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過去改変の可能性を探るマンガ付きネタバレ感想「仮面ライダーオーズ10th 復活のコアメダル」


ネタバレがありますので、ご注意ください。










はじめに

今作の制作発表があった際、脚本がメインライターの小林靖子さんではないと知って残念だったんですが、そこまで不安視はしていませんでした。

本編全48話中6話分を執筆された毛利亘宏さんの脚本には当時から世界観や人物像のズレを感じていたものの『MOVIE大戦 MEGA MAX』によって今作よりも先の未来が一部確定していたし、プロデューサーは当時と同じ武部直美さん、監督は第1話と最終話を撮った田崎竜太さんなので、台無しになるなんてことは無いだろうと思っていました。

でも蓋を開けてみれば、映司を第1話より前の状態に戻して作品ごと葬るような内容になってしまっていた。どこまでも伸びる腕、いつかの明日、誰も犠牲にしないための欲望、そういったこれまでのオーズらしさがまったく大事にされず、映司を死なせるのに使える設定や台詞やシチュエーションだけ切り取って曲解してまで使われていた。

助けたい相手に手が届かなかったという後悔の念から映司は解放されても、今度はアンクや比奈ちゃんやみんながそれを背負わされただけ。

それ以上に根本的な問題は、映司が満足するためにはアンクと出会う必要も、仮面ライダーになる必要も、比奈ちゃんたちみんなと関わる必要も一切無かったという元も子もない結末に持っていかれたことです。

こうなるともはや映司が満足したからいいんだとか、映司が死んだから駄目だとかいう次元の話ではありません。


オーズらしさとは

火野映司というのはその背景から、いかにも人助けをして死にそうなフラグがはじめから立っているキャラクターです。本人は第32話によれば死ぬつもりなんてないと一応釈明しているのに、誰かを助けるためなら絶対に手を伸ばすせいで自己犠牲によって死ぬのが似合ってしまうので、一般的な作品の世界観だとまず生き延びられないでしょう。

しかしオーズの世界観は、ピンチを突破する原動力としての欲望が徹底的に肯定されているおかげで、映司の厄介な死亡フラグをへし折るものすごいパワーがあります。

さらに物語中盤〜終盤にかけては、周りのキャラクターも映司のために手を伸ばすようになっていきます。プトティラの暴走を止めた比奈ちゃん、バースになってからは特に映司を案じて共闘した後藤さん、懸ける命の重さがわかっていないと諭した伊達さん、映司を都合のいい神様にしちゃいけないと言った信吾さん…そして自分のコアメダルを使わせ映司を生き延びさせたアンク。

あんな危なっかしい映司がどうにか死ななかったほど、欲望や誰かのために手を伸ばすことが肯定される世界観がオーズらしさだと私は思ってきました。それがまさか本編もMEGA MAXも巻き込んでひっくり返されるなんて。

パンフレット掲載の制作陣インタビューで判明しましたが、今作の方針はとにかく映司の死ありきでした。それもアンクと入れ違いで前もって死んでいるという念の入れようです。

映司にとってはあの結末でも満足できるだろうということだけは表面上納得できてしまうので、「映司の満足が描かれたんだからオーズらしい」「映司が満足したんだから尊重しなければ」といった想いを喚起しやすい面があって、そこがあまりにもたちが悪い。

いくら映司の手が誰かに届いても、映司には誰の手も届かずに死んだなんて結末は本編の全否定としか思えませんが、それを正当化するために映司の満足を盾にしているのが今作の非常にずるいところです。

私としては、映司の死亡フラグは本編最終話で消滅したものと思っていました。映司の結末について紆余曲折あったことは当時の小林さんのインタビューでも触れられていますが、最終的にみんなが差し伸べた手を掴み返せたことで、映司は自己犠牲による死が似合うからこそ生き延びるべきキャラクターとして描き切られたんだと捉えてきました。

そして割れたコアメダルと明日のパンツと「いつか…もう一度」という希望を持って新たな旅を始めた姿で本編が幕を閉じたことで、「どこまでも伸びる腕」と「いつかの明日」への様々な可能性を予感させるところが魅力のキャラクターへと進化したのは確かだと思います。

特に『平成ジェネレーションズFINAL』やひらかたパークでのビルドやリバイスとのコラボショーはそれが強く意識された客演になっていて、ある意味では最終話後にオーズは第二章に入ったかのようなイメージが広く共有されていたかもしれません。

