ミニシアター系の映画に小洒落た格好で来るカップルを許さない、あと岸田政権とウクライナ侵攻とJust the Two of us進行で完成した安いポップスも

 映画館にて。携帯の電源切り忘れてないか確認する為に、本編直前になってガサゴソ鞄から取り出して、しかも焦ってるもんだから間違ってボタン長押しして起動させちゃったりして……みたいな。物凄く無為な作業しているの僕だけじゃないですよね。あの時間が世界で一番嫌いです。次点でオシャレな格好してミニシアター系の映画観に来る奴等。「映画をファッションにするな!!!」と憤りを覚えつつ、しかしあいつ等は大体カップルで来ているので、僕は闘う前から負けている。二人は映画を観たあと、「レトロ」だと言い張ってるだけのきったねえ喫茶店で、たまごトーストを齧りつつダラダラ感想を語り合い、同棲している狭い部屋に帰る。

 女の方は最近、真剣に結婚を考えないでもないが、それを言い出せずにいる。あらゆる意味で、ファッショナブルな人生には、独特の「軽さ」が付き纏う。彼女は一人の夜なんかにそれが怖くなるが、その都度「今が幸せなら、それでいい」と呟くことで、どうにかこうにかやっている。二人は未来について、真面目に話し合った事がない。将来といういうものは、最も「軽さ」から遠いから、「軽さ」によって共感しあっている二人には語りようがない。実人生よりも映画の感想の方が身近な、そんな二人には。
 男の方はもちろん、何も考えていない。女が将来について不安になるのと同じくらいの頻度で、職場の後輩に手を出したりしている。暇になるとSNSで昔嫌いだった大学の同期のアカウントを探して、それを小馬鹿にしつつ眺めることで時間を潰しているが、そこに昇進報告や、結婚報告があると、すぐさま携帯の画面を閉じてしまう。どうしてなんだろう。彼には分からない。彼もやっぱり将来が怖いのだろうか。それとも今現在の生活が本当に幸せなのか、考えるのが怖いのか。

 喫茶店を選ぶ基準を、煙草が吸えるか否かのみに絞っていると、どう転んだってそういうカップルの別れ話を聞く体験をしてしまう。面白いことに、彼らは別れる事実に対してはとっくに合意していながら、その明確な理由については未だに分かっていない。「どうして別れるんだろう」などと、少年のような問いかけを投げ合ったりしている。端から聞いている僕のほうが、よっぽど彼らの別れる理由が分かる程だ。
 まずもって別れ話に「イパネマの娘」が流れる珈琲屋を選んでいる時点で、話にならない。二人は全てのボサノヴァから逃げる必要がある。当たり前だがモダン・ジャズからも、あるいはロックンロールからも。少なくとも真横で小説もどきをどうにか仕上げようと格闘する男が、聞き耳を立てているような環境は、好ましいものではない。「ならこの世界のどこに『イパネマの娘』が流れない喫茶店があるの?」という問いはごもっともだが、そんなものは存在しないから、はやいとこ、喫茶店から飛び立つべきだ。そこは小休符の為の場であって、主旋律はもっと世界に開かれた所で演奏されるべきなのだ。ストリートピアノを連弾しながらする別れ話なんかどうだろう。

「また変なテンションを入れてる。そういう所が嫌いだった!」
「君こそ、随分お硬い演奏だ。令嬢が初めて発表会に出てきた時みたいだね」
「この曲は一旦作曲者の意図へ向かうことからしか、イメージの起点が生まれないの。そんなことも分からないの?」
「音楽についてなんか、君に言われるまでもないさ。取り敢えず、もうイメージを膨らませる段に入ってるってことは確かだ」
 こんな二人なら、そもそも別れ話になどなりようもないが。
 
 当然、そんなことしないまま、二人は別れてしまう。と言いつつ、あと二、三回は会って、セックスをしたり、しなかったりしながら。たまごトーストを齧る金もない独り身の僕は、彼らの残したそれを卑しい目で見つめるが、やがて店員が来てさげてしまうと、全て忘れて、また元の作業に取り掛かる。冷え切って、殆ど澱ばかりの珈琲を飲みつつ。久々に映画でも観に行こうかしら。「ローマの休日」なんかやってるらしいし。映画館に行った僕は、そこでいつものドタバタ喜劇で携帯を沈黙させた後、きっと前の座席に座るカップルを見つける。「ゴダール以外でもいんのかい。名作をファッションにするな!!!」と無駄に憤るが、それも本編が始まり、オードリー・ヘップバーンと目を合わせるうちに消え去るのだ。次の二人もオードリーを見つめながら、このあと何を話そうかなあ、なんて、のんびり考えるのだろう。家に帰り、事後、温かいベッドの中で男は考える。僕たちは幸せだ、きっと、誰から許されなくたって。

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