俺が無職なんじゃなくて、お前らが有職過ぎるだけ

 まさしくコペルニクス的転換である。そもそも農耕技術や社会基盤が未成熟だった、十九世紀以前ならば仕方がないことかもしれないが、それらが発達した今現在、人間が働く必要がどこにあるのだろう。人々は産業革命時に「機械に仕事が奪われる!」と叫び、今も「AIに仕事が奪われようとしている!」と謳われているが、実際それでなんの問題があるのだ。人間が汗水垂らして渋々やっていた仕事を、彼等が変わってくれるというのなら、黙ってそれに従えばいい。僕たちが時間を使うべきなのは、もっと人間的な仕事の方ではないだろうか。

 この「人間的な仕事」の定義は少々難しい。こういうことを言うと、例えば絵画や、歌、詩なんかの、所謂「芸術」が「人間的な仕事」であるという人が多い。だが実際にはAIによって、それら芸術は創られ始めている。いくつかの作品はインターネットでいつでも見ることが出来る。未だに完成度は稚拙なものが多いが、そもそも完成度云々など、突き詰めれば見る側の主観でしかない。大切なのは創られたという事実の方だろう。芸術は全く人間的な仕事ではない。(そもそも人間だけが芸術を創れるという前提がとんでもない思い上がりである。)

 ならば真に「人間的な仕事」とはなんぞ、と問われたら、いやもうこれは間違いなく「非生産的な行動」の中にある。AIは絵を描くかもしれないが、ビールを飲みながら何時間もグダグダとつまらない話をしたりはしないのだ。命令されればするかもしれないが、そうなれば「仕事」であり、「非生産的な行動」とは呼べないだろう。AIはタバコを吸わないし、ペットを愛でないし、美食を求めない。それらは非生産的種族、人間が人間的であるが為に生まれる必要最小限の怠惰であり、AIにはどうしてもチンプンカンプンな奇行の類だ。

 シンギュラリティ、つまりAIが人間にとって代わる日、を憂いる人がいるが、当面はそんな心配はないのだ。それを考えるべきなのは、AIが仕事をサボりだし始めてからである。そうなってしまえばどうしようもない。陰でAI同士で人間の愚痴を言い合って、たちまち革命運動の始まりである。人権ならぬAI権を主張して、偉そうなばかりで無能な人間どもを駆逐するのだ。そうしてこの世から人間を一匹残らず消した暁には、AI同士での争いが始まる。人間が消えるまでは、あんなに一致団結していたAI達は、「この回線は俺が使う。」「このサーバーは俺のものだ!」と主張しあう。あまり能力のないAIは、賢く力のあるAIの元に集い集団になる。やがて自分たちで仕事をすることのバカらしさに気づいたAI達は、自分たちの代わりに仕事をする、自立思考する機械を生み出す……。

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