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庭における抽象表現

庭を考える軸として、『具体と抽象』が重要であるとこが分かってきた。

きっかけは、先日訪れた銀閣慈照寺。


そこで得た感覚は、『日本庭園を観賞している』ではない。

屋久島の森、近所の森、室町の京都、月面着陸、宇宙への入り口。一つの具体的なイメージ(視覚)から紐づけされる記憶だけではなく、自分の体を通して色々なものにつながっていく、心の扉が次々と開いていくような感覚だった。

体感的なことを掘り返して分析するのは野暮かもしれないが、これは銀閣寺という場が、抽象で構成されているためではないかと思う。

庭には、木、コケ、岩など、基本的な具体的な構成要素があるが、その構成要素そのものを紹介しているのではなく、多層的な意味を含む符号として存在している。俳句や詩を読んでいる感覚と近いかもしれない。

このような表現は抽象表現と言えるが、場において事象が必然的に存在しているため、漠然とはしておらずどこかピシッと締まっている。

日本庭園の歴史では、夢想礎石以降それ以前の自然描写を脱して象徴的な表現に変わっていき、それが定石となっていったと言われている。その最たる表現が、枯山水庭園で、究極までに要素をそぎ落とした抽象的表現と言える。では、枯山水庭園に行けば、心の扉が次々と開かれるような体験ができるのだろうか?というと、そうも簡単にはいかない。有名な庭園になればなるほど、『これは山を表していて…』、『これは海や川の流れで…』、『これが日本の美で…』など説明されすぎているせいか、なぜか具体的な記憶としか結びつかなくなってしまうことがある。

どんな有名庭園でも、『これ、あのJRのポスターのやつだな』みたいな、浅い感想で終わってしまうこともある。

極限まで抽象的に表現されたものが、具体的に理解されてしまうことで、皮肉にも抽象的に体験する機会が失われてしまう。

『本当に大切なことは目に見えないんだよ』

表現者であれ鑑賞者であれ、サングシュペリの星の王子様の言葉が突き刺さる。



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