていた「どうぶつえんvol.12」に実は出演者として参加したのでした! その時にぼくは「書くことで間接的に参加したい」と言ったら、OK!ってことで、その日、小雨がぱらつく代々木公園でみんなのいろいろな行為を見ていたのです。
 「やるぞ!」と思いつつ、もう4ヶ月の時が経ってしまった! でもだから、せっかくだから、当時ぼくが撮った写真でも見ながら、あの日のことを思い出していきたいと思います。

※黑田菜月さんが撮影された美麗な写真はこちらで!

1.AokidⅠ

14時。原宿門から入ってすぐのところにある「Parks原宿」前に集合した出演メンバー。朴建雄、酒井直之、清原惟、篠田千明、松本遼平、田上碧、Aokid。ぼくにとってはたいていが初対面。どういう感じでなにが行われるのかも、正直、わかっていない。ドキドキしながら、ふらふらみんなについていく。すると、なにやら、人気のないところに入っていって…。

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Aokid! その場の大気と振動するようにギターをかき鳴らす音が、すこしずつ、音楽に、歌になっていく。即興で紡がれていく言葉は、緑色の葉っぱから、茶色い土、そして空気、風をなびかせて滑空するパラグライダーの自由な空へと広がっていく。一緒に空中遊泳をしているみたいな感覚になって、とても気持ちがいい。

と、そこに公園の管理人(?)の男性がすっと近づいてきて、たぶん「許可」についての話をしている。そう、代々木公園内でのライブには管理事務局の許可が必要で、あまりおおっぴらに「ライブ」感を出してしまうとアウトなのだ。

Aokidのストリートパフォーマンスには、いつもこの「許可」の問題がつきまとう。路上や公園はみんなの共有財産。ある人が自由に使い始めると、ほかの人の迷惑になって、公益性を損ねてしまう。だから誰かが管理している。でも、その「だから」はいったいなんだろう。その線引きは、だれが、どういう理由でするのだろう。

思い出してきた。全出演者のパフォーマンスが終了したあと、ちょっとエロティックなディスコっぽい(?)ダンスをしている集団を見かけた。そのひとたちはわいせつな(エロっぽい)格好をしているし、取り締まりの対象になってもおかしくない。でも、そうはなっていなかったし、そうなることもなさそうだ。なぜなら、エロくても何をしているかわかるから。でも、「どうぶつえん」の集まりは、ぱっと見てなにを目的に、どういう意味でやっているのかわからない。だからひとを不安にさせる。つまり、「公益」の内外を分ける線引きは、具体的な内容ではなく、不安にさせるかどうかで決まる。そういうことなんじゃないかなぁ。

2.松本遼平

ともかくその場にいられなくなったぼくたちは早々に立ちさる。そして、水飲み場があるところで立ち止まり、ブルーシートを敷いてピクニックの集団に大変身! こうすれば「イベント」ではまったくなくなるのだ。

ここから松本遼平さんによる「紙粘土」を使ったワークショップが始まった。15分くらいの時間を使って、水飲み場の蛇口を粘土で再現する。その時、自分の立ち位置を変えてはいけなくて、見えない部分は想像力を働かせてつくる。

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できた! が、若干、卑猥な気がする…。いや、かなりディテールにこだわって頑張ったのだけど、どうしてもそうなってしまう……。それはともかく、松本さんが遺伝子と進化の話をしていた。おそろしくうる覚えだけど、進化は弱肉強食ではなくて適者生存だから、無用な遺伝子のプールにも意味があるという話だった気がする。

そのあと、みんなで自分のつくった造形物を遠くまで投げる! そして誰が一番遠くまで届いたかを競う! つまり、ここで「良さ」のルールが変わるわけです。再現率高く美的に造形された蛇口でも、その形態が遠くまで投げることに適した形だとはかぎらない。そんなわけでみんな投げてって、地面にベチャベチャ落ちて行きました。アァ無情。