しかし今作の制作陣は本編を否定して映司を前もって死なせて、映司の死亡フラグをへし折れるオーズらしい世界観も無力化させました。そして、映司は死ぬべくして死んだし満足してるんだと印象付けやすそうな設定やシチュエーションを強調するためだけにオマージュが多用され、各々の言動も強くコントロールされます。

映司は助けた女の子とアンク以外に何の関心も示さないし、アンクもあれだけ嘆く割にはおとなしく映司を看取ってしまうし、誰ひとり欲張る様子もないし、欲望の存在感がほとんどないから希望もない。初見はひたすら困惑と放心でした。

かつて映司の目の前で小さな女の子の明日が命ごと奪われてしまったからこそ、明日というキーワードが意味を持ったんじゃないのか。女の子を助けられなかったこのエピソードが、映司から明日を奪う大義名分として使われていいのか。

映司があの状況で女の子を助けるのは当然納得できるとして、映司も助かる展開にならない理由は何か。映司は自分の命と引き換えという形にならなければ、誰かを助けても満足できない自殺志願者とでもいうのか。

違和感を掘り下げていけばいくほど、憤りに変わっていきました。今さら映司がひとりですべてを背負い込んで死ぬ展開に、オーズらしさは何も感じられなかった。


代償?業?

パンフレットによると、アンクを復活させるには「代償」が必要という考えに制作陣がなぜか固執したために映司が死ぬ結末にされたことが読み取れます。

…欲望の「代償」なんてこれまでオーズで描かれてきたでしょうか?私が最も納得できないのはここです。

オーズでは欲望そのものは善でも悪でもなく純粋なエネルギーという扱いで、それは首尾一貫していました。最終話で鴻上会長も「今日という日を明日にすることさえ欲望だ」と言っているほどです。欲望が結果として暴走などの不都合をもたらすことは多々あっても、欲したものとの等価交換が描かれてきた物語ではありません。

たとえば『将軍と21のコアメダル』での映司は、大勢の人々の中で自分の家族だと認識している者以外を全員犠牲にするよう敵から迫られるというピンチに見舞われましたが、自分の欲望を利用する形で大胆に乗り切り、そこに代償なんて発生しませんでした。それどころか「これぐらいじゃないと俺の欲望は満たされない!」と敵の裏をかくことにも成功します。

第47話での知世子さんの言葉も象徴的です。
「映司くんとアンクちゃん、どっちかは戻ってくるなんてそんなの認めちゃだめよ!」
「もっと欲張っていいじゃない。映司くんもアンクちゃんもお兄さんも!ってちゃんと欲張れるのは比奈ちゃんだけよ?」

何かを犠牲にしないといけないとか、二兎を追う者は一兎をも得ず的なメッセージはまったくありません。むしろ、誰も犠牲にしないためにこそ欲張るべきだと発破をかけてくれています。

このようにオーズの世界観における欲望は、代償に縛られていないおかげで戦略性やギャンブル性があり、欲しがることが悪やリスクとは限らず、可能性や希望を生み出す力を持っているのが特徴です。欲望の中に希望があると言い換えてもいいかもしれません。

それに対して代償に縛られた欲望は、予定調和の中に閉じ込められます。代償は、逆説的にそれさえ払えば欲するものが対価として手に入るニュアンスが含まれてしまうので、命を差し出せば他の命が助かることが保証される単なる取り引きのようになりかねない。

取り引きであれば欲望は対価に釣り合う分だけ持っていればいいことになり、ピンチを突破するために利用するようなイメージではなくなります。対価ありきならば、対価より大きい欲望は不要です。オーズにおいて欲望をそんな小さな枠に収めてしまえば、すべてのキャラクターから熱量が失われてしまいます。

特に映司は、すでに人類の大半が犠牲になっているという状況なのに、早く古代オーズを倒したいという焦りや多くの人々を守れなかったことを悔やんでいる様子が全然ないので、地球規模の欲望を持っているようには見えません。(第36話でユニコーンヤミーが映司から取り出した夢が地球丸ごとだったエピソードは、今作と同じ毛利さんの脚本なのに)序章では世界についてほんの少し触れているものの、楽観的で悠長な雰囲気です。

