新春

 とうに既知ではあろうが、そう裕福でない男子大学生の大体には、元旦に吸う煙草より旨いものなど、夏至に飲むビールくらいしか思い当たらぬものである。そんなものを吸いながら浅草のガヤガヤした通りを眺めると、それを眺める我が幸福に思い当たり、同時に我が幸福の限度にも思い当たり、見つめた歩く人々の表情一つにも、人の世で経験し得る快楽の如何に脆弱であるかというのがひしと感じられて、その哀愁を肴に焼酎の味ばかり強まった白ホッピーを飲み込む。同行人達も概ねそんな調子で、しかし目はとうに据わっていたのだった。
 酒と、それについて回る酔いとは、常々不思議なもので、始めは楽しみの為に飲んでいたのが、次第に酔いの為に飲むようになり、気づけば酒の為に飲んでいたりする。そうして目的も手段もあやふやになった頃からが、飲み会の本番だとのたまう奴も多いが、実際そこまでいくと、前後不覚、足元朧気、胃中波濤、脳髄座礁。すんなり吐ければまだ良いが、酔っ払い特有の下らぬ矜持が顔を出すと、「いや、俺は吐かないでも大丈夫」などと戯言を抜かし、散々暴れに暴れた挙句、本人は路傍でぐっすり眠ったりして、周囲へかかる迷惑も青天井なのだから、やはり酒は適度に飲むのが肝心なのだろう。
 だが哀愁を肴にして飲む酒には、適度も何もあったものでない。グラスの上に乗りかかるは、酒のみならず。元旦に吸う煙草や夏至に飲むビールくらいの幸福を最大値にして垂れ流される人生への、限りない憐憫。それは自己憐憫ではない。もっと健康的な不幸である。墓参りで手向ける菊のような、ただなだらかな回顧の情念が、そこには宿っている。人生への回顧。「ああ、俺は幸せだ。誰かと酒を飲んで、まだ何処かに行ける……俺は、生きている……」ホッピーを飲み込む。安くて、頭が揺れる。僕の目も据わりだしているのだろう。
 顔を真っ赤にして通りに出ると、浅草寺からあぶれた様々な人が、様々なままそこにあって、例えば着慣れないだろう振袖の袂をどこそこにぶつけて歩く少女、紅い布地に金を挿した白梅の柄、同じく花のあしらわれた帯は少し緩み、つられてだらしない袂をぶら下げるなで肩、その由来の引き締まるうなじは雪ばんで白いが、それに冠される髪色は見事な金。何のことは無く、何処かから来た異邦の少女の、背伸びだったのだ。だが良く似合っていて、横を歩く父親らしき男も、髭で見え難い表情を、その上からでも分かるほど明るくしている。これでは東洋も西洋もない。
「異文化交流ってやつかなあ」
 そんな呟きに「は?」と訝しげにこちらを見つめる同行人達は、笑いながら酒を飲んでる分には良いが、叙情を語るには、風流の分からない連中だった。
 街に掲げられた提灯の内側には、フィラメントなりダイオードなりが仕込まれている。それによって飲み屋の喧騒は下品に明るく、酔いによって空に飛ばされた沢山の戯言が、他の戯言に消されていくのが良く照らされている。混じり合った戯言の渦中を、次は何処で飲もうか、何を飲もうかと、これまた戯言をブツブツ空気に投げ合いつつ歩くと、ふと頭上の月に気付く。欠けかけの月が、冷えた空の薄い雲に重なって、光がそれをキャンバスにしてだらしなく延び、真っ白にこちらを見下ろしている。去年より近視の進んだ目には、その月に一縷の影も見出せなくて、きっとこれからもそこに何某の影も見出しはしないのだろう。少し前で、くじらやがこの辺にある、とかなんとか、詮無い事を話している酔っ払いが、こちらへ振り向いて、「早く来いよ」と叫んできた時、年が明けたのだと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?