3.AokidⅡ

さらにここから噴水池の方に移動して、Aokidがダンスインストラクターみたいになり…。

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みんなでボチボチ踊る! 噴水ブッシャーとなってるのが良くて、そしてやっぱAokidのダンスは楽しい。なんだかすこし人ではないっぽい。精霊やモノノ怪のたぐい。そもそも踊るっていうのは、そういうことなのかも。

雨が強くなってきたから、僕は100円ローソンで買ったレインコートを着る。そうだ、また思い出したのだけれど、僕はこのレポートの書き出しを「その日は、朝から雨。どんよりとした気持ちで会場に向かう」にしようと思っていたんだった! なぜそうしようと思ったかは(すでにネタバレしてるけど…)このあとわかる。

4.篠田千明Ⅰ

Aokidのダンスはたしかまた警備の人と鉢合わせて終了。次は中央広場の木の下に集まって、篠田さんが「記憶」に関するワークショップを開く。

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少なくとも3時間後に思い出せるように、いまここで何かを覚えて欲しいと言われる。さて、ここが問題です。ぼくは果たして、このとき覚えたことを思い出せるでしょうか……。

結論。絵は浮かぶ。でも解像度の低いJPEG画像を見ているみたいに、細部がモアレでふやけている。言葉が出てこない。その絵を見ながら、もう一度言葉にしようとすると、「木の根のくぼみ、水が溜まっている? 石が沈んでいる? 篠田さんの手が光っている。」になる。肝心かなめの部分が思い出せていない。フラストレーション!

5.田上碧

雨は降りやまないどころか、少しずつ強くなっている。そこで…。

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田上さんが動いた…! 広大な広場の奥地へ、さっそうと消えていく。豆粒のようにちいさな姿が向こう側に見える。しばらくすると、カラスや子供たちの声にまじって、あきらかにそれじゃない声が…。田上さんだ。声を張り上げているが、内容まではわからない。

そのまま林の奥に足を踏み入れ、田上さんの姿は完全に見えなくなる。けれど、ときおり「カー」のような声は聞こえてくる……ような気がする。ここまでくると、どれが田上さんの声なのかあいまいになってくる。もしくは、ここに鳴っている鳥や人間の声が、すべてそれなのかもしれない。「こうして私は消え去る」。残されたのは、濡れそぼる緑の風景だけ。雨音の調べにからだをひたす。

ここで、不思議なことが起こる。晴れたのだ。さっきまでの雨が嘘のように、魔法のように、光が差し込み、澄み切った青空が広がっていく。

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そんなわけで……

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というわけです! 今回、もっとも劇的に感じられた瞬間。偶然であるけど、もしかしたら必然かもしれない。あまねく万物のうちに消えさる田上さんのパフォーマンスが、天候にまでその「触覚」を伸ばして雨雲に切れ目を入れたのかもしれない。などという魔術的な共鳴を想像させる業が「雨乞い」と言われる。

ぼくは科学的に説明される合理的な世界に、喩的な共鳴の世界を重ねる技術と想像力を、とても重要なものだと感じる。理屈は世界を共有する手段のひとつに過ぎない。それはいくら正しくても、ある立場を作りだし、埋められぬ政治的・文化的・経済的・ジェンダー的分断を生む。だから、喩的な共鳴から、理屈ではない世界の共有の回路ができることを、一瞬の仮初であったとしても、ぼくは良いことだと思う。すくなくとも、それをそう自覚することは良いことだと思う。

6. 酒井直之

広場で踊るアイデアを出したのは酒井直之さんだった。実は先ほどから、写真の中には登場している。

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この人だ! ダンサー/映像作家。パンデミックで自粛生活を余儀なくされ、上演系芸術のアーティストがオンラインの映像配信を通じたパフォーマンスを模索するなか、酒井さんは「撮影者の視点がダンサーで、レンズに映し出されるものがダンスだ」と考えて、「グローカル・トレーニング」というプロジェクトを始めた。

それで、今回の「どうぶつえん」でも、「グローカル・トレーニング」を持ち込んで、参加者とカメラを通じた「コンタクトインプロ」を続けていた。今回、撮影されていたダンス映像がどこかで公開されているのか、わからないので、どんな感じになるのかは以下から見てみて!