映司の満足を演出するためには後悔や未練の言葉を一切言わせてはいけないので、世界の今後やこれまでの犠牲のことは映司に意識させないようにしたんでしょう。代償という概念では、映司の命と引き換えにしても世界を元に戻すことまではできませんから、その都合に合わせて映司の欲望の対象範囲が極限まで狭められています。助けた女の子とアンクだけ。

そしてアンクが引用した「楽して助かる命はない」も代償にこだわったためにねじ曲げられています。これはもともと命を助けるには全力を尽くさないといけないというニュアンスでしたが、今作では映司もアンクもそうはしていません。

映司はもう命を失っているところから始まるので、あとは看取られるシーンに向かって敷かれたレールの上を進んでいくだけ。アンクも映司に憑依してその死を悟った時点ですぐ諦めています。泣いて文句を言うものの、あとは映司が思い残し無くこの世を去れるようにという方向で尽くしてしまった。

おそらく「ああ、楽して助かる命はないっていうのは、命を代償にしなきゃ誰も助けられないって意味だったんだ」と印象付けて映司の死を納得させるのが目的の引用だったんでしょう。

また、毛利さんのインタビューでは映司が背負った「業」なるものにも触れられています。突然降って湧いたこれは何なんでしょうか。アンクを蘇らせようとする行動を指しているんでしょうか?それとも、かつて女の子を助けられなかった後悔を背負っていること?いずれにせよ「代償」と同じく業もこれまでのオーズでは用いられていない概念であり、欲望のエネルギーを相殺するブレーキになるだけです。

そして実際に、あれだけ突破力のあったオーズの世界が小さく小さく畳まれ閉じられてしまった。「こうならざるを得なかった」などという消去法なんかでオーズの物語が袋小路へ導かれてしまった。欲望が代償だの業だのに足を引っ張られるような物語じゃなかったのに。


「明日」の大切さ

主人公である映司の満足が、アンクの満足や「明日」を犠牲にして成り立ってしまったら、本編で描かれてきたもの全体が巻き添えになってしまいます。そうならないように、欲望に備わる無限の可能性がこれまでと同じように肯定される様を普通に見せてほしかった。

あれだけオマージュするのなら、アンクが憑依したまま映司がいつか目を覚ますのを待つのでもいい。どうしても命という代償が無いと締まらないなら、映司の残り寿命を半分ずつ分け合うのでもいい。「明日」を犠牲にしないやり方はいくらでもあったはずです。

「明日」にこだわるのは続編を制作し続けてほしいという意味ではありません。映司が死ぬとわかってしまえば、これまでの物語に素直に感動することが難しくなるからです。欲望でピンチを切り抜ける姿も、みんなが映司に手を伸ばした光景も、新たな旅の始まりも、アンクとの束の間の邂逅も、このあと映司はアンクと入れ違いで死ぬんだと頭をよぎればどんなに虚しくなるか。

キャラクターや世界観の生みの親ではなく、担当話数も僅かなサブライターが執筆したというのを知っている上で今作を観た人ばかりではないでしょうし、映司の死の不毛さにがっかりしたり納得できなかったり傷付いたり腹が立ったりして、これまでのオーズの物語にもう触れたくなくなった人もいるかもしれません。

興行成績が良くてもそれは今作が単独で支持されているんじゃなくて、あくまでも本編とその後の積み重ねが多くのファンを獲得してきたからです。知らない作品や興味の無い作品の完結編だけを、わざわざ映画館に足を運んでお金を払ってまで観る人はそうそういません。

本編放映から10年以上経ってもオーズが根強く愛されてきたのは、映司の新たな旅が今も続いているというイメージがファンにとっては想像を膨らませたり応援したりする甲斐を生み出すものだったからでしょう。もし本編の時点で「明日」が否定されているような作品だったらこんなに多くのファンはいなかったはずです。それに映画館には予想以上に親子連れが来ていたので、配信やゲーム等で新世代のファンを獲得する力もまだまだ持っていたと考えると本当にもったいない。


明日というキーワードはオーズにおいてとても重要でした。第1話の「いけますって。ちょっとのお金と明日のパンツさえあれば」から始まり、最終話のタイトルにも使われ、個人的にその集大成となったのがMEGA MAXで明かされた明日のパンツに映司が込めている想いでした。

「肝心なのは“明日の”ってとこ。これは今日をちゃんと生きて、明日へ行くための覚悟なんだ」

映司が「男はいつ死ぬかわからないから、パンツだけは一張羅を穿いとけって」と祖父の遺言を大事にしているのは、死にどころをいつも探しているという意味じゃないことがはっきり語られています。

