人類は「進歩と調和」ができたのか?〜映画「太陽の塔」で考えること。

「太陽の塔」。1970年大阪万博の象徴である。岡本太郎氏作。大阪万博から、もうすぐ50年。いまだに万博記念公園にそびえ立ち、その圧倒的な存在感は、今なお健在の建造物?オブジェ?アート作品?だ。

1963年生まれの私は、当時小学一年生。アメリカ館に並んで、月の石を見に行ったものだ。その他、今でいう携帯電話やコンピュータ、ロボットなどに囲まれて、21世紀は素敵な未来がやってくるのだ。と、少年ながらワクワクしながら、親に何度も「万博に連れていけ」とせがんだ記憶がある。

それに。当時は外国人を見るのも珍しかった。外国人というだけでサインをもらったという映像をみて、遠い記憶も蘇ってきた。「うん。もらって、学校で自慢してた(笑)」

各国、各パピリオンが独特な建造物で勝負しているにも関わらず、その中でも異彩を放っていたのが「太陽の塔」である。映画の中でも岡本氏は語っているが「人類は進歩も調和もしていない」と。そう、大阪万博のテーマである人類の「進歩と調和」というものから、真っ向と反発している作品が太陽の塔であったというわけだ。

では、太陽の塔っていうのは、何だったのだ!

と言われても、岡本太郎氏は、もうこの世にいないので正確には解らないが、多くの人に強烈なインパクトを与えた塔だけに、多くの有識者が太陽の塔について語っているのが、この映画なのだ。

私が想像するに、岡本氏が、この太陽の塔に込めた思いというのは生命そのものの営みを表現することであって「人類としての原点を見失うな」というメッセージだと思ったりする。

例えば、劇中にも出てくるが311の話。あの時、人類はただただ、津波の前では無力であった。その時、人類は「生きている」ということとをただただ実感する。そこに人類の進歩などかけらもない。1,000年前に同じことが起こっていたとしても人は高台に逃げるしかない。また、今、大きな防波堤を築いているが、次の津波がくる頃にはコンクリートがボロボロで使い物にならないかも知れない。さらに、それを維持するほどの経済力もない。

「つまり、自然の営みからみると、ほとんど人類は進歩していない」のだ。

短期的な視点で見ると、1970年と比べると、携帯電話も、コンピューターも、ロボットも現実のものになった。しかし、当時、夢の技術とされていた原子力の核分裂も核融合も、未だに、うまく使いこなせていない。

そんな目先の技術ではなく、アメーバから進化してきた人類というものをじっくりと考えるべきではないか。そこに人類としての本当に大切な営みがあるのではないか。そんなMessageを様々な時代を乗り越えて普遍のものとして「太陽の塔」というのは存在しているのだという気がしてきた。

大阪府民のみならず、日本の塔の象徴として、日本国民及び日本を理解しようとしている外国人の方には、ぜひ、みて欲しい映画だ。ふむ。もう一度みたい。

映画「太陽の塔」



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