7.朴建雄

みんな踊った。ぼくも踊った。転がった。青空に虹のラインが引かれ、やり切ったすがすがしい雰囲気のなか、ドラマトゥルクの朴さんのリサーチをもとにしたツアーが始まる。ジャンケンをして負けた方が代々木公園の思い出をしゃべるというゲームをしながら、朴さんといっしょにみんなで移動。そうこうしているうちに、目的地につく。ここだ!

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日本航空発始の碑。戦前の代々木公園は陸軍練兵場として使われていて、戦後は米軍に接収されて軍用住宅地になっていたようだ。そして、日本で初めて飛行機を飛ばした場所でもあるとのこと。試運転の日には大勢の観衆が集まったけど、最初はエンジントラブルで上手くいかなくて、やっと飛んだ時には、ほとんど誰も見ていなかったそう。

2年前、写真家・西澤諭志さんの上野公園ツアーでも思ったけれど、公園にはさまざまな土地の記憶が「碑」のかたちで保存されている。だから、そこには残すべき記憶=正史をめぐる政治的な争いのあともなまなましく刻印されている。

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朴さんが紹介してくれた「日野熊蔵」と「徳川好敏歩」の彫像が並べて置かれているのも、どちらが初飛行の立役者であるかをめぐる争いがあった……のだと話されていた気がする。徳川家の勃興をかけて、とか。記憶が……。

8.篠田千明Ⅱ

最後は、篠田さんによる「思い出す」のワークショップの続き。

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この空間を地図に見立てて、参加者は自分が「記憶」した場所に立ち、そのあいだを回遊する数人に、それを伝える。回遊する役(観客役?)は交代していき、最終的にそれぞれが記憶したことを、みんなで共有するかたちになる。

この構成自体が、さすがというか、それそのものでワークショップとして満足度が高いだけではなくて、今日の締めくくりとして最高だった。一日の振り返り。過去から今へ、そして今日をともにした人たちとの記憶の共有。内容は思い出せない……のだが、人がなにかを思い出しているという姿は、なぜかおもしろい。遊戯的にフィクション(公園)の空間をつくりだすことで、公園という〈場〉に染みついている無数の記憶に想いを馳せる。そんな時間。

9.清原惟

さぁ、解散! ではあるのだけれど、最後に忘れてはいけない。清原さん。

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おわかりいただけるだろうか。ブレブレであるが、ケ〇ッピーである。いや、ケ〇ヨンか…? ともかくケロのたぐいを、レインコートのフードから伸びた木の枝の先にぶらさげ、なにやら動画を撮影している。この動画がどうなったのか、ぼくは知らない…。

こうしたわけで、超充実の「どうぶつえん」が終演! ぼくとしては、やっぱりこのイベントそのものが持つ「集まり」の力に心動かされた。パフォーマンスは法規制で包囲されたストリートに介入する。そして少しだけ浸食する。喩的な空間を重ねて想像力の〈脱-法行為〉をおこなう。ただ、それぞれのジャンル、社会的な属性、美意識から抜け出すのではなく、それはそれとしてありつつ、この「集まってしまっている」事実性から出発して、ある時間を共有する。けれども、そこにとどまることなく、それぞれの「現場」にパッと解散する。

Aokidのところで述べたけれど、こうしたゲリラ的な「集まり」の〈脱-法行為〉は、何をしているのかわからない。だから、人を不安にさせる。そして、不安を源泉にしたセキュリティ意識の高まりは、テロと芸術=意味不明的行為/モノをみわけがたくする。その不安に対する潔癖症は「公共空間」の意味を「空地」から「無菌室」へと変質させてしまうだろう。

だからこそ、なにがどの程度許容できるものなのか、それを知ること・伝えることは、公共空間を資本とセキュリティの論理で過剰に閉じてしまわないためにも大切なことだ。そして、換喩的・隠喩的に生じる見えない網状のネットワークは、特異な個々人の実践を通じて、きっと少しずつ「なにか」を変えている。ぼくにはそんなふうに思えるのだった。

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