それなのに今作のせいで、これまで劇中で使われてきたすべての「明日」という言葉が空虚なものに変えられてしまったことが本当に悔しいです。MEGA MAXの解釈にすら影響が及んでしまっていて、本当にたちが悪いとしか言いようがありません。あのアンクは映司をすでに看取っているなんて意識したところで、空々しくて痛々しくて観ていられない。

「大丈夫。君が挫けた『今日』は俺たちが守るから。俺たちはいつでも君の昨日を支えてる」…どんな気持ちでアンクはそれを聞いていることになるのか。

「きっちり生き残れ!」…どんな気持ちでアンクはこれを言っていることになるのか。

まるで重要シーンすべてに「※ただし10年後に死にます」という無粋な注釈をつけられてしまったかのようです。

そもそも映司が最終話で命を落とさなかったのは、
「映司!目ぇ覚ませ!死ぬぞ!」
「お前が掴む腕は、もう俺じゃないってことだ」
と、誰よりもアンクが映司の明日を願ったからです。

そして映司に都合のいい神様になってほしくないと願ってきたみんなも手を伸ばし、それを掴み返して受け止めてもらったから映司は生き延びて、アンクがいる明日を願って新たな旅を始めた。

これが丸1年かけて積み重ねられてきたオーズという物語の揺るぎない着地点ではなく、単なるオマージュの元ネタでしかないというものすごく軽い位置付けにされてしまっています。


映司が変だ

あのとき映司に届いたみんなの手が、願いが、欲望が今度こそ届かなかった。これは、映司が映司自身にとって都合のいい神様となってしまったせいだと私は感じました。女の子を助けたりアンクを復活させたりするために必要だったのが、みんなと手を繋いで作るどこまでも伸びる腕ではなくて、結局は映司の命だけでよかったというのだから。

確かに映司は人助けが絡むと「頼まれなくてもやる」面が徹底されてきたので、どうしても自己犠牲による死が似合ってしまう面があります。これまでのオーズの物語や世界観を無視して、ここだけをひたすら悪い方へ拡大解釈されたら「身勝手に死ぬ」という結末以外はあり得なくなってしまうし、その通りにされてしまったということなんでしょう。

ですから今作の映司はすごく一方的で独りよがりな印象になっていると感じました。最終話を反転させたオマージュが多用されましたが、アンクの場合は自分の利益を中心に行動していたキャラクターだからこそ「お前がやれって言うなら、お前が本当にやりたいことなんだよな」と映司が察して受け止めた時に、そこにお互いへの理解や思いやりがあることが引き立っていました。

それに対して映司はもともと他者のために行動するキャラクターなので、いくらアンクに無念を抱かせたくないにしても映司自ら「自分の一番したいことをしただけ」と強調すると「頼まれなくてもやる」を通り越して「相手が嫌がっても押し付ける」かのように見えるんです。ましてやアンクがボロボロに泣いてしまったので余計に。

しかも、いかにも台詞っぽい台詞というか自然な会話ではない印象を個人的には受けました。表情や口調や涙からは2人の感情がこれでもかと伝わってくるのに、アンクにだけは遠慮なく接してきた映司の素の言葉には聞こえなかった。

冒頭でも触れましたが私は毛利脚本にもともとズレを感じていて、それは台詞回しやキャラクターがステレオタイプという点です。特に第33話での「なっさけない!」の応酬は、感情に任せて2人とも同じことを同じノリで言い合っているだけなので、非常に子供っぽくベタさが顕著です。

一方、小林脚本ではこういう売り言葉に買い言葉のような状態にはなりにくく、駆け引きを含んだやり取りが多く見られます。

たとえばMEGA MAXでの
「ところでさ、お前がどうやって戻ってきたかまだ聞けてないんだけど」
「気にするなと言ったはずだ」
「じゃあこれだけ。一緒に戦うのってもしかしてこれが最後?」
「そうしたくなかったら、きっちり生き残れ!」
「わかった!お前もな!」

この流れの小気味よさは、アンクがどこまでなら話せるのかを映司が測りながらコミュニケーションをとっているところにあります。

第40話もそうです。
「お前は、お前の偽者に狙われてる。ちょっとでも不利になれば全部持ってかれる」
「それがお前に何の関係がある」
「困る。アンクだって困るでしょ」

もしここで映司が「お前を助けたい」なんて言ったら、助けられる側として扱われたくないアンクはその言葉に拒否反応を示したでしょう。でも「困る」の共有なら対等なままでいられます。

信吾を人質にできるアンクの方がどうしても有利になりやすい中で、アンクに主導権を握らせたくないときは「お前も結構使えるグリードだと思うよ(第8話)」と大胆に押す。アンクと円滑にコミュニケーションをとりたいときは、アンクがいちいち拒絶しなくて済む表現を使って引く。そうやって映司は序盤からバランスをとっていて、アンクと対等でいられる言葉を明らかに選んで使っているんです。対等でなければ利用し合う関係が成立しないからです。

補足するとこの第40話では比奈ちゃんも、情や愛着といった主観的な言葉を用いることなく「ただ一緒にいる時間が積み重なっちゃったのかなって。嫌いとか好きとかより前に」という事実ベースの表現を使っているので、3人が無理なくそれを共有しています。

こういった言葉の使われ方の差から小林脚本は「会話」で毛利脚本は「台詞」という印象を持っていたので、今作も全体的にベタな台詞が多いと感じましたし、特に精神世界シーンでは首を傾げてしまいました。

「なんで…死んだ」
「助けられるんだったら、手を伸ばすだろ?」
「自分の命を犠牲にしてまですることか」「それだけじゃない」
(中略)
「なんでそんなことした」
「なんでって…俺は自分の一番したいことをしただけ」

相手の疑問に対して正面から答えない点はMEGA MAXと同じなんですが、アンクにはどうすることもできない映司の死のせいでこのシーンでは2人が対等でなくなっています。完全に映司が主導権を握ってしまっているので全然2人のやり取りらしくない。

もちろん、無念であろうアンクのために身勝手を装っているともとれますし、両者が生きているときとはパワーバランスが変わってしまうのは当たり前かもしれませんが、そもそもこんな人工的なお涙頂戴のシチュエーションは望んでいませんでした。

だから映司役の渡部秀さんが、このシーンで泣くつもりじゃなかったのに涙が溢れてきたとパンフレットに載っていたのを読んだときに本当にホッとしました。今作では物語の外側から死に誘導されすぎていて、ほとんど操り人形のように動かされていた映司にちゃんとナマの部分があった。あのシーンで映司がずっとニコニコしたままだったらもうホラーでしたから…
(あと、シーン冒頭の「アーンク」の呼び掛けが平ジェネの時と同じトーンだったのは、映司だ!と思いました)

そしてああいう形でコアメダルが復活したことについては、たまたま致命傷を負ったのをきっかけにタダでは死ぬもんかと映司が欲張った結果だと解釈していたんですが、序章を観たところ「見つけたんだ。アンクを元に戻す方法を」と言っています。

これはまさか致命傷を負わなかったとしても、そのうちアンクのためにわざわざ命を捧げるつもりだったということなんでしょうか…?古代オーズが犠牲者を出し続けている中で、それを倒すなりその後の復興なりを諦めるようなことをあの映司が決意するなんて、無理があり過ぎます。

でもその一方で「みんなを救うんだ…俺たちの手で。こんなところで諦めてたら、アンクに笑われちゃうしね」と直前に言っているせいでどう解釈したらいいのか本当にわかりません。世界を救うことを諦めているのか諦めていないのか、アンクに命を捧げるつもりだったのかそうじゃないのかはっきりしてほしい。

もしアンクに助けられた自分の命をそのまま突っ返すつもりだとしたら、映司を生き延びさせたかったアンクの気持ちを踏みにじりすぎていて本末転倒だし、仮にアンクを蘇らせるには自分の命が必要だという展開になったとしても、これまでのオーズの世界観なら欲望を利用して解決できる余地があったはずです。

アンクの言葉を借りれば映司は「食えない」奴で、心が乾いているぶん物事に動じず、駆け引きや推理、先回りに長けている面がたびたび描かれてきました。そんなクレバーな映司が、アンク本人から頼まれたわけでもないのに復活を望むからには、その満足や願いを台無しにしない形をちゃんと模索してきたんじゃないかと私は考えています。

共存エンドを避けた弊害

アンクは寿命が無いという意味でも、満たされることが無いという意味でも命を持っていませんでした。だから「お前たちといる間にただのメダルの塊が死ぬところまで来た」という言葉が指す「お前たち」から、自分が命ある存在として扱われてきたことに満足を見出せた時、モノのように壊れて消えるだけの存在ならば実感するはずのない「死」を命の証明として受け止めました。

ということは他者が定義する命をそのまま与えても満足には繋がらず、アンク自身が命だと感じられる形でなければならない。

なので個人的には
1.寿命ができていずれまた自然に死ねる
2.信吾の身体を使わなくても五感が味わえる
3.アンクにとっての「お前たち」がいる

これらがなるべく実現する形の復活ならアンクも受け入れやすいんじゃないかと考えていたので、今作を観る前は1や2はともかく3だけは保証されているだろう…というより3が欠けてしまうなんてことは心配すらしていませんでした。

今作の制作陣は何がなんでも共存エンドを避けたかったように感じられますが、映司のあの死に様のせいで真木博士の思想が今になって肯定されてしまったことは深刻です。

真木博士は、生きようと足掻く者にとどめを刺したり見苦しいと言い放ったりしていましたが、かつて女の子を助けられなかった後悔から解放されて満足を感じながら足掻かずに死にゆく映司の姿は、まさに真木博士が求めた良き終末です。本編が最終的に無vs欲望という構造になってそこに主人公として決着をつけたからには、映司の満足は生き抜く中で感じるものとして描かれる必要があったんじゃないでしょうか。

そう考えると今作での死に様を「映司は仮面ライダーではなく人間として死なせてもらえた」「やっと映司は救われた」なんて好意的に受け取ることは私にはできません。なぜならそんなお膳立てなんてしなくても、ひとりで何でも背負い込むあの生き方なら、仮面ライダーになっていなければもっと早くに自己犠牲を完遂して死んでいたに決まっているからです。

アンクから使える馬鹿だと見込まれて初めての変身を遂げなければ、第1話でカマキリヤミーを止めようと立ち向かったあとそのまま殺されていたでしょう。もしそこを運良く逃れても、次は第2話で高層ビルへ人命救助に向かって転落したのでさすがに助からなさそうです。(ジオウのアナザー映司は、あくまで客演することが前提だから死なずに済んでいただけだと思います)

映司が本編で生き延びたのは、仮面ライダーになったことで経験したすべての出来事の積み重ねによる結果です。だから映司が生き延びたこと自体が今さら否定されるなら、最初から仮面ライダーになる必要なんてなかったことになり、ひいてはアンクと出会う必要もなかったことになります。

だから実際に今作におけるアンクの存在は、映司にとっていつ命を失ってもいい理由付けと看取り役でしかありません。比奈ちゃんも看取り役かつオマージュをアピールするための素材のような扱いですし、伊達さんが一応まだ息がある映司を平気で遠巻きに見ているのも異様です。後藤さんに至っては映司の自己犠牲を引き合いに出して「お前にそれができるのか?」とゴーダを煽って、映司のやったことを称えてしまっています。信吾さんは都合のいい憑依先で、知世子さんは「ちゃんと欲張れ」と言ってくれない。みんな映司の死をお膳立てさせられているだけ。

アンクの満足のためにはオーズの物語や映司たちの存在が必要だったけれど、映司の満足のためにはオーズの物語もアンクたちの存在も必要なかったなんて、ただただ不自然すぎます。


命そのものの否定

今作はアンク視点で展開するので当然なんですが、観る側も強制的に遺される側の立場に置かれます。だからどんなにキャラクターやシチュエーションや結末に違和感があっても、映司に死なれたらどれだけつらいかという想像や感情移入だけはできてしまうので、遺されたみんなを何とかしてあげられないのかという悔しさが頭から離れません。比奈ちゃんたちには日常や叶えた夢を奪われていった過程もあるわけで、失ったものが多過ぎる。

映司は本人が満足している演出になっているからまだしも、アンクがとにかく悲惨です。映司が生きられなかった分の残り寿命が流れ込んで復活したコアメダルなのでせいぜいあと数十年しかもたない…みたいな設定であってほしいです、せめて。人間並みの寿命で再び死ねるようになっていてほしい。

と思ってたら、そんな微かな希望も打ち砕く毛利さんの言葉がパンフレットに載っていました。「アンクは永遠に近い命を持っている。アンクの記憶の中で、映司はずっと生き続ける」…これぞまさに映司を都合のいい神様にしてしまった末路です。本編であれだけ否定されたことなのに。

自分の命を気にかけない映司と命を持たないアンクが、互いの欲望を通じて関わる中でそれぞれ命の意味を知ったはずなのに、永遠なんていう概念で映司とアンクを縛るなら生の象徴というべき欲望のエネルギーなんて描かれてきた意味がなかったし、命そのものの否定とすら感じます。

というか有限の命を代償にして、無限に生きるグリードをそのまま復活させられるのはおかしくないんでしょうか?


過去改変の可能性を探る(マンガあり)

受け入れたくなければ受け入れなければいいだけかもしれませんが、書き手だけで成立する小説等ではなくオリジナルキャストが結集して作られたものを完全に無視するというのは、私にはちょっと無理です。納得できなさすぎて却って無かったことにできないレベルなので、どうやったらこの結末に抵抗できるのか、自分なりに納得できそうなあの後の展開をずっと考え続けています。

映司の死にもアンクの復活にもちゃんと意味が生じる形にこだわって1つ思い付くのは、映司はアンクが過去を変えてくれる可能性に賭けていたというパターンです。

映司はMEGA MAXでミハルと会っているため未来で人類が絶滅していないことは確信しているはずですが、「もう残ってる人間はほんの少しだ」とウヴァが言うほどの被害が出ていて古代オーズやグリードたちを倒せる目処も依然立たないとなれば、もしかしてどこかで人類滅亡の歴史が改変されるポイントがあるんじゃないかと予想してもおかしくない気がします。

ミハルやポセイドンと同じように、未来のアンクも時空の穴を通って時間移動してきたことを映司は知っているので、復活したアンクが古代オーズの復活を阻止できる時間に行ってオーズやバースと共に戦って、人類滅亡の危機を事前に食い止めたからミハルが存在する未来に繋がったのかもしれないと考えた。だから序章ですでにアンク復活に命を捧げる決意をしていたというのであれば、 いつもの食えない映司だ!と思えるんですが…

映司に過去を変えたいという意図が無い場合でも、復活のコアメダルの結末の後にMEGA MAXの話題に誰も触れないとはさすがに思えないんですよね。だって比奈ちゃんたちにとっては最終話の後にアンクと会うのは初めてじゃないから、何かの拍子にアンクの前でその時の話をしそう。

そのあたりをちょっとマンガにしてみました。

女の子を助けて死ねた映司の満足を台無しにするのかという反論もあるかと思いますが、映司なら絶対にあの女の子だけじゃなく人類みんなを古代オーズの脅威から守りたかったはずですから、アンクがそれを汲む形で人類滅亡の危機も映司の死も回避させたっていいと私は思うんです。そして今作がアンクの記憶にだけ残るアナザーエンドということになってくれれば…

あるいは、既に時間軸が分岐しているパターンもあり得ます。MEGA MAXの10年後が今作とは限らない。(そういえばスーパータトバコンボのメダルはどこへ?)


おわりに

オーズが台無しにされたまま終わってほしくないのは、「いつかの明日」に希望を抱いてた頃のような気持ちでこれからもオーズの物語を大好きでいたいからです。子供の頃からずっと特撮ヒーローが好きですが、生きる力を一番もらったオーズはこれまでの人生で最も思い入れのある特別な作品です。

そして私にとって今作の脚本がどんなに受け付けなくても、俳優の皆さんがキャラクターに真摯に向き合われた結果である演技そのものには胸を打たれました。表情や仕草や声色は脚本ではなく演者に宿るものですし、舞台挨拶でのコメントや涙も忘れられません。

特に、渡部さんが撮影中も舞台挨拶でもあの明日のパンツを穿いていたという話がものすごく印象的でした。映司がもう明日のパンツを穿けないようにされてしまっても、映司が明日のパンツに込めている想いを大切にされているように感じて嬉しかったです。

最後に、公式エピソードではないですがひらパーのビルド&オーズショーで万丈が映司にかけた言葉が平ジェネを踏まえていて感動したので、載せておきます。

「あんたが繋いでくれた手が、あんたに届いただけだ」

映司が伸ばした手が誰かに届いて、回り回って映司自身に届く。そんな明日があることがオーズという物語には似合うとこれからも信じています。


長くなりましたが、ここまでお付き合いくださってどうもありがとうございました